西暦1942年(昭和一七年)

概要

日本最古の宅配便(にあたる)とされている1927年鉄道省と運送業者が始めた集荷・配達を行う特別小口扱(宅扱)がこの年廃止される。 東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。 1942年中盤までは、枢軸国が有利だった。が、ドイツ、イタリアの枢軸国は徐々に行き詰まっていく。 ドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領。大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃していた。 日本軍も東南アジアから中部大平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でイギリス海軍を放逐したほか、アメリカ本土空襲をはじめとするアメリカ本土への攻撃を行った。 破竹の勢いで進撃し、アメリカ本土空襲やオーストラリア、マダガスカルへの攻撃を行った上、アジア太平洋地域の多くを植民地としていたイギリスやアメリカ、オランダ軍を放逐し、太平洋アジア全域に広大な占領地を得た。同年の珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で敗退し当初の破竹の勢いは止まるものの、広大な占領地を維持し続けその、影響圏をインド洋アフリカ沖やアリューシャン列島まで広げた。


1月1日、塩通帳配給・ガス使用量割当制実施
1月1日、円建公定制実施(為替相場のドル基準廃止)
1月1日、ワシントンDCで連合国共同宣言調印(枢軸国との単独不講和を確認)
1月2日、日本軍がマニラを占領
1月3日、神風号で亜欧連絡飛行を達成した飯沼正明飛行士がマレーで戦死(と発表)
1月6日、ドイツ軍はエル・アゲイラまで撤退。
1月8日、英米軍がタイ王国の都市攻撃を開始
1月8日、第1回大詔奉戴日
1月10日、大日本映画(後の大映)設立(日活・新興キネマ・大都映画が合併)
1月11日、日本軍がセレベス島に上陸
1月18日、ベルリンで日独伊軍事協定調印(米国西海岸を日本、米国東海岸を独伊の作戦地域と決定)
1月19日、ファン・イムホフ号事件
1月8日、イギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。
1月20日、独首脳が欧州ユダヤ人の殺害を決定(ヴァンゼー会議)
1月20日、ドイツはベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議を行った。
1月23日、日本軍がラバウルに上陸
1月25日、タイ王国はバンコクなど都市部への攻撃を受けて、イギリスとアメリカに宣戦布告。

2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。 日本海軍は、ジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
2月4日、ジャワ沖海戦
2月4日、英軍がカイロ王宮を包囲
2月9日、日本軍がシンガポールに上陸
2月14日、パレンバンに日本軍落下傘部隊降下
2月15日、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。
2月15日、日本軍がシンガポールを陥落させる。
2月16日、シンガポール陥落記念「国防献金附郵便切手」売出し
2月20日、バリ島沖海戦
2月27日、スラバヤ沖海戦 (-2月28日)

3月、バタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。 この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡。
3月1日、バタビア沖海戦
3月1日、日本軍がジャワに上陸
3月5日、東京に初の空襲警報発令
3月6日、海軍省が特殊潜行艇で真珠湾に突入・戦死した9名を「九軍神」として発表
3月8日、日本軍がラングーンを占領
3月8日、日本軍がニューギニアのラエ・サラモアに上陸
3月8日、日本陸軍もイギリス植民地ビルマ(現在はミャンマー)首都ラングーン(現在はヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大。
3月9日、ジャワの連合軍が降伏(蘭印軍9万3千人、英米豪軍5千人)
3月9日、スカルノが民衆総力結集運動を開始
3月12日、マッカーサーがフィリピンからオーストラリアに脱出
3月14日、陸軍次官通達「時局ニ伴フ猶太人ノ取扱ニ関スル件」及び「猶太人対策要綱」の廃止を決定。日本政府は、既に有名無実となっていた支援を完全に中止して、五相会議決定「猶太人対策要綱」を公式に無効にした。
3月14日、鉄道技術研究所設立
3月22日、第2次シルテ湾海戦
3月28日、英空軍がリューベックを大空襲

4月9日、バターン死の行進
4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)が行われる。これは日本の軍部に衝撃を与えた。 日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊は、インド洋にも進出。空母搭載機がイギリス領セイロンのコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。 イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニまで撤退。
4月18日、空母発進の米陸軍機16機が東京・名古屋・神戸などを初空襲(ドーリットル空襲)
4月28日、セイロン沖海戦の攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。 イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。 この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。 日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。
4月30日、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)

