西暦1年〜50年 - 歴史    歴史|EL XIII   

歴史

西暦1年〜50年

A.D./ B.C
「0(ゼロ)年」/グレゴリオ暦では、1年から始まる。 ニビルが太陽系に最も遠のき、地球に干渉。 ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが、イエスキリスト誕生から翌年を紀元1年とした。西暦は、6世紀にローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出されているため、この時点では、 まだ各国が独自の暦を基準に生活していたものと考えられる。また、現在の西暦が世界中に普及し始めたのは、15世紀以上も後の事である。当時、西暦を示す言葉は「Anno Domini(アンノ=ドミニ)」ラテン語で「主の年」と提唱された。これは神と神の子イエス=キリストが顕現した事を示している。 もともとは「主」の意味は「創造主=神」であったが「主」の意味が「イエス=キリスト」を示す言葉に変化して以降、少なくとも英語が確率された後世において、イエス=キリストが顕現する前の年は「Before Christ」と呼称されるようになる。この事から、年代表記は、「A.D.= Anno Domini」「B.C. = Before Christ」として定着する。
日本語では「紀元」という言葉を用い、そこに派生して「西暦」「紀元前」「暦」といった思考性を持っているため、概念的に宗教性を持っていないところからとくに大きな問題は発生していないが、ラテン語圏やアラビア語圏など、宗教性と思考や言語、概念が密接に関与する文化圏では、キリスト教圏で生まれた概念であるところに起因して、たびたび大きな問題となる事が多くあった。そこで、2000年代に至っては「共通紀元」という新しい概念が生まれ、「C.E. = Common Era」「B.C.E. = Before Common Era」という略称語を使うようになっている。

1年前後
M9級の南海トラフ超巨大地震が発生していた可能性がある。
高知県土佐市蟹ヶ池(海岸から400m内陸)で発見された、1900yBP前後の地層からの厚さ50cmを超える津波堆積物から推定された。岡村眞高知大特任教授は蟹ヶ池に到達した過去7千年の16回以上の津波の中で「最大級」とし、「巨大津波で千年分の記録をすべて消してしまうこともある。16回よりも多かった可能性もある」と伝えている。
1年(垂仁天皇三〇年):辛酉
日本/垂仁天皇が、五十瓊敷命・大足彥尊をよび、皇太子を決める。
中国/『漢書』地理志によると、この頃の倭は、百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をするとある。 中国/前漢の元号が元始に改元される。
中国/孔子に最初の諡号「褒成宣尼公」が贈られる。
メキシコ/この前後の年代に、オルメカ文明が滅亡。オルメカ文明の後期は闘争を好み、捕虜を捕まえては拷問し、次々に神の生け贄としたと判明している。
ペルー/モチェ文明が始まる。後に神への生け贄信仰が始まる。
ローマで、ミトラ神の信仰が盛んになる(※例えば、12世紀に建立されたサン・クレメンテ教会は、ミトラの神殿の上に建設されている)。
2年(垂仁天皇三一年):壬戌
中国/仏教が中国に伝来する。
中東/ローマ帝国とアルサケス朝パルティアで、第3次パルティア戦争が勃発。 初代ローマ皇帝アウグストゥス、元老院より「国家の父(pater patriae)」の称号が贈られた。 アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると、後継者問題に取り組んだ。 その際アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、妻リウィアの前夫との子という血のつながりはないが近い位置にあり、能力的には卓越していたティベリウスが「最後の保険」的な扱いをされ続けた末に、「正統な後継者」ゲルマニクスの中継ぎとして後を継ぐことになる。 当初、姉オクタウィアの息子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。 しかし、紀元前23年に彼が死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。 そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。
