西暦1945年(昭和二〇年)

概要

国際連合が成立する。 東西冷戦が起こる。(〜1989年まで) 連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。 日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起。


1月、アメリカ軍はルソン島に上陸。
1月1日、米『タイム』誌が風船爆弾のモンタナ州落下を報道。
1月2日、連合軍がニュルンベルクを空爆。
1月2日、トルコ議会が対日断交を決議。
1月2日、米艦載機500機が台湾・沖縄を空襲。
1月3日、マリアナ諸島から発進したB29×78機が名古屋・大阪を空襲。
1月6日、リンガエン湾に侵入した米艦隊が艦砲射撃を開始。
1月6日、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった。
1月6日、B29×80機が九州を空襲。
1月9日、米軍がルソン島に上陸。
1月9日、B29×60機が関東・東海道・近畿を空襲。
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパチア山脈にかけての線で攻勢を開始。
1月12日、ソ連軍が大規模反攻を開始。
1月12日、バルジの戦いで独軍が撤退。
1月13日、三河地震。揺れは本州、四国の広範囲で観測されるが、被害は渥美半島付近に集中。中でも幡豆郡の被害が大半を占め、被害は総合で死者1961人、負傷896人、全壊5539、半壊11706。戦争末期で士気低下につながるとして全く報道されず。(日本被害地震総覧)
1月14日、B29×73機が名古屋を空襲、伊勢神宮外宮も被弾。
1月16日、西部戦線のドイツ軍はアルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。
1月16日、独軍がワルシャワより撤退。
1月16日、第4航空軍富永恭次司令官が独断で司令部をフィリピンから台湾に移す。
1月16日、アドルフ・ヒトラー独総統が総統地下壕での退避生活を開始。
1月17日、ソ連軍はポーランドの首都ワルシャワを占領。
1月18日、最高戦争指導会議で本土決戦体制を決定。
1月19日、ソ連軍はクラクフを占領。
1月19日、ソ連軍が独国境に到達。
1月19日、B29×80機が阪神を空襲。
1月22日、米国でフランクリン・ルーズベルトが大統領4期目を開始。
1月23日、ハンガリー臨時国民政府が連合国と休戦。
1月24日、ドイツでA4bロケットが発射される。
1月24日、ルソン島に上陸した米軍がマニラへの南進を開始。
1月27日、ソ連軍はアウシュビッツ強制収容所を解放した。 その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。 ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。
1月27日、バルジの戦い終結。
1月27日、B29×70機が東京(特に有楽町・銀座)を空襲。
1月29日、米艦載機130機がスマトラ島を空襲。

2月、アメリカ軍は首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。 2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(米軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。
2月4日、ヤルタ会談(ソ連)開催。アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連指導者スターリンが対日本戦について協議する。(2月11日まで) クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
2月13日、ソ連軍、ハンガリーのブダペスト占領(ブダペスト包囲戦終結)。
2月13日、イギリス軍、ドレスデン爆撃。
2月14日。近衛文麿の上奏が行われた。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言うとおりの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。近衛が共産主義革命を恐れた背景としては、皇室が日本最大の富豪であり資本家であった事実がある。
2月14日、チリ、エクアドル、パラグアイ、ペルーが連合国に加わる。
2月14日、近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)。
2月15日、B-29の54機によって三菱重工業名古屋発動機製作所や浜松市南部の海老塚地区・浜松基地などに空襲。
2月18日、アメリカ軍、硫黄島に上陸。
2月23日、アメリカ軍、フィリピンのマニラを占領。
2月23日、トルコが日本への宣戦布告ならびに国交断絶を正式に表明。
2月26日、エジプトが日本への宣戦布告を表明。 東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している。

3月1日、サウジアラビアが日本への宣戦布告を表明。
3月1日、日本の大審院が、1942年に行われた翼賛選挙における鹿児島2区の選挙結果を無効とする判決を下す(鹿児島2区選挙無効事件)。
3月3日、ソ連と休戦後中立であったフィンランドが枢軸国への宣戦布告を表明。
3月10日、アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)。死者は約10万人。 東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。 それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。 東京、大阪、名古屋の3大都市の他、仙台、横浜、神戸、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。 アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。 この結果、B-29迎撃はさらに困難となった。迎撃する戦闘機、熟練した操縦士も、底をついていた日本軍は、十分な反撃もできなかった。 当時ドイツの技術を参考にジェット機「橘花」を開発し、敗戦直前の8月7日に初飛行に成功するが、結局実用化には至らなかった。 また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
3月10日、岩手県盛岡市に空襲。630人が家を失い、3人が死亡、5人が負傷。
3月10日、宮城県仙台市に空襲。(仙台市内で1回目)
3月10日、東京大空襲(3月9日〜)(東京都心で2回目)
3月10日、千葉県銚子市に空襲。(銚子市内で1回目)
3月12日、愛知県名古屋市にアメリカ軍による初の市街地大規模空襲を受ける(名古屋大空襲)(名古屋市内で1回目) 3月13日、大阪大空襲(大阪市内で1回目)
3月13日、大阪府堺市で空襲。(堺市内で1回目) 死者・行方不明者 約1,860人、焼失家屋 約19,000戸。
3月15日、ドイツ軍はハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。 この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。 しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。
3月16日、硫黄島守備隊司令官栗林忠道中将が東京に訣別電報を送る。
3月17日、兵庫県神戸市で空襲。B29 309機飛来。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。(神戸市内で1回目)
3月18日、アメリカ軍がベルリンを空襲。
3月18日、大分県大分市に空襲。(大分市内で1回目)
3月19日、愛知県名古屋市に空襲。(名古屋市内で2回目)死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
3月19日、広島県呉市の呉軍港に空襲。(呉市内で1回目)
3月下旬、ビルマは「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