5月、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。 ドイツ軍は南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。
5月1日、日本軍がビルマのマンダレーを占領
5月5日、大本営がミッドウェー島・アリューシャン西部の攻略を命令
5月5日、英軍がマダガスカルに上陸(マダガスカルの戦い)
5月7〜8日、珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。 この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。 海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。 5月7日、コレヒドール島の米軍が降伏(日本軍が東南アジア全域を制覇)
5月7日、 珊瑚海海戦(〜5月8日)
5月15日、興亜工業大学(現千葉工業大学)開校
5月17日、井の頭自然文化園開園(日本初の放飼い動物園)
5月22日、飛行第64戦隊の加藤建夫中佐戦死(後に軍神とされる)
5月25日、第80臨時議会召集
5月26日、日本文学報国会結成(文藝家協会解散)
5月27日、プラハでラインハルト・ハイドリヒがイギリスの支援下にあった暗殺部隊の襲撃を受ける。ハイドリヒは6月4日に没する。(エンスラポイド作戦)
5月28日、メキシコが枢軸国に対して宣戦布告
5月30日、英空軍がケルン大空襲 6月、ミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に敗北。 オレゴン州のアメリカ海軍基地を砲撃し被害が出た事も有り、アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した。 一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。 しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

6月4〜6日、ミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失い(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。 加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点となった。 この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。 日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
6月5日、ミッドウェー海戦(〜6月7日 )
6月10日、ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのリディツェで住民を虐殺。
6月14日、アムステルダムの隠れ家でアンネ・フランクが日記を付け始める(アンネの日記)。
6月24日、ナチス・ドイツがラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復としてチェコのレジャーキで住民を虐殺。
6月28日、ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍が攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からボルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス(カフカス)地方の油田地帯を目指す。 一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。 7月、ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、アウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。 収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。 大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の支持、黙認の元に継続された。 最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。 7月1日、関門鉄道トンネル開業(貨物列車のみ)

7月1日、三好達治 戦争詩集『捷報いたる』
7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。

8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。 これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。
8月9日、ドイツ軍はマイコプ油田を占領した。ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた。 しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。
8月9日、第一次ソロモン海戦。アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。 昭和天皇は、飛行場砲撃成功の際「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告を発したが、参謀の妨害にあって(事故とも伝わる)伝わらず、結果お召し艦であった比叡を失った。
8月13日、米国でマンハッタン計画開始
8月23日、スターリングラード攻防戦が開始。まずドイツ軍は空軍機で爆撃。
8月24日、第二次ソロモン海戦。日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。

9月、日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府も、爆撃があった事実をひた隠しにする。
9月1日、大東亜省設置を決定。東郷茂徳外相が反対して辞任
9月1日、中部日本新聞(後の中日新聞)創刊(「新愛知」と「名古屋新聞」が合併)
9月13日、ドイツ軍は市街地へ向けて攻撃を開始。連日壮絶な市街戦が展開。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。
9月30日、東京新聞創刊(都新聞と國民新聞が合同)
10月11日、国鉄の時刻表が24時間制に変更
10月26日、南太平洋海戦(みなみたいへいようかいせん)が起こる。 先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。 日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。 日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。 それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。 その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。ソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦を示す。アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)。
昭和天皇は、南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。 アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、1国でイギリス、アメリカ、オーストラリア、中華民国を相手にする日本は次第に守勢に回るようになる。 ミッドウェイ海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、ガタルカナル以降は言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか...」などの独り言がよく聞こえたという。 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たる物があった。

11月1日、予科練制服に「七つボタン」採用
11月1日、産業経済新聞(後の産経新聞)創刊(「日本工業新聞」と愛知県以西の経済専門紙数社が合併)
11月4日、名物菓子保存のため特級店に例外公価設定(榮太樓・風月堂・虎屋他)
11月8日、連合国軍が北アフリカ上陸作戦を開始(トーチ作戦)
11月9日、仏ヴィシー政権が北アフリカ上陸作戦に抗議し対米国交断絶
11月10日、フランソワ・ダルランヴィシーフランス軍総司令官が、フランス領アルジェリアのヴィシー政府軍と連合軍の休戦協定を結ぶ。
11月11日、独軍がヴィシー政権統治下のフランス本土を占領(アントン作戦)
11月12日、第三次ソロモン海戦(〜11月15日)
11月15日、関門鉄道トンネルの旅客営業開始。ダイヤ改正も同時実施。
11月19日、ソ連軍は反撃を開始。
11月20日、日本文学報国会が「愛国百人一首」を発表
11月22日、独軍がスターリングラードでソ連軍に包囲さる(スターリングラードの戦い)
11月23日、ソ連軍は逆に枢軸軍を包囲する。

12月、日本軍のイギリス領マレー半島上陸作戦が開始。なお中華民国との間における戦争は続いていた。
12月2日、米国シカゴ大学でウラン核分裂連鎖反応に成功
12月7日、フランソワ・ダルラン大将がアフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。
12月8日、ニューギニアのバサブア島で日本軍兵800人玉砕
12月12日、ドイツ軍エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始。
12月19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
12月20日、汪兆銘南京政府主席来日
12月21日、丸の内・銀座で有線放送を実施
12月24日、第81議会召集
12月24日、ダルラン大将が暗殺される。
12月24日、帝国水産統制(後の日本冷蔵→ニチレイ)設立(日本水産から独立)
12月26日、三井船舶(後の商船三井)設立(三井物産船舶部が独立)
12月31日、大本営がガダルカナル島撤退を決定