3年(垂仁天皇三二年):癸亥
日本/垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命が崩御。野見宿禰が埴輪を考案。
朝鮮/高句麗の瑠璃明王、卒本城から丸都城に遷都。
ローマ/パウロが誕生する。キリスト教の伝道者、『新約聖書』の著者の一人(+ 67年頃)
4年(垂仁天皇三三年):甲子
ローマ帝国/ ガイウス・カエサルが没したため、6月27日に、初代ローマ皇帝アウグストゥスはユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、ティベリウスを養子とした。 同時にティベリウスに甥ゲルマニクス(アウグストゥスと血が繋がる)を養子とさせ、ティベリウスの次まで定めさせた。
後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。 それでも死亡の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。 セクストゥス・アエリウス・カトゥス、ガイウス・センティウス・サトゥルニヌスが執政官に就任。 古代ローマの著述家コルメラが誕生。
朝鮮/南解次次雄、新羅の第2代国王に即位。
中東/パルティアの皇帝フラーテス5世と共同統治者の皇妃ムサ、廃位・殺害される。6年にオロデス3世が帝位に即く。
5年(垂仁天皇三四年):乙丑
日本/垂仁天皇が山背苅幡戸邊を娶る。亀と白い石の物語。
ローマ帝国/ティベリウス、低地ゲルマニア属州を制圧。 ローマ皇帝ティベリウスの孫娘、リウィア・ユリアが生まれる。 古代ローマの弁論家・詩人・歴史家、ガイウス・アシニウス・ポッリオが死去。
中国・前漢/ 王莽が平帝を殺害。九錫を授けられる。 劉?、三統暦を作る。 前漢最後の皇太子、孺子嬰が生まれる。 後漢の光武帝の皇妃、陰麗華が生まれる。 前漢の太師、孔光が死去。 前漢の第13代皇帝、平帝が死去。
エジプト/ヌミディア王ユバ2世とクレオパトラ・セレネの娘、ドルシッラが生まれる。
6年(垂仁天皇三五年):丙寅
日本/垂仁天皇が、高石池・茅渟池・狹城池・迹見池と800の水路を作る。
ローマ帝国/ マルクス・アエミリウス・レピドゥス、ルキウス・アッルンティウスが執政官に就任。 ユダヤとモエシア、ローマ帝国の属州となる。 ティベリウス、カルヌントゥム(英)を、マルコマンニ人(:当時のイングランド)のマロボドゥス王に対する拠点とする。 ティベリウス麾下の第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団(英)、マルコマンニと戦う。 ヴィースバーデンに要塞が築かれ、街の起源となる。 シリア属州総督プブリウス・スルピキウス・クィリニヌスが人口調査を行なう(フラウィウス・ヨセフスの記録による)。
ゲルマニクスの息子でティベリウスの後継者候補、ネロ・カエサルが生まれる。
エジプト/クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの娘、クレオパトラ・セレネが死去。
中国・前漢/ 王莽、孺子嬰を皇太子に立て、みずから「摂皇帝(皇帝代行)」となる。
7年(垂仁天皇三六年):丁卯
ローマ帝国/ パンノニア属州とダルマチア属州でイリュリア人がローマ帝国に対する反乱を起こす(9年にティベリウスとゲルマニクスによって平定される)。