3月22〜24日、連合軍は相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃。
3月24日、愛知県名古屋市に空襲。(名古屋市内で3回目)
3月26日、硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦していた栗林中将配下の部隊が全滅(硫黄島の戦い終結)。
3月26日、アメリカ軍が沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸(沖縄戦の開始)。
3月27日、最後のV2ロケットがロンドンを空襲。
3月27日、アルゼンチンが日本ならびにナチス・ドイツへの宣戦布告を表明。
3月27日、福岡県小倉市(現・北九州市)に空襲。
3月29日、V1飛行爆弾による最後のロンドン空襲。
3月30日、ソ連軍がドイツ領オーストリアへの侵攻を開始する。
3月31日、福岡銀行設立。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。
4月1日、救援品輸送船「阿波丸」を米潜水艦が撃沈(阿波丸事件)。
4月1日、連合軍は沖縄本島へ上陸。
4月5日、小磯内閣総辞職。
4月5日、ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告。
4月6日、大日本育英会が戦災者子弟への優先貸与を発表。
4月6日、戦艦大和が沖縄に向けて徳山沖を出航。
4月7日、沖縄支援のため沖縄に向かった、世界最強の戦艦・大和も、米軍400機以上の集中攻撃を受けて撃沈。 残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、ここに日本海軍連合艦隊は完全に壊滅した。 連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与える。 日本軍は練習機さえ動員し、必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。 沖縄戦は両軍と民間人に死傷者数十万人を出し、日本国内で民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員の反撃で、アメリカ軍に大きな被害を与えた。
4月7日、鈴木貫太郎内閣成立。
4月7日、戦艦大和が沖縄へ向かう途中、坊ノ岬沖海戦で撃沈される。
4月7日、和歌山県新宮市で空襲。(新宮市内で1回目)
4月8日、岡山県玉野市に空襲。
4月11日、連合軍はエルベ川に達する。
4月11日、米軍がブーヘンヴァルト強制収容所を解放。
4月11日、スペイン政府が日本への宣戦布告ならびに国交断絶を表明。
4月12日、ルーズベルト米大統領急逝、ハリー・S・トルーマン副大統領が第33代大統領に昇格。
4月12日、福島県郡山市に空襲。死者460人。(郡山市内で1回目)
4月12日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で1回目)
4月13日、ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し、首都ウィーンを占領。
4月13日、ソ連軍がウィーンを占領。
4月13日、東京都内へ空襲。B29 330機が飛来。死者2459名。焼失20万戸。 爆撃により皇居の一部や明治神宮の本殿・拝殿が焼失(東京都心で2回目)
4月15日、英軍がベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放。
4月15日、東京都内へ空襲。B29 202機が飛来。死者841名。焼失6万8400戸。(東京都心で3回目)
4月15日、神奈川県川崎市に空襲、約200機のB-29が9,000発の焼夷弾と1,340発の爆弾を投下した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破。
4月16日、トルーマン米大統領が「日独の無条件降伏まで戦う」と声明。
4月20日、連合軍はニュルンベルクを占領。ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリッヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。 しかしその夜、彼らはベルリンから退去し始めた。
4月20日、ソ連軍がベルリン東北郊外に迫り、市街に砲撃を開始。
4月21日、大分県大分市に空襲。(大分市内で2回目)
4月22日、ソ連戦車隊がベルリン市街に突入(ベルリン市街戦、5月2日占領)。
4月23日、ベルリンを脱出したヘルマン・ゲーリングは連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。
4月24日、名古屋城の金鯱が疎開のため取外される。
4月25日、ドイツのエルベ川でソ連軍と米軍が合流(Elbe Day)。
4月25日、サンフランシスコ会議開催(6月26日まで)、国際連合創設について議論。
4月25日、イタリア社会共和国が降伏を表明する。
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(ベルリンの戦い)した。連合軍はベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する。 このような絶望的状況の中、ドイツ軍はまともな武器も持たないヒトラー・ユーゲントなど少年兵や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。
4月27日、伊首相ベニート・ムッソリーニが愛人クラーラ・ペタッチとともに逮捕される。
4月28日、ムッソリーニら銃殺される。
4月28日、ハインリッヒ・ヒムラーが、スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みているニュースがヒトラーのもとに届く。彼はヒムラーの官職の一切を剥奪する。 一方、開戦前からのヒトラーの盟友、(イタリア降伏後はドイツの傀儡状態となっていた)ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられる。 愛人のクラレッタ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。 4月29日、米軍がダッハウ強制収容所を解放。
4月29日、英空軍が窮乏中のオランダに食料を投下(マナ作戦 Operation Manna)。
4月30日、独総統アドルフ・ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・ゲッベルスが首相に就任。
4月30日、日本政府が官庁の休日全廃を決定。
4月30日、連合軍はミュンヘンを占領。ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーの自殺。
4月30日15時30分頃、盟友ムッソリーニが無残にも処刑され、長年共にいた側近の多くが降伏もしくは国内外に逃亡し、追い詰められたヒトラーは、自分の死体を見世物にされたり、宿敵スターリンの手に渡ることを恐れ、ベルリンの地下壕内で、前日結婚したエヴァ・ブラウンと共にピストル自殺(毒薬を飲んでとの説もある)。 死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定していた。
4月30日、静岡県浜松市に空襲。(浜松市内で2回目)

5月1日、ヨーゼフ・ゲッベルスが妻と6人の子供を道連れに自殺。 連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見された。 ユダヤ人絶滅計画をはじめ、ナチスの恐怖政治、ホロコーストの実行過程が明るみに出された。
5月1日、ドイツでヨーゼフ・ゲッベルス首相夫妻が子どもたち6人を殺害後に自殺。
5月1日、ユーゴスラビア軍がトリエステに入る。
5月1日、イギリス軍がラングーン(現在のヤンゴン)を占領。
5月1日、日本で藝備銀行、呉銀行、備南銀行、三次銀行及び広島合同貯蓄銀行が合併し、(新)藝備銀行(現:広島銀行)設立。
5月1日、鎌倉文庫創設。
