西暦1944年(昭和一九年)

概要

ミハエル・コーガン、天津に渡り、貿易商を営む。 世界大戦の情勢は完全に逆転。ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。 独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。 さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。 しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。 この頃から、日本空軍の特攻作成が開始される。 明仁親王、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。 (終戦後帰京。なお、皇太子は陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。) 昭和新山の噴火が始まる。 オーストリアのハンス・アスペルガーが知的障害のない自閉症例を確認。(アスペルガー症候群) ビルマで反ファシスト人民自由連盟結成


1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放。
1月2日、米軍がニューギニア島のグンビ岬へ上陸
1月4日、モンテ・カッシーノの戦い開始
1月7日、大本営がインパール作戦を認可
1月14日、ソ連軍がレニングラードとノヴゴロドで攻勢を開始
1月15日、アルゼンチンのサンファンで地震
1月17日、イタリアのイギリス軍、ガリグリアノ川を越える
1月20日、イギリス軍ベルリン空襲。2300トンの爆弾を投下
1月22日、連合軍、シングル作戦開始
1月24日、大本営が大陸打通作戦を命令
1月24日、スイカ・メロンなど不急作物の作付禁止
1月26日、東京・名古屋で初の疎開命令(建物の強制取壊し)
1月27日、ソ連軍がレニングラード市を解放
1月29日、「中央公論」「改造」の編集者が検挙される(横浜事件)
1月29日、チステルナの戦い
1月30日、米軍がマーシャル諸島マジュロ環礁に侵攻
1月31日、米軍がマーシャル諸島クェゼリン環礁に上陸

2月、東京火災、帝国海上、第一機罐の3社が合併し、安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)を設立。
2月3日、米軍がマーシャル諸島占領
2月4日、大学・高専での軍事教育全面強化
2月7日、イタリア軍、アンツィオで反攻開始
2月10日、俳優座結成
2月15日、米軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃
2月17日、米軍によるトラック島空襲
2月17日、エニウェトクの戦い開始
2月23日、竹槍事件
2月29日、米軍がアドミラルティ諸島を占領(ブルーワー作戦)

3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。 スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。 しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3 万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。 これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
3月3日、政府が三綱領発表(国民学校学童給食・空地利用食糧増産・疎開促進)
3月4日、宝塚歌劇団休演前最終公演(ファンが殺到し警官が抜刀して整理)
3月5日、警視庁の指令により、待合茶屋・バー・料亭が閉鎖される
3月6日、全国の新聞で夕刊が廃止
3月8日、日本軍がインパール作戦を開始
3月10日、東京都が空地利用総本部を設置(戦時農園化、不忍池も水田に)
3月12日、岩手県宮古で豪雪(死者164名、全壊209戸)
3月18日、ドイツ軍がハンガリー王国を占領(マルガレーテI作戦)
3月20日、東京海上火災保険会社設立(東京海上・三菱海上火災・明治火災が合併)
3月27日、初の疎開列車(夜に上野発、上越・常磐・東北へ)
3月31日、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将が殉職(海軍乙事件)(公表は4月5日)
3月31日、松竹少女歌劇団解散(松竹芸能本部女子挺身隊結成) 日本軍、中国中部と南部で攻勢開始。

4月、ソビエト軍はクリミア、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退。
4月、日本軍が大陸打通作戦を開始(〜翌1945年1月)。
4月1日、旅行制限強化。

5月、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。 作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。
5月9日、ソ連軍、セヴァストーポリ解放。
5月12日、ドイツ軍がクリミア半島から撤退
5月18日、ソ連がクリミアからクリミア・タタール人を追放する

6月、フランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を強めていく。アジアでは、中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まる。 連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。 最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。 ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。 航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は惨敗を喫する。旗艦大鳳以下空母3隻、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊は壊滅した。 しかし、戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。 陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。
6月2日、拉孟・騰越の戦い(〜9月14日)。
6月4日、連合軍、ローマに入る。イタリアの首都ローマが解放。
6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)発動。 本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合軍は、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして(1940年以降ロンドンにあったフランス亡命政権「自由フランス」の指導者シャルル・ド・ゴール将軍率いる)自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。 多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。 6月9日、ソ連軍、フィンランドを攻撃開始
6月10日、フランスのオラドゥール村で虐殺事件
6月11日、米軍がサイパン島を含むマリアナ諸島に空爆開始。
6月13日、ヴィレル・ボカージュの戦い。ドイツ軍、V1飛行爆弾でのイギリス攻撃開始。
6月15日、米軍がサイパン島に上陸。(サイパンの戦い)
6月15日、米軍のB29が中国の成都を出発、翌日未明に北九州の八幡を爆撃。(B-29の本土初空襲)
6月17日、アイスランド共和国がデンマークから独立
6月19日、翌日までマリアナ沖海戦。
6月22日、ソ連軍がバグラチオン作戦を開始。 虚を突かれたドイツ中央軍集団は後退。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻。
6月23日、北海道で大噴火が起こり、新しく造山され、昭和新山と命名される。
6月26日、米軍がシェルブールに入る。

7月、マリアナ諸島のサイパン島がアメリカ軍に占領された。これにより、日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機B-29の行動範囲内に含まれる。 サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。 この頃から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで 45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。 当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。 しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
7月3日、ソ連軍、ミンスク解放。
7月3日、日本軍はインパール作戦を放棄。
7月7日、サイパン島で日本軍が全滅。
7月9日、イギリス軍とカナダ軍によるカーン占領。
7月17日、ポートシカゴの惨事
7月18日、日本の東条内閣総辞職
7月20日、ドイツでヒトラー暗殺未遂事件が発生。 敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり、国内予備軍司令部参謀長伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺計画が実行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑。
7月21日、米軍がグアム島に上陸し、グアムの戦いが始まる。
7月22日、日本で小磯内閣成立。
7月22日、米ニューハンプシャー州において開かれていた連合国金融通貨会議においてブレトン・ウッズ協定が締結される。国際通貨基金・世界銀行が設立。
7月22日、ルブリンにおいてポーランド国民解放委員会(ルブリン政府)が結成される。
7月25日、ノルマンディーのドイツ軍は、必死の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、コブラ作戦でついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。