ストラボン、『地理学』(Geographia)を執筆(18年頃執筆の説あり)。
ローマ皇帝アウグストゥス、ヘロデ大王の子でユダヤ属州総督のアルケラオスを解任。 プブリウス・クインクティリウス・ウァルス、ゲルマニア(中央ヨーロッパ)属州総督に指名される。 アブガルス5世、オスロエネ王を廃位される。
中東/ヴォノネス1世、パルティア皇帝に即位。(説1)
ゲルマニクスの息子、ティベリウスの後継者候補、ドルスス・カエサルが生まれる。
ローマ帝国の軍人、グナエウス・ドミティウス・コルブロが生まれる。 ストア派の哲学者、アテノドロスが死去。
8年(垂仁天皇三七年):戊辰
日本/垂仁天皇が、大足彦忍代別尊に皇太子を任命する。
中国/ 王莽により前漢滅亡。新が建てられる。 前漢から簒奪して皇帝位についた王莽は儒教において理想とされる周代の政治へと復古すると称して井田法を真似して全国の田地を全て国有にすることを決めた。また貨幣を新たに改鋳するなどの政策を打ち出した。しかしこれらの政策は当時の現実を無視したものであり、貨幣の度重なる改鋳は経済を混乱させ、地方に広い土地を所有する豪族たちの利益を損ない、大きな反発を受けた。 また外交政策でも過度の中華思想から匈奴や高句麗に渡していた王号を取り上げて、「降奴服于」「下句麗侯」などと言う称号を押し付けて、彼らの怒りを買い、離反を招いた。
ローマ帝国/ オウィディウス、アウグストゥスによって黒海沿岸のトミスへ追放される。 小ユリア、トゥリメルス島に追放される。
中東/ヴォノネス1世、パルティア皇帝に即位。(説2)
古代ローマの軍人、マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスが死去。
9年(垂仁天皇三八年):己巳
中国/ 1月10日(初始元年11月25日) - 王莽が新を建国、前漢が滅亡。
王莽、宝貨を定め、契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁ずる。
ローマ帝国/ イリュリクム属州での反乱が鎮圧される。 トイトブルクの戦いが起こる。プブリウス・クインクティリウス・ウァルス率いるローマ軍はアルミニウス率いるゲルマン人に大敗し、ローマ帝国はライン川以北の属州化を断念。 トイトブルクの戦いで壊滅した第17、第18、第19軍団に代わって第2、第13、第20軍団がゲルマニアに派遣される。 11月17日、フラウィウス朝のローマ皇帝、ウェスパシアヌスが生まれる。
古代ローマの軍人、プブリウス・クインクティリウス・ウァルスがトイトブルクの戦いで敗死。
10年(垂仁天皇三九年):庚午
日本/10月 五十瓊敷命が剣千口を石上神宮に奉納する。これが物部氏の始まりとされている。
ローマ帝国/ ローマ帝国のイリュリクム属州領域はパンノニア属州とダルマチア属州に分割される。 プブリウス・コルネリウス・ドラベッラとガイウス・ユニウス・シラヌス、執政官となる。またクィントゥス・ユニウス・ブラエススが補充執政官となる。 古代ギリシアの工学者・数学者、アレクサンドリアのヘロンが生まれる。 古代ローマの法学者、マルクス・アンティスティウス・ラベオが死去。(説1)
中国/ 新で銅貨(6)、金貨(1)、銀貨(2)、亀貨(4)、貝貨(5)、布貨(10)からなる6系統28種類の貨幣制度が施行。
11年(垂仁天皇四〇年):辛未
古代ローマの法学者、マルクス・アンティスティウス・ラベオが死去。
12年(垂仁天皇四一年):壬申
ローマ帝国/ アンニウス・ルフス、ユダヤ属州総督に指名される。 オウィディウス、流刑先の黒海沿岸で、『祭暦』を執筆。 ゲルマニクスと ガイウス・フォンテイウス・カピト、ローマの執政官となる。 キリニウス、ティベリウスの相談役となるためユダヤ属州から戻る。 8月31日、ローマ皇帝、カリグラが生まれる。
13年(垂仁天皇四二年):癸酉
ウクライナ/アブガルス5世、オスロエネ(エデッサ)王に復位。