5月2日、ソ連軍によるベルリン占領。 そのときベルリンの女性の多くがソ連兵に強姦された。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著白水杜)。 また東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。 ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという 。
5月2日、ベルリン陥落。ソ連軍がドイツ国会議事堂に赤旗を掲げる。
5月3日、連合軍はオーストリアのザルツブルクを占領。
5月3日、高知県野市町(現・香南市)に空襲。死者10名
5月5日、チェコスロバキアのプラハで対ナチ蜂起。
5月5日、デンマーク、ドイツ支配から独立。
5月5日、ドイツのデーニッツ大統領がUボートに戦闘停止を命令。
5月5日、広島県呉市の広工廠に空襲。(呉市内で2回目)
5月5日、大分県大分市に空襲。(大分市内で3回目)
5月7日、ドイツがフランスのランスで降伏文書に調印。
5月7日、ドイツのほとんどが連合軍に占領され、もはやドイツ軍の兵力も指揮系統も破綻し、ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥がソ連を除く連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハウアーの司令部に赴き、デーニッツ政府代表として降伏文書に署名した。 ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。 一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
5月8日、ドイツが連合国に降伏。ソ連に対しても無条件降伏し、同日ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst)の工兵学校におけるソ連軍に対する降伏式で陸軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥、海軍代表ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督、空軍代表ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ(Hans-Jurgen Stumpff)上級大将 による降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日から始まった、ヨーロッパでの戦争は終結した。 なおこの前後に、多数のドイツ軍上層部やナチス親衛隊員がバチカンやスペイン、ノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリなどの南アメリカ諸国に逃亡した。 日本はその後も戦い続けたが、ビルマ戦線ではイギリス軍の反攻が開始される。
5月8日、ドイツの降伏文書が発効。
5月9日、ドイツとソ連との間で降伏文書の調印式が行われる。
5月9日、ソ連軍がプラハに入る(プラハの戦い)。
5月9日、駐日ドイツ大使館で、ヒトラーの告別式が行われる。
5月10日、山口県徳山市(現・周南市)の第三海軍燃料廠へ空襲。死者500人以上、負傷者約1000人。(徳山市内で1回目)
5月10日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で1回目)死者115人。重傷者26人。軽傷者55人。
5月11日、兵庫県西宮市に空襲。(西宮市内で1回目)
5月11日、兵庫県芦屋市に空襲。(芦屋市内で1回目)死者39人。重軽傷者16人。全半壊175棟。
5月11日、兵庫県神戸市に空襲。(神戸市内で2回目)
5月14日、愛知県名古屋市に空襲。(名古屋市内で3回目)B29 480機が飛来。名古屋城の天守閣や金の鯱が焼失する。
5月15日、スロベニアでの戦闘が停止する。第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線が終結。
5月19日、静岡県浜松市の東部と北西部に空襲。死者450人(浜松市内で3回目の空襲。)
5月23日、ドイツでデーニッツ大統領が戦犯として逮捕される。
5月23日、ドイツの親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自殺。
5月23日、デンマークが日本への宣戦布告を表明。
5月24日、東京大空襲(〜5月26日) 3月10日の時を上回るB-29最大出撃規模の空襲。(東京都心で4回目)
5月29日、神奈川県横浜市に空襲。(横浜大空襲)B29爆撃機517機、P51戦闘機101機が焼夷弾31916個(2570トン)を投下。被災者は31万人を超え約8000人が死亡。

6月1日、兵庫県尼崎市に空襲。(尼崎市内で1回目)
6月1日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で2回目)
6月5日、兵庫県西宮市に空襲。(西宮市内で2回目)
6月5日、兵庫県芦屋市に空襲。死者11人。重傷者5人。(芦屋市内で2回目)
6月5日、兵庫県神戸市に空襲。死者3,184人 被害家屋55,368戸。(神戸市内で3回目)
6月5日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で2回目)
6月6日、ノルウェー国王ホーコン7世がノルウェーに帰国。
6月6日、ブラジルが日本への宣戦布告を表明
6月7日、大阪府豊中市に空襲、400機を超えるB29爆撃機が豊中上空に飛来。爆撃は1時間半にわたった。
6月7日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で3回目)
6月8日、第87臨時議会召集。
6月9日、愛知県名古屋市熱田区に空襲(熱田空襲)。死者1000人以上。(名古屋市内で4回目)
6月9日、岐阜県各務原市の陸軍航空廠に空襲。(各務原市内で2回目)
6月9日、兵庫県鳴尾村(現・西宮市)に空襲。(鳴尾村内で1回目)
6月10日、千葉県千葉市に空襲。(千葉市内で1回目)(千葉空襲)死者391人
6月10日、茨城県日立市に空襲。(日立市内で1回目)死者1200人以上
6月10日、茨城県土浦市に空襲。
6月11日、カナダでウィリアム・キングが首相に再選。
6月15日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で4回目)
6月15日、大阪府堺市に空襲。(堺市内で2回目)
6月15日、兵庫県尼崎市に空襲。(尼崎市内で2回目)
6月15日、兵庫県西宮市に空襲。(西宮市内で3回目)
6月15日、兵庫県芦屋市に空襲。(芦屋市内で3回目)
6月18日、静岡県浜松市に空襲。死者1720人。焼失家屋15400戸。(浜松空襲)(浜松市内で4回目)
6月18日、三重県四日市市に空襲、四日市上空に達したB29爆撃機89機が投弾を開始、1焼夷弾11,000発を投下し死者736人、行方不明者63人となる。(四日市市内で1回目)
6月18日、福岡県大牟田市に空襲。(大牟田市内で1回目)
6月18日、鹿児島県鹿児島市に空襲。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸
6月19日、福岡県福岡市に空襲(福岡大空襲)。B29爆撃機239機が飛来。罹災家屋12,693戸。死者902人、行方不明者244人、負傷者1078人となる。
6月20日、静岡県静岡市に空襲。死者1952人 焼失家屋30045戸。
6月20日、愛知県豊橋市に空襲。(豊橋空襲)死者624人。 6月21日、アメリカ軍が沖縄を占領。
6月21日、愛知県名古屋市に空襲。B29爆撃機120機が飛来。死者426人。負傷者327人。(名古屋市内で5回目) 6月22日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原空襲を参照。)(各務原市内で3回目)
6月22日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で3回目)
6月22日、岡山県倉敷市水島に空襲。(水島空襲)死者11人、重軽傷者46人。
6月22日、広島県呉市の呉工廠に空襲。(呉市内で3回目)
6月22日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で2回目)死者9人。軽傷者18人。