8月、連合軍はパリ方面へ進撃を開始。 テニアン島、グアム島は連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。
8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡。
8月2日、トルコ共和国がドイツと断交
8月5日、大本営政府連絡会議を最高戦争指導会議と改称する
8月10日、グアムで日本軍全滅 8月10日、枢密院議長に鈴木貫太郎を任命
8月12日、連合軍、イタリアのフィレンツェ占領
8月16日、南フランスにも連合軍が上陸(ドラグーン作戦)。
8月20日、在支米空軍約80機が九州・中国地方に来襲。落下傘降下の米兵が逮捕される。
8月22日、沖縄からの疎開船対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃により沈没(学童七百人を含む千五百人が死亡)
8月23日、ルーマニア王国でクーデター(ルーマニア革命)。国王ミハイ1世が政権を掌握し、連合国と休戦して枢軸国から離脱
8月23日、HOYA(当時の社名:東洋光学硝子製造所)設立
8月24日、パリ市民が反独武装蜂起
8月25日、連合軍によるパリの解放。 自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。 フランスが解放された事により、親独ヴィシー政権は崩壊。指導者フィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になり、何人かの者は国外に逃亡した。 また女性は頭髪を丸坊主にされるなどの制裁を受けた。
8月25日、ルーマニア王国がドイツに宣戦布告
8月26日、ブルガリア王国が枢軸国から離脱
8月30日、台湾で徴兵制実施
8月30日、ソ連軍がルーマニアを占領

9月2日、フィンランドがドイツと断交。
9月3日、連合国軍がブリュッセルに入る。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。
9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦布告
9月6日、第85回臨時議会召集(11日閉会)。
9月7日、ベルギー政府が本国に復帰。
9月8日、ドイツがV2ロケットによるロンドン攻撃を開始
9月9日、シャルル・ド・ゴールによるフランス臨時政府成立
9月9日、ブルガリアで祖国戦線によるクーデター。
9月10日、ブルガリアがドイツに宣戦布告。
9月17日、一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアルンヘムを占領できず失敗する。 また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。 またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
9月19日、フィンランドとソ連が休戦。

10月、日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況であった。
10月2日、ポーランドの首都ワルシャワでの蜂起は失敗に終わる。
10月9日、イギリスのチャーチルとソ連のスターリンがモスクワで会談。 スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。
10月9日、ダンバートン・オークス会議で連合国が国際連合を提案。
10月10日、米国機動部隊、沖縄本島を空襲する。
10月12日、連合国軍がアテネに入城
10月12日、米軍が台湾を空爆、台湾沖航空戦(〜16日)
10月14日、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるエルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で、ロンメルは自殺。
10月15日、ハンガリー王国でドイツ軍と矢十字党によるクーデター(パンツァーファウスト作戦)。摂政ホルティ・ミクローシュが退位しドイツに亡命。
10月20日、ソ連軍がベオグラードを占領
10月21日、ドイツのアーヘンが陥落
10月23日、レイテ島の戦い。フィリピンの戦い (1944-1945年)が始まる。
10月25日、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。 日本海軍は空母瑞鶴などを米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。 この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。 この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。 また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。 戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

11月、東京をはじめとする本土の主要都市はB-29の空襲の被害を受けるようになり、軍需生産に大きな打撃を受けることとなる。
11月1日、新聞朝刊2ページに削減される。
11月7日、アメリカ大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが4選される。
11月20日、栗駒山噴火。泥土が噴出、磐井川が濁り魚が多く死ぬ。昭和湖が出来る。(日本火山総覧)
11月24日、マリアナ群島のサイパン米軍基地からB-29が東京を初めて空襲した。 サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。 太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きく、この段階で日本の勝利の可能性は完全に無くなったといってよい。 アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。 アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。しかし与えた被害は市民数名の死亡、数ヶ所に山火事を起こす程度であった。 また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、これも戦況の悪化により中止された。

12月7日、東海道沖で東南海地震発生。M(マグニチュード)7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件。この地震によって、軍需工場に大被害が出たことにより、太平洋戦争での日本の敗北が早まったとも言われている。 津波はカリフォルニアに達する。(日本被害地震総覧) 日本ではこの頃より、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。 日本軍は単発エンジンの戦闘機で体当たりするなど必死に迎撃したが、8,000m以上の高々度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。 満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約により、ソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。
12月10日、仏ソ相互援助条約調印
12月13日、名古屋市の三菱発動機第四工場に空襲。死者330人、負傷者356人。
12月16日、ナチス・ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢が始まる。
12月16日、ドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。 ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約 130km押し戻した。 しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。 この頃ドイツ政府は、イギリス経済を疲弊させることを目的としたイギリスポンドの偽札製作作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。
12月18日、名古屋市の三菱航空機大江工場と周辺の守山町・鳴海町など3か所に空襲。死者334人、負傷者253人。
12月22日、名古屋市の三菱発動機第四工場に再び空襲。この時は、熱田区や瑞穂区なども空襲に遭う。負傷者3人。
12月24日、第86議会召集
12月31日、ハンガリーの独立戦線臨時政府がドイツに対して宣戦布告