ローマ帝国/ティベリウス、ゲルマニアからローマに凱旋。 元帝(劉爽)の皇后、王政君が死去。
14年(垂仁天皇四三年):甲戌
ローマ帝国/ 8月19日、急に体調不良になりナポリはポンペイ近郊のノラの町で肺炎が原因で76歳で死去したと後のスエトニウスが書いた皇帝伝に記録されている。 最期の言葉は「この悲劇の世界で私は喜劇を演じきった。だから私を喝采で送ってくれ」であった。 遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーのAugustus = August つまり8月と記された。 そして暗殺されたユリウス・カエサルつまりJulius = July には7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。
※ ※ ※
カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て神として古代に崇められた人物の名である。
1月 = January  / ローマ神話:入り口と扉の神ヤヌス(Janus)
2月 = February  / ローマ神話:死と純化の神フェブルウス (Februus)
3月 = March  / ローマ神話:戦いの神マルス (Mars)
4月 = April  / ローマ神話:愛と美の女神Aprodite アプロディーテ(ラテン語のaperire)
5月 = May  / ローマ神話:豊穣を司る女神マイア (Maia)
6月 = June  / ローマ神話:ユピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー):結婚と豊穣・女性を守護女神ユノ(Juno)
7月 = July  / ユリウス・カエサル(Julius Caesar :シーザリオン)
8月 = August  / Augustus 初代ローマ皇帝アウグストゥス
9月 = septembre  / ローマ暦:7番目の月
10月 = octobre / ローマ暦:8番目の月
11月 = novembre  / ローマ暦:9番目の月
12月 = decembre  / ローマ暦:10番目の月
ローマの政治家・軍人、アウグストゥスの後継者候補の一人、アグリッパ・ポストゥムスが死去。 アウグストゥスの娘、大ユリアが死去。 アウグストゥスの死去を受け、ティベリウスがローマ帝国の第2代皇帝に即位。 ゲルマニクス、元老院によってゲルマニア総督に任命される。 ゲルマニアに駐留していた軍団がゲルマニクスの即位を求めて反乱を起こすが、ゲルマニクスはティベリウスの即位を承認。 パンノニアに駐留していた軍団が待遇改善を求めて反乱を起こす。
東アジア/ 新羅で、元号が天鳳に改められる。
『三国史記 新羅本紀』によれば、この年倭人が兵船百余隻で新羅の海辺に侵入した。
15年(垂仁天皇四四年):乙亥
ローマ帝国/ エモナの町が建設される。
9月24日、ローマ皇帝、ウィテリウスが生まれる。
11月6日 、ローマ皇帝ネロの母、小アグリッピナが生まれる。
東アジア/前漢末期から新代にかけての武将、孫建子夏が生まれる。(生年不詳)
16年(垂仁天皇四五年):丙子
9月16日 、ローマ皇帝カリグラ、小アグリッピナの妹、ドルシッラが生まれる。
17年(垂仁天皇四六年):丁丑
東アジア/ 各地に農民反乱が続出する。その嚆矢となったのが瑯邪郡海曲県(現在の山東省青島の近く)の呂母と呼ばれる老婆である。彼女の息子は県庁に勤めていたが、些細なことで県宰(県長官)により捕らえられて死刑に処された。 これを恨んだ呂母は金を使って人を集めて、海上にて集結し県宰を襲って殺した。本懐を遂げた呂母は没するが、一度集められた雑軍たちは解散するわけにはいかず、樊崇と言った者たちを首領として山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となる。この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことからこの名前がある。 一方、呂母の乱の少し後に王匡・王鳳と言ったものたちが緑林山(湖北省当陽県)を根拠として農民を吸収して反乱軍を指揮した。こちらは緑林軍と呼ばれる。