6月23日、沖縄が陥落する。アメリカ軍が沖縄を占領。
6月23日、沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決(沖縄戦の組織的抵抗が終結。後にこの日が沖縄県の慰霊の日と定められる)。
6月26日、サンフランシスコ会議で国際連合憲章が調印される。
6月26日、ギリシャが日本への宣戦布告を表明。
6月26日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原空襲を参照。)(各務原市内で4回目)
6月26日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で5回目)
6月26日、大阪府堺市に空襲。(堺市内で3回目)
6月27日、京都府京都市西陣に空襲。死者43人 負傷者66人 全壊71戸 半壊84戸 一部損壊137戸。
6月28日、広島県呉市に空襲。(呉市内で4回目)
6月28日、長崎県佐世保市に空襲。B29爆撃機141機が飛来。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災市民約6万5千人。(佐世保大空襲)
6月29日、チェコスロバキアはカルパティア・ルテニアをソ連に割譲する。
6月29日、岡山県岡山市に空襲、B29爆撃機約70機が飛来。死者1737人。罹災家屋25,000戸。罹災市民12万人。岡山城の天守閣などが焼失。→(詳しくは岡山空襲を参照。)
6月29日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で3回目)死者8人。重傷者2人 軽傷者18人。
6月29日、山口県下関市に空襲。(下関市内で1回目)
6月29日、福岡県門司市(現・北九州市門司区)に空襲。
6月29日、宮崎県延岡市に空襲。

7月、米空軍所属の爆撃機B - 29が日本上空に「爆撃予告ビラ」を散布。 「爆撃予告ビラ」の前面には、爆撃される都市を予告し、裏面には日本国民へのメッセージが書かれていた。
7月1日、連合軍によるドイツ分割統治が始まる(連合軍軍政期)。
7月1日、広島県呉市街に空襲。(呉市内で5回目)
7月1日、熊本県熊本市に空襲。(熊本市内で1回目)
7月2日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で4回目)人的被害はなし。
7月2日、山口県宇部市に空襲。(宇部市内で1回目)
7月2日、山口県下関市に空襲。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。(下関市内で2回目)
7月3日、兵庫県姫路市に空襲。
7月4日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で4回目)
7月4日、徳島県徳島市に空襲。
7月4日、香川県高松市に空襲、高松市はB-29戦略爆撃機116機による、焼夷弾の絨緞攻撃を受ける。被災地域は市街地の約80%、被害建築物18,913戸、罹災者86,400人、死者1,359名。
7月4日、高知県高知市に空襲。
7月5日、フィリピンが独立を宣言する。
7月5日、宮城県仙台市の芦の口(現・太白区)に爆弾投下。(仙台市内で2回目)
7月6日、ノルウェーが日本への宣戦布告を表明。
7月6日、千葉県千葉市に空襲。(千葉市内で2回目)(千葉空襲)死者1,204人
7月6日、山梨県甲府市に空襲。(翌7月7日にかけて)(甲府空襲)死者1,127名。全焼17,920戸。
7月7日、静岡県沼津市に空襲。(沼津大空襲)
7月7日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に空襲。(清水市内で1回目)
7月7日、兵庫県明石市に空襲。
7月9日、岐阜県岐阜市に空襲。(岐阜空襲) 死者約900人。住家を失った人は約10万人で市民の約60%。
7月9日、大阪府堺市に空襲 (堺市内で4回目)死者約1,860人 焼失家屋18,000戸。
7月9日、和歌山県和歌山市に空襲 (和歌山大空襲)死者約1,200人。
7月10日、宮城県仙台市に空襲。(仙台空襲) 死者約1,863人。(仙台市内で3回目)
7月10日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で6回目)
7月10日、大阪府堺市に空襲。(堺市内で5回目)
7月12日、宮城県仙台市に空襲。近郊地域に焼夷弾36個を投下。(仙台市内で4回目)
7月12日、栃木県宇都宮市に空襲 死者1,679人。
7月12日、福井県敦賀市に空襲。死者109人。負傷者201人。
7月12日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原空襲を参照。)(各務原市内で5回目)
7月12日、愛媛県宇和島市に空襲。(翌7月13日にかけて)(宇和島市内で5回目)死者28人。重傷者15人。軽傷者34人。
7月13日、愛知県一宮市に空襲。(一宮市内で1回目)
7月13日、宮城県仙台市に空襲。(仙台市内で5回目)
7月14日、岩手県釜石市に空襲。死者515人以上。
7月14日〜15日、北海道函館市に空襲。
7月14日〜15日、北海道小樽市に空襲。
7月14日〜15日、北海道苫小牧市に空襲。
7月14日〜15日、北海道網走市に空襲。 死者14人。
7月14日〜15日、北海道留萌市に空襲。
7月14日〜15日、北海道旭川市に空襲。 死者1人
7月14日〜15日、北海道室蘭市に空襲。 死者439人、負傷者23人。
7月14日〜15日、北海道釧路市に空襲。 死者192人、負傷者273人。
7月14日〜15日、北海道帯広市に空襲。
7月14日〜15日、北海道根室市に空襲。 死者400人、負傷者192人。
7月14日〜15日、北海道本別町に空襲。
7月14日〜15日、青森県八戸市に空襲。
7月14日〜15日、青森県三沢市に空襲。
7月14日〜15日、青森県大湊町(現・むつ市)に空襲。(大湊町内で1回目)
7月15日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で6回目)
7月15日、岐阜県多治見市で国鉄太多線を走行中の列車が多治見駅に到着する間際に機銃掃射を受ける。(多治見駅列車空襲事件)
7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で史上初の原子爆弾の爆発実験に成功(トリニティ実験)。
7月17日、ベルリン南西ポツダムにて、依然交戦中の日本の終戦と日本降伏後の処理を協議するポツダム会談が行われた。 イギリスのウィンストン・チャーチル首相、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。 この会談で日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表と、ドイツの戦後分割統治が取り決められたポツダム協定の締結が行われた。
7月17日、ポツダム会談開始。アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、南京国民政府主席の蒋介石が会談。
7月17日、茨城県日立市で艦砲へ射撃。(日立市内で2回目)死者317人
7月17日、神奈川県平塚市に空襲。B29 130機が飛来。死者544名。9077発・1039トンの焼夷弾により18954戸が焼失。
7月17日、静岡県沼津市に空襲。
7月17日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で7回目)
7月17日、三重県桑名市に空襲。(桑名市内で1回目) 死者416人。
7月17日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で5回目)
7月17日、大分県大分市と別府市浜脇地区に空襲。(大分市内で4回目)死者1193人。2358戸が焼失。
7月18日、千葉県白浜町(現・南房総市)の野島埼で艦砲射撃。死者6人。
7月19日、茨城県日立市に空襲。(日立市内で3回目) 死者2,199人。
7月19日、千葉県銚子市に空襲 死者337人。負傷者844人。(銚子空襲)(銚子市内で2回目)
7月19日、福井県福井市に空襲。 死者1,576人。
7月19日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で8回目)