ローマ帝国/ 古代ローマの詩人、オウィディウスが死去。 古代ローマの歴史家、ティトゥス・リウィウスが死去。
18年(垂仁天皇四七年):戊寅
中国にて、赤眉の乱が起こる。
19年(垂仁天皇四八年):己卯
ローマ/10月10日、ローマ帝国の軍司令官、第2代皇帝ティベリウスの甥、ゲルマニクスが死去。歴史家スエトニウスは、ゲルマニクスを政敵とみなしていたティベリウスが、シリア属州総督ピソに命じてゲルマニクスに毒を盛ったのだと主張(現在ではマラリアによる病死が定説)している。ゲルマニクスの息子カリグラは、母アグリッピナの元で暮らす事となったが、アグリッピナはティベリウス帝との関係が悪化したためローマから追放された。またティベリウス帝は、アグリッピナの新しい夫となる人物が自分の地位を脅かす存在となることを恐れ、アグリッピナが再婚することを禁じた。
20年(垂仁天皇四九年):庚辰
ローマ皇帝クラウディウスの妻、メッサリナが生まれる。 クラウディウス朝の元老院議員、グナエウス・カルプルニウス・ピソ、ユリウスが死去。 ローマ帝国2代皇帝ティベリウスの最初の妻、ウィプサニアが死去。
21(垂仁天皇五〇年)年:辛巳
中国/ 緑林軍、軍の内部で疫病が流行したために一つのところにいることが出来なくなり、分裂する。 片方は南下して下江軍と呼ばれるようになり、もう片方は北上して南陽(河南省南陽)に入った。こちらは新市軍と呼ばれるようになる。新市軍は南陽の豪族であり、宗族でもある劉氏と手を結び、再び勢力を盛り返した。この劉氏の中に劉秀(後の光武帝)と劉秀の兄である劉?(りゅうえん、?は糸偏に寅)がいる。分裂した緑林軍は再び合流。
22年(垂仁天皇五一年):壬午
中国/王莽は当然これらの反乱軍に対して討伐軍を送る。赤眉軍には王匡(緑山軍の王匡とは別人)を将軍とする討伐軍を出したが、赤眉軍に敗れた。上記の眉に赤を塗ったのはこの戦いからである。更始帝軍は南陽の中心都市である宛を占領し、王莽の討伐軍に宛の近くの昆陽を包囲されるが、劉秀の活躍により打ち破った。この後の王莽は相次ぐ敗戦に錯乱してしまったようで、「昔から大きな災いの時には大きな哭き声で呪いをしたものだ。天に向かって哭いて救いを求めるのが良い。」などといった進言を大真面目に取り上げて、人数を集めて哭き声が大きかった者は官僚として取り立てると布告し、それで取り立てられた者が5000人になったと言う。この有様に全国に反王莽の群雄が起こり、王莽は長安に乱入した群盗により殺された。
23年(垂仁天皇五二年):癸未
中国/ 分裂した緑林軍は、劉氏の中の劉玄を擁立し、元号を新しくして更始とし、劉玄は皇帝となった。これ以後の劉玄は更始帝と呼ばれる。 王莽が殺された後に更始帝軍は関中に入って長安を制圧した。しかし長安に入った更始帝軍は一気に堕落して、財宝をかき集めて日夜宴会を開き、政治はまったく省みることが無かった。赤眉軍は王莽が死んだ後に更始帝軍に服属することを約束したが、この有様を見て独自路線を歩むことに決めて、長安に対しての遠征を決めた。 その頃の劉秀は優秀さを更始帝と側近たちにねたまれて長安制圧後に河北の制圧をするようにと左遷されていた。河北には王郎・銅馬軍と言った勢力がいたが、劉秀は現地の豪族と手を結び、苦戦しながらも銅馬軍を降す。 昆陽の戦いで劉秀(後の光武帝)軍が新軍に勝利。 10月、更始帝軍の攻撃により王莽が討たれ、新が滅亡。 10月6日。中国新の皇帝、王莽が死去。 中国新代の武将、光武帝の兄、劉寅が死去。(糸+寅)
ローマ帝国/ ストラボンが「Geographica」を発刊。 古代ローマの博物学者、政治家、軍人、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)が生まれる。 9月14日。第2代ローマ皇帝ティベリウスの息子、小ドルススが死去。 マウレタニア王、ユバ2世が死去。
24年(垂仁天皇五三年):甲申
劉秀、王郎を滅ぼして河北を統一。
25年(垂仁天皇五四年):乙酉
劉秀、皇帝位について元号を建武とし、洛陽を首都とした。配下に銅馬軍が多かったために他の勢力からは銅馬帝と呼ばれた。 赤眉軍は西進して関中を攻めた。まったく弛緩しきっていた更始帝軍は敵しえず、更始帝は投降した後で殺された。しかし長安に入った赤眉軍は更始帝軍をなぞるように略奪を行い、略奪する物が無くなると東の故郷へと帰り始めた。
26年(垂仁天皇五五年):丙戌
垂仁天皇の治世五五年にして、アスス暦753年と推定される。
ナザレのイエスが、バプテスマの聖ヨハネの弟子となる。 「マルコによる福音書」によれば、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるところが描写されている。
27年(垂仁天皇五六年):丁亥
ローマ帝国/ローマ皇帝ティベリウス、カプリ島に隠遁、ローマの統率をセイヤヌスに一任する。
福音書に記録されている祭典の回数等から、ナザレのイエスがこの頃より宣教を行ったと考えられる。場所はおもにガリラヤ湖周辺でおこなわれていた。 ガリラヤ湖の北西岸には、ミグダル・ヌナヤ(魚の塔)=マグダラ(現ミグダル)という都市が存在しており、ローマの属州時代以前においては王国であったと思われる。 一説によれば、マグダラのマリアは、ミグダル・ヌナヤの女王であったと言われている。
中国/ 光武帝の部下である鄧禹・馮異は東帰する赤眉軍を待ち受けて大勝し、赤眉軍を降伏させた。 完全に群を抜いた勢力となった光武帝は河南の劉永・安徽の李憲・山東の張歩と言った群雄勢力を制圧。
28年(垂仁天皇五七年):戊子
ローマ帝国/マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの娘、ユリアが死去。
ユダヤ教サドカイ派が、バプテスマの聖ヨハネを捕え処刑する。 ナザレのイエスの元に弟子が集まり始める。彼らはイエスをキリスト(救世主:メシアもしくはメサイヤ)と呼ぶようになる。 ただし、人々を救済する者としてではなく、パレスチナの地からローマを追い払い、ユダヤの独立をとりもどす指導者=救世主という意味で用いられた。 ユダヤ教サドカイ派やパリサイ派から、ナザレのイエスとその集団がユダヤ独立運動家の集団として危険視されるようになる。
中国/後漢の第2代皇帝、明帝が生まれる。
29年(垂仁天皇五八年):己丑
ローマ/ゲルマ二クスの長子にしてカリグラの兄である、ネロ・カエサルが反逆罪容疑で追放処分となる。
ゲルマ二クスの息子カリグラが、初代ローマ皇帝アウグストゥスの妻にして2代ローマ皇帝ティベリウスの母であるリウィアの元へ送られて生活する。 のちにリウィアが死去。リウィアの死去後、カリグラは祖母(ゲルマニクスの母)小アントニアの元へ送られて生活する。
ティベリウス帝が、公の場でネロ・カエサルと大アグリッピナを攻撃し、ネロはポンティア島に、アグリッピナはパンダテリア島に流された。 カリグラの次兄ドルスス・カエサルがアエミリア・レピダと結婚するが、セイヤヌスが罠にかけられ、反逆罪容疑で収監される。
30年(垂仁天皇五九年):庚寅
ナザレのイエスによる宣教活動が、大規模なものになったため、サンヘドリン(ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織)が、ナザレのイエスの逮捕に踏み切った。 福音書によれば、サンヘドリン(最高法院)のメンバーがイスカリオテのユダを買収しイエスを捕縛したが、イエスになんら罪を見出せなかったため、偽りの証人をたてて、神への冒涜の咎で死刑を宣告し、ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスに引き渡したとされている。