7月19日、京都府長岡京市に空襲。 死者1人、負傷者数人。
7月20日、8時13分頃、新潟県長岡市の信濃川沿いの畑に模擬原爆パンプキン(以下・模擬原爆)投下。4人が死亡、5人が負傷。この長岡の空襲をきっかけに8月14日にかけて、模擬原爆が落とされていくことになる。
7月20日、8時34分頃、福島県福島市に模擬原爆投下。死者1人 負傷者2人
7月20日、福島県平市(現・いわき市)に模擬原爆投下。死者なし
7月20日、9時前、茨城県日立市に模擬空襲投下。死者1人 およそ10人が負傷。
7月20日、9時過ぎ、静岡県焼津市に模擬空襲投下。負傷者6人
7月20日、東京・八重洲に模擬原爆投下。死者1人 負傷者62人
7月20日、富山県富山市に模擬原爆投下。死者47人 負傷者40人以上。
7月20日、愛知県岡崎市に空襲。
7月20日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で9回目)
7月20日、9時26分頃、大阪府大阪市東住吉区に模擬原爆投下。死者80人、負傷者73人、倒壊など485戸の被害。
7月21日、アメリカ大統領トルーマンが原子爆弾使用を承認する。
7月22日、愛媛県宇和島市に空襲。人的被害はなし。(宇和島市内で6回目)
7月22日、高知県大方町(現・黒潮町)(翌・7月23日にかけて)に空襲。
7月22日、高知県土佐山田町(現・香美市)で空襲。
7月23日、フランス・ヴィシー政権の元首だったフィリップ・ペタンが反逆罪で告発される。
7月24日、三重県津市に空襲。 死者1,239人 (津市内で1回目)
7月24日、三重県桑名市に空襲。(桑名市内で2回目)
7月24日、三重県四日市市に模擬原爆投下。死者2人 負傷者4人。
7月24日、岐阜県大垣市に模擬原爆投下。死者20人 負傷者100人。
7月24日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で10回目)
7月24日、滋賀県大津市に模擬原爆投下。死者15人 負傷者250人。
7月24日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で7回目)
7月24日、兵庫県西宮市に空襲。(西宮市内で4回目)
7月24日、兵庫県神戸市に模擬原爆投下。4ヶ所への投下で、合計死者8人以上。
7月24日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で6回目)
7月24日、岡山県岡山市をはじめとして岡山県南部の操車場や運行中の列車などに機銃掃射。死者44人。
7月24日、広島県呉軍港に空襲。(呉市内で6回目)
7月24日、愛媛県新居浜市に模擬原爆投下。2ヶ所への投下で、合計死傷者36人
7月24日、愛媛県西条市の倉敷絹織(現・クラレ)西条工場に模擬原爆投下。負傷者7人
7月25日、愛媛県宇和島市に空襲。重傷者2人。軽傷者8人。(宇和島市内で7回目)
7月25日、大分県津久見市の保戸島で爆弾を投下。(保戸島空襲)児童125人、教師2人が即死。70数人が重軽傷を負う。
7月25日、和歌山県串本町で艦砲射撃。
7月26日、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。 このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。 もしここで、ポツダム宣言をすぐに受け入れて降伏していれば、少なくとも広島・長崎への原爆投下は無かったかも知れない。 またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。 アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす名目と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し、史上初の原子爆弾の使用を決定。
7月26日、ポツダム宣言発表。連合国は日本に降伏を要求する。
7月26日、イギリスで第二次大戦後初となる総選挙が実施され、労働党が第一党となる。ウィンストン・チャーチルは下野し、クレメント・アトリーが首相の座に就く。
7月26日、大阪府大阪市東住吉区に空襲。(模擬原爆による。)死者10人 負傷者85人。
7月26日、新潟県鹿瀬町(現・阿賀町)の昭和電工鹿瀬工場付近に模擬原爆投下。負傷者2人。
7月26日、新潟県柏崎市に模擬原爆投下。死者2人 負傷者6人。
7月26日、富山県富山市に模擬原爆投下。死者16人 負傷者40人以上。
7月26日、静岡県焼津市に模擬原爆投下。
7月26日、静岡県島田市に模擬原爆投下。死者49人 負傷者150人以上。
7月26日、静岡県浜松市に模擬原爆投下。
7月26日、愛知県名古屋市に模擬原爆投下。死者5人 負傷者多数。
7月26日、福島県平市(現・いわき市)に空襲。(模擬原爆による)死者3人 負傷者53人(平空襲)
7月26日、茨城県日立市に模擬原爆投下。死者1人
7月26日、愛媛県松山市に空襲。(夜11時頃〜日付を跨いで)(松山市内で1回目) 死者・行方不明者259人、被災戸数14,300戸、被災者62,200名。
7月27日、山口県徳山市(現・周南市)に空襲。死者482人。負傷者469人。(徳山市内で2回目)
7月27日、福岡県大牟田市に空襲。(大牟田市内で2回目)
7月27日、熊本県松橋町(現・宇城市)の国鉄鹿児島本線・松橋駅構内で列車が米軍陸軍機による機銃掃射を受ける。死者24人。
7月27日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で8回目)人的被害なし。
7月28日、B-25爆撃機がニューヨークのエンパイアステートビルディングに衝突、14名の死者。
7月28日、日本はポツダム宣言を黙殺する声明を出す。
7月28日、青森県青森市に空襲。(青森大空襲)死者731名、重傷者40名、軽傷者242名、焼失家屋15111戸 市街地の81パーセントを焼失。
7月28日、青森県大湊町(現・むつ市)に空襲。(大湊町内で2回目)
7月28日、広島県呉軍港に空襲。(呉市内で7回目)
7月28日、三重県津市に空襲。 (津市内で2回目)
7月28日、愛知県一宮市に空襲。(一宮市内で2回目)
7月28日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で11回目)
7月28日、鳥取県所子村(現・大山町)の国鉄山陰本線大山口駅構内で停車中の鳥取発出雲今市行き列車が機銃掃射を受ける。死者44名。負傷者31名以上。(大山口列車空襲事件)
7月29日、福島県郡山市に模擬原爆投下。(郡山市内で2回目)2ヶ所への投下で合計が死者49人 負傷者224人。
7月29日、東京都保谷市(現在の西東京市)に模擬原爆投下。死者3人 負傷者8人。
7月29日、和歌山県和歌山市に模擬原爆投下。
7月29日、京都府舞鶴市に空襲。死者97人 負傷者100人以上。
7月29日、山口県宇部市に3発の模擬原爆投下。20数名の死者。数名の負傷者。(宇部市内で2回目)
7月29日、岐阜県大垣市に空襲。(大垣空襲)
7月29日、静岡県浜松市で艦砲射撃。死者177人。(浜松市内で5回目)
7月30日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で12回目)
7月30日、三重県桑名市に空襲。(桑名市内で3回目)
7月30日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で9回目)死者100人。重傷者12人。軽傷者160人。
7月31日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で艦砲射撃。(清水市内で2回目)死者44人。

8月1日、新潟県長岡市に空襲。 死者1470人余。焼失11,986戸。(長岡空襲)
8月1日、茨城県水戸市に空襲。 死者1,535人。(水戸市内で1回目)
8月1日、千葉県銚子市に空襲。 死者4人。(銚子市内で3回目)
8月1日、東京都八王子市に空襲。 死者約2,900人。
8月2日、ポツダム会談終了。
8月2日、富山県富山市に空襲 死者約2,700人以上。B-29が174機で実施。目標破壊率は99.5%(全国一)。(富山大空襲)
8月2日、茨城県水戸市に空襲。(水戸市内で2回目)