ローマ帝国・パレスチナ/パレスティナでナザレのイエスが処刑される。
史実は不明だが「イエスの復活」の奇跡がおこり、ここから「イエスはキリストだ」とする集団が発生した。 ここでいう「キリスト」は、先のユダヤ独立の指導者としての意味合いではなく、人々を救済する者=救世主の意味合いに変わった。(キリスト教が成立する。) ナザレのイエスの足取りは、復活の奇跡以降、途絶える事となる。キリスト教会では昇天=アセンションしたという話で終わっている。 一方で、イエス=キリストは復活の奇跡以降も存命しており、エルサレム〜トルコ間の地域で目撃されたという伝承も残っている。
一説によれば、35-86年の間、イスラエルよりイエスキリストが十支族(秦氏)と共に陸奥の地に到来。そのまま生涯を終える。(現、八戸郡新郷村の民話) これには諸説あり。尚、現在、日本に伝わっているキリスト教の教えは新約聖書、旧約聖書の一文のみであり、復活祭以後の教えにふまえられているこの説は伝わってはいない。キリスト教カトリック派、プロテスタント派もこの説を黒聖書(アポクリファ)、つまり異端として否定している。 また、垂仁天皇が伊勢神宮を建立した(と言われているが諸説あり、『ホツマツタエ』によれば、現在の位置に遷都した可能性が高い)後に、アーク(契約)の聖櫃を奉ったとされる。年代不詳。(伊勢神宮-内宮口頭伝)   

イエスキリストが十字架刑によって処刑される。
イエスキリストの復活。
日本に到来後、「日周りの法(太陽の法)」を習得。 十二支族がこれをイスラエル(カナン)に持ち帰り、それぞれで法を分割して秘密裏に伝える。 一部は、バチカンにて、厳重に保護されるが、その法は「神人合一の法」である事が、後に判明。

2017年3月30日に、英国の歴史家で聖書研究者のラルフ・エリス氏が約30年にわたって続いた研究結果により、 エリス氏は、1世紀半ばに現在のトルコ南東部にあったオスロエネ王国(エデッサ)を統治していたマヌ王とイエス・キリストは同一人物であるとの結論に達した。 エリス氏はマヌ王とキリストの伝記を研究し、2人の間に一致や共通点があることを発見、これは偶然ではないとの見方を示している。 エリス氏は、同じ人物が後に「イザス・マヌ王」と「イエス・エマニュエル」という名で有名になったとの考えを示している。
ローマ皇帝ネロの2番目の妻、ポッパエア・サビナが生まれる。
カリグラの次兄ドルスス・カエサルが、カプリ島からローマへ送られ、パラティヌスの宮殿に幽閉され兵の監視下に置かれた。 セイヤヌスが有力元老院議員であったガイウス・アシニウス・ガッルスを投獄した。 カリグラの長兄ネロ・カエサルも飢餓もしくは自殺により客死する。 カリグラと3人の姉妹ユリア・リウィッラ、ドルシッラ、小アグリッピナが軍によって軟禁される。
31年(垂仁天皇六〇年):辛卯
エルサレム/ユダヤ教ファリサイ派に属していたパウロ(サウロ)が、エルサレムでの高名なラビであるガマリエル1世のもとで学んでいた時、キリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場だった事から「イエスはキリストだ」とする集団を根絶しようとし、信者を取り締まっては牢に入れた。
ローマ/カリグラと3人の姉妹ユリア・リウィッラ、ドルシッラ、小アグリッピナが、カプリ島に隠遁しているティベリウス帝に引き取られ、そこでティベリウス帝の個人的庇護を受けながら6年間生活することとなる。
10月17日。元老院にてセイヤヌスが弾劾される。
10月18日。古代ローマの親衛隊長官、セイヤヌスが死去。かつて小ドルススの妻であり、後にセイヤヌスの愛人となったリウィッラも死去。
32年(垂仁天皇六一年):壬辰
ローマ帝国/ 4月25日。ローマ皇帝、オトが生まれる。
中国(後漢)/ 漢書の著者の一人、班固が生まれる。 後漢の武将であり班固の弟、班超が生まれる。(両者は双子か?)