8月2日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で13回目)
8月5日、群馬県の前橋市と高崎市に空襲 死者1,323人。
8月5日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で7回目)
8月5日、佐賀県佐賀市に空襲。
8月5日、東京都浅川町(現・八王子市)内を走る国鉄中央本線・浅川〜与瀬間で長野行き普通列車が米軍陸軍機による機銃掃射を受ける。死者52人。(湯の花トンネル列車銃撃事件)
8月5日、愛媛県今治市に空襲。(夜11時50頃から日付を跨いで)死者454人、重傷者150人、全焼家屋8199戸、罹災者34200人。
8月6日、兵庫県西宮市に空襲。死者716人。負傷者1,301人。(西宮市内で5回目)
8月6日、兵庫県鳴尾村に空襲。死者188人。負傷者235人。(鳴尾村内で2回目)
8月6日、兵庫県芦屋市に空襲。死者145人。重軽傷者170人。(芦屋市内で4回目)
8月6日、兵庫県神戸市御影に空襲。死者1,188人。負傷者1,582人。
8月6日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で8回目)
8月6日、宮崎県都城市に空襲。
8月6日、広島県広島市に原爆が投下される。米軍によって広島(原爆ドーム付近)へのウラン型原子爆弾(通称:Little Boy)投下。
8月7日、日本海軍が初の国産ジェット機「橘花」の試験飛行を実施。
8月7日、ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、有効の日ソ中立条約を破棄。
8月7日、愛知県豊川市の豊川海軍工廠に空襲。26分の間に、工場は壊滅。死亡者は2,477人。
8月7日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で9回目)
8月8日、深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告。
8月8日、ソビエト連邦は、対日宣戦布告
8月8日、三重県桑名市に空襲。(桑名市内で4回目)
8月8日、広島県福山市への焼夷弾(ナパーム弾)投下。(福山大空襲)死者354人 重軽傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人
8月8日、福井県敦賀市に模擬原爆投下。死者33人。
8月8日、徳島県徳島市に模擬原爆投下。
8月8日、愛媛県宇和島市に模擬原爆投下。死者18人。(宇和島市内で10回目)
8月8日、福岡県八幡市(現・北九州市)に空襲。
8月8日、福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市)の西鉄天神大牟田線の筑紫駅構内で西鉄福岡方面行き列車と大牟田方面行き列車双方が機銃掃射を受ける。(筑紫駅列車空襲事件)また、同じ福岡県内の久留米市にある西鉄天神大牟田線宮の陣駅でも同様に列車が機銃掃射を受ける。
8月9日、未明にソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始。
8月9日、午前、ポツダム宣言の受諾の可否について最高戦争指導会議が開かれる。
8月9日、午前11時02分、米軍が長崎市へ原子爆弾投下。
8月9日、深夜、ポツダム宣言の受諾の可否について御前会議が開催される。
8月9日、長崎県長崎市に原爆が投下される。ソビエト連邦(赤軍)は、満州国、中国北東部・満州や朝鮮半島北部、南樺太へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。 当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできずに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。 また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜としてシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。 彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。 満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は、流刑囚から多く結成されたソ連軍、日本を見限ったあるいはソ連兵に加担した多くの朝鮮人によって、集団的に強姦された(日本人の少年がソ連の女狙撃兵に強姦されるなど、被害者は女性だけではない)。 満洲や朝鮮(現在の北朝鮮が主)から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍、現地の朝鮮人に拉致され慰安婦あるいは性的奴隷のような扱いを受けるなど、数千から数万の戦時強姦被害者を出した。 しかし日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は混乱した。 連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。 しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。 米軍によって長崎へのプルトニウム型原子爆弾(通称:Fat Man)投下。投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。 なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員した、アメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
8月9日、青森県大湊町(現・むつ市)に空襲。死傷者300名以上。(大湊空襲)
8月9日、岩手県釜石市で艦砲射撃。死者301人。
8月9〜10日、宮城県気仙沼市に空襲。
8月9〜10日、宮城県女川町に空襲。
8月9〜10日、宮城県小牛田町(現・美里町)に空襲。
8月9〜10日、宮城県石巻市に空襲。死者6名。
8月9〜10日、宮城県矢本町(現・東松島市)に空襲。
8月9〜10日、宮城県多賀城市の多賀城海軍工廠(現・多賀城駐屯地)に空襲。
8月9〜10日、宮城県仙台市の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所(現・仙台駐屯地)や霞の目飛行場(現・霞目駐屯地)に空襲。(仙台市内で6回目)
8月9〜10日、宮城県岩沼市に空襲。
8月9〜10日、宮城県亘理町に空襲。
8月9〜10日、宮城県船岡町(現・柴田町)に空襲。
8月10日、未明、御前会議で「国体の護持」を条件に日本のポツダム宣言の受諾を決定、連合国側へ打電。
8月10日、午後8時すぎ、その旨を同盟通信社のモールス信号と日本放送協会の海外向け放送が伝える。
8月10日、大阪府堺市に空襲。(堺市内で6回目)
8月10日、和歌山県新宮市に空襲。(新宮市内で10回目)
8月10日、大分県大分市に空襲。(大分市内で5回目)
8月10日、岩手県花巻市に空襲。
8月10日、熊本県熊本市に空襲。(熊本市内で2回目)
8月11日 ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻。
8月11日、福岡県久留米市に空襲。死者212名。焼失家屋4506戸。
8月12日、連合国側が、国体護持には明瞭に触れず、降伏後の日本統治について回答(「バーンズ回答」)。
8月12日、麻山事件。
8月12日、愛媛県松山市に空襲。(松山市内で2回目)
8月12日、愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で11回目)人的被害なし。
8月12日、宮崎県宮崎市に空襲。
8月13日、バーンズ回答を巡って最高戦争指導会議・閣議が紛糾。
8月13日、小山克事件。
8月13日、長野県内の長野市、上田市に艦載機による空襲(長野空襲)
8月14日、午前11時、天皇が御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。
8月14日、午後9時、ラジオで「15日正午より重大発表あり」という旨の放送。
8月14日、午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に通知。
8月14日、午後11時20分、天皇が玉音放送を録音。
8月14日、終戦直後は8月14日が日本政府にとっての終戦の日であった。
8月14日、葛根廟事件。 8月14日、マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers、SCAP)に就任。
8月14日、大本営が攻勢作戦の停止を発令(自衛反撃は継続)。
8月14日、米軍が大阪砲兵工廠、光海軍工廠、土崎製油所などを爆撃。
8月14日、中ソ友好同盟条約締結。
8月14日、昭和天皇、ポツダム宣言受諾を決定。
8月14日、秋田県秋田市で空襲。 午後10時から翌15日未明にかけて134機のB-29が来襲。死者130名以上で詳細な人数は不明。
8月14日、愛知県春日井市の4か所に模擬原爆投下。死者7人、負傷者2人。(ただしこれは、2か所の被害状況の記録で、残りの2か所は不明)。
8月14日、三重県四日市市の2箇所に模擬原爆投下。死者2人 負傷者56人(ただしこの数は、2ヶ所のうちの1か所の数で、もう1箇所の被害状況は不明)。
8月14日、大阪府大阪市に空襲。(大阪市内で8回目)
8月14日、山口県岩国市に空襲。死者500人以上。
8月14日、山口県光市の海軍工廠に空襲。死者738名。
8月14日、群馬県伊勢崎市で空襲。(伊勢崎空襲)
8月14日、埼玉県熊谷市に空襲。(熊谷空襲)B29 82機飛来。死傷者687名。
8月14日、岐阜県各務原市に空襲。(各務原市内で14回目)
8月14日、愛知県挙母市(現在の豊田市)に模擬原爆投下。3か所に投下され、死者は出なかったが、落とされたトヨタ自動車の工場には甚大な被害があった。
8月15日、陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)。
8月15日、日本時間正午に昭和天皇の肉声で読み上げられた終戦詔書がラジオで放送される(玉音放送)。日本国民にとっての終戦の日となる(終戦の日)。
8月15日、鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月15日、神奈川県小田原市で空襲。500人以上が被災、30〜50人が死亡したと言われているが、正確な被害状況は把握されていない。
8月15日、宮城県仙台市に空襲。(仙台市内で7回目)
8月15日、秋田県秋田市で空襲。B29機が132機飛来。死傷者は300〜400名。この空襲が、日本での第二次世界大戦最後の空襲である(土崎大空襲)。 
8月15日、昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。 なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。 また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。 この放送における「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い(しかし、その発言はさほど重要ではない。詳しくは玉音放送を参照のこと)。 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、後に東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものとも言われる)。なお晩年、『猪木正道著作集4』を読み、「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」と、当時の首相中曽根康弘に伝えたという。この本では両者とも批判的に書かれており、天皇の人物観の一端が窺える。 後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。
8月16日、スターリンがソ連軍の北海道占領を米トルーマン大統領に要求(18日に拒否)。
8月16日、ベトミン、総蜂起を発動。
8月16日、タイが対米英宣戦布告の無効を宣言。
8月16日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。
8月17日、満洲国が崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。 満洲国の存在した地域は、古くは満洲(南満州)と呼ばれていたが、現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は「満洲」という呼称を避け、同地域を「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。
8月17日、インドネシアのスカルノとハッタ、インドネシア共和国のオランダからの独立を宣言。
8月17日、東久邇宮内閣成立。
8月18日、満州国皇帝愛新覚羅溥儀退位。
8月18日、ソ連軍が千島列島で攻撃開始。
8月18日、内務省が占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達。
8月18日、東京に飛来した米軍偵察機を高射砲・零戦で迎撃。
8月18日、退位した最後の中国皇帝、愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への逃命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束。
8月19日、日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。
8月19日、大本営が戦闘中止を発令。
8月19日、昭和天皇が東久邇宮首相に燈火管制解除等を指示。
8月19日、ベトナムで親日政権に対しベトミンが蜂起。
8月22日、樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。
8月22日、三船殉難事件。
8月22日、海軍総隊司令部が戦闘停止を発令。
8月22日、天気予報(ラジオ)復活(3年8カ月ぶり)。
8月22日、燈火管制解除・信書検閲停止。
8月23日、日本陸海軍の復員開始。
8月23日、音響管制解除・電報小包制限解除・娯楽興行再開許可。
8月23日、ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(シベリア抑留)。
8月24日、川口放送所占拠事件。
8月24日、松江騒擾事件。
8月26日、大東亜省・軍需省廃止、農商省を農林省と商工省に分離。
8月26日、終戦連絡事務局設置。
8月27日、占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)。
8月27日、敦化事件。占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。
8月28日、連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行場に到着(26日の計画であったが暴風雨のため2日遅れ)。
8月28日、東久邇宮首相が記者会見で「将来言論を活発に」「一億総懺悔」等発言(新聞発表は8月30日)。
8月28日、蒋介石・毛沢東による国共首脳会談開催(重慶会談)。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。
8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
8月30日、マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部 (GHQ/USAPA) を横浜税関に設置。
8月30日、ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を停止。
8月末、北方領土/択捉島、国後島がソ連軍により占領。
8月31日、米軍主力が横浜・館山に上陸。

9月1日、第88臨時議会召集。
9月1日、東京劇場興行再開。
9月1日、東亜交通公社が日本交通公社に改称。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印(第二次世界大戦終結)。 東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリスやアメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結した。
9月2日、GHQ: 陸海軍解体・軍需工業停止などを命令 (SCAPIN-1)。
9月2日、ホー・チ・ミンを主席とするベトナム民主共和国が成立。
9月2日、マッカーサー元帥が北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を発表。
9月3日、ソ連軍が日本の北方領土を占領。
9月3日、英人記者バーチェットが広島の惨状を取材し「No More Hiroshima」と打電。
9月4日、米軍進駐により神奈川県で女学校に休校を指示。
9月4日、ウェーク島の日本軍が降伏。
9月5日、マレー・シンガポールにイギリス軍上陸。
9月5日、GHQ: アイヴァ・ダキノを東京ローズとして逮捕。
9月6日、朝鮮人民共和国が建国宣言(11日に瓦解)。
9月6日、中央本線笹子駅で脱線事故(死者61名)。
9月8日、ソ連軍が朝鮮北部を米軍が南部を占領し分割統治が開始される。
9月8日、GHQ:マッカーサー元帥が東京に進駐。
9月9日、南京において中国の日本軍が降伏文書に調印。
9月9日、NHKが歌謡曲・軽音楽の放送を再開。
9月10日、GHQ:「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16) を発令し検閲を開始。
9月10日、GHQ: 大本営廃止 (SCAPIN-17) を発令(13日24時以前に廃止)。
9月10日、『インドネシアの声』放送開始。
9月上旬、北方領土/歯舞諸島がソ連軍により占領。
9月11日、東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條は自殺未遂)。
9月12日、GHQ:マッカーサー元帥が記者会見で「日本は四等国に転落」と発言。
9月12日、シンガポールの日本軍が降伏。
9月13日、大本営廃止。
9月13日、元厚相小泉親彦中将が割腹自殺。
9月14日、大日本政治会解散。
9月14日、GHQ:占領軍の動静を海外に発信していた同盟通信社に業務停止命令(事前検閲に移行)。
9月15日、GHQ:総司令部を東京・日比谷の第一生命館に移転。
9月15日、GHQ:民間検閲支隊フーバー大佐が「連合国に対する批判禁止・100%の検閲実施」を表明。
9月15日、誠文堂新光社「日米會話手帳」刊行。
9月17日、枕崎台風来襲(死者・行方不明2400名)。
9月17日、重光葵外相辞任(後任吉田茂)。
9月17日、瑞穂村開拓団集団自決。
9月18日、GHQ:鳩山一郎談話他を掲載した『朝日新聞』に発行停止命令(SCAPIN-34)。
9月19日、GHQ: 日本新聞遵則 (Press Code for Japan) を発令(SCAPIN-33)(発表21日)
9月19日、GHQ: ニッポンタイムズに発行停止命令(SCAPIN-37)
9月20日、文部省が教科書の軍国的表現に墨塗りを指示(終戦二伴フ教科用図書取扱方二関スル件)
9月21日、GHQ: 東京飛行場(羽田)を接収するため,海老取川以東住民に48時間以内の強制立退きを命令(三千名,千二百世帯)
9月22日、GHQ: 日本放送遵則 (Radio Code for Japan) を発令 (SCAPIN-43)
9月24日、GHQ:「新聞界の政府からの分離」を発令 (SCAPIN-51)
9月25日、外国人記者2名が昭和天皇に拝謁しインタビューを行う
9月26日、復員船第1船「高砂丸」がメレヨン島より別府に到着
9月26日、三木清が豊多摩拘置所で獄死
9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
9月28日、フランス軍サイゴン占領
9月29日、新聞各紙が昭和天皇のマッカーサー元帥訪問時の写真、および天皇のインタビュー記事を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とするが、GHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令 (SCAPIN-66) し頒布禁止を無効化。
9月30日、七尾市で支那人400名が警察署を襲撃

10月1日、米国でOSSが解散。
10月1日、光文社設立。
10月2日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) 設置。
10月3日、世界労働組合連盟発足。
10月4日、GHQ: 「政治的、公民的及宗教的自由に対する制限除去」発令。(SCAPIN-93, Removal of Restrictions on Political, Civil, and Religious Liberties)
10月5日、東久邇宮内閣が総辞職。(SCAPIN-93逡巡)
10月6日、特別高等警察が廃止される。
10月8日、インドネシア共和国軍とイギリス・オランダ軍が戦闘状態へ突入、内戦状態へ。
10月8日、米国で電子レンジの特許が出願される。
10月9日、幣原喜重郎内閣成立。
10月10日、中国国民党及び中国共産党の間で内戦回避を目的とした双十協定締結。
10月10日、徳田球一・志賀義雄ら政治犯11名が釈放。
10月11日、GHQ: 五大改革と憲法改正を指令。
10月15日、治安維持法が廃止される。
10月19日、駅名の表記が左書きに統一される。
10月22日、GHQ: 「日本教育制度ニ対スル管理政策」発令。 (SCAPIN-178, Administration of the educatinal system of Japan)
10月24日、国際連合憲章の発効に伴い、国際連合発足。
10月25日、台湾光復式典。台湾の領有権が、大日本帝国から中華民国に転換。 
10月25日、憲法問題調査委員会設置。(委員長松本烝治)
10月25日、警視庁が、東京都内における待合茶屋・バー・料亭などの営業を許可する。
10月29日、日本勧業銀行が第1回宝くじを発売する。
10月30日、GHQ: 「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」発令。 (SCAPIN-212, Investigation, screening, and certification of teachers)

11月2日、日本社会党結成。(書記長片山哲)
11月2日、新日本婦人同盟結成。(会長市川房枝)
11月6日、GHQ: 財閥解体を指令。
11月9日、日本自由党結成。(総裁鳩山一郎)
11月10日、インドネシア独立戦争: スラバヤで激しい戦闘。(Hari Pahlawan)
11月12日、福岡県内のトンネルで旧日本軍の火薬約532トンを焼却処分したら大爆発し死者147名。(二又トンネル爆発事故)
11月13日、シャルル・ド・ゴールがフランス臨時政府の首班になる。
11月16日、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)憲章採択。(発足1946年)
11月16日、日本進歩党結党。(書記長鶴見祐輔)
11月19日、GHQ: 戦争犯罪人の逮捕を指令。(松岡洋右・小磯国昭ら11人)
11月20日、ドイツで戦犯を裁くニュルンベルク裁判開廷。
11月23日、米国で食料配給制を終了。
11月23日、角川書店設立。
11月29日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が成立。チトーが大統領になる。
11月29日、世界初の電子計算機が作られる。

12月8日、GHQ、連合国司令部記述として全国の新聞へ太平洋戰爭史を連載させる。
12月9日、日本でGHQが農地改革を指令。GHQによって「眞相はかうだ」の放送が開始される。
12月15日、日本でGHQが神道指令を発する。
12月17日、日本でGHQの監督で衆議院議員選挙法が改正される。婦人参政権が認められる。
12月24日、生田警察署襲撃事件
12月26日、第89臨時議会召集。
12月27日、世界銀行発足
12月31日、日本のNHKラジオで「紅白音楽試合」(後の「NHK紅白歌合戦」の前身)放送。
12月31日、高野岩三郎「改正憲法試案要綱」発表。
12月31日、GHQ、「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は回収される。