33年(垂仁天皇六二年):癸巳
ローマ帝国/10月18日。初代ローマ皇帝アウグストゥスの孫娘、大アグリッピナが死去。
34年(垂仁天皇六三年):癸巳
シリア/ パウロ(サウロ)がダマスコ(現ダマスカス)にて、ナザレのイエスの声を聞き、使徒になった。
使徒行伝では以下の内容が記載されている。
パウロ(サウロ)がダマスコ(現ダマスカス)にて、ナザレのイエスの声を聞き、その直後視力を失う。 その後、アナニアというキリスト教徒に出会う。ある時、アナニアが神のお告げをきき、サウロのために祈りを捧げる。 すると、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、サウロは視力を取り戻した。
これらの出来事により、パウロはキリスト教に改宗し、使徒となる。 しかし、パウロはこれまでにキリスト教迫害の立場にいた事もあり、改宗直後はユダヤ人たちから何度も激しく拒絶され命を狙われた。
35年(垂仁天皇六四年):乙未
ローマ帝国/11月8日。後のローマ皇帝ネルウァが生まれる。
36年(垂仁天皇六五年):丙申
ペルセウス座流星群が初めて観測された。
ローマ帝国/ポンティウス・ピラトゥスがユダヤ総督を罷免される。
37年(垂仁天皇六六年):丁酉
ローマ帝国/ 3月16日、ローマ皇帝ティベリウスが死去。
ローマ皇帝として、カリグラが即位。 クラウディウス(後の4代皇帝)がカリグラと共にコンスルに就任、同時に元老院議員に加えられる。パルティアとローマが和睦する。
後漢/光武帝、蜀の公孫述を滅ぼして全国を統一した。
38年(垂仁天皇六七年):戊戌
ローマ帝国/クラウディウスとメッサリナが結婚。
ティベリウス・ゲメッルスが死去。(諸説有り)
39年(垂仁天皇六八年):己亥
12月30日。ローマ皇帝ティトゥスが生まれる。
40年(垂仁天皇六九年):庚子
ベトナム/徴側・徴弐(チュン)姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。
ベトナムは後漢からの独立をはたす。
ローマ/ローマ帝国/グラウディウスが第4代ローマ皇帝として即位。 7月13日。後のローマ帝国ブリタニア総督、グナエウス・ユリウス・アグリコラが生まれる。 後の第5代ローマ皇帝ネロの最初の妻、クラウディア(クローディア)・オクタウィアが生まれる。 オクタウィアは、後にローマ皇帝ネロの最初の妻となる。ローマ皇帝ネロの実父、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスが死去。
???年
ナザレのイエスの母マリアが使徒ヨハネとともに晩年、小アジアのエフェソスで余生を送ったと伝えられる。現トルコの小村アヤソルクに、マリアが晩年を過ごしたといわれる地に『聖母マリアの家』という礼拝堂が建てられている。
41年(垂仁天皇七〇年):辛丑
1月24日。第3代ローマ皇帝カリグラ、親衛隊により暗殺。第4代ローマ皇帝クラウディウス即位。 ローマには一時的に空位の状態が発生した。 元老院にはこの機に乗じて共和政の復活を目論む者もいたが、共和政が復活すると職を失うことになるプラエトリアニが、カリグラの崩御から24時間足らずでクラウディウス(当時50歳)を皇帝に擁立。 第4代ローマ皇帝クラウディウス即位。先帝カリグラが崩壊させたローマの財政を立て直した。「国家反逆罪法」による処罰を廃止する。
2月12日。第4代ローマ皇帝クラウディウスと3番目の妻であるメッサリナとの間に、ブリタンニクスが生まれる。
後の皇妃メッサリナの評価は非常に低いものとして、伝わっている。
彼女と同年齢の女性はもちろんこの時代、客を誘っての会食、宴席を楽しんでいたが、メッサリナは愚かにもこの種の他人の交わりが度を越して、自分の性欲を満たすほどにまでに及んだ、と強調して述べている。よく後世に伝わっていることでは、メッサリナはローマの下賤な売春宿にスキッラという名前で一晩中男たちと交わり続け、ある時には夜明けまでに25人もの男を相手にしてもまだ物足りなかった、すなわちメッサリナは疲れてはいたが、満たされてはいなかったらしい。 また彼女はクラウディウスをそそのかし、彼女を不快にさせた者や彼女の敵対者を処刑させたりもした。強欲さ、冷酷さの代名詞として彼女の名「メッサリナ」が使われたと言う。
42年(垂仁天皇七一年):壬寅
3月3日。韓国(朝鮮)の金官伽耶の太祖、首露王が生まれる。(人+耶)
※金官伽耶は、伽耶(から)国の事。ゆくゆくは「韓」へと変化していく。
43年(垂仁天皇七二年):癸卯
4代ローマ皇帝クラウディウス帝が、ブリテン島(現在のイギリス)遠征し南部を制圧。ノーフォーク地域にあるケルト人イケニ族の国王プラスタグスが敗戦。クラウディウス帝は属州ブリタンニアを建国した。
以降370年もの間でローマの支配が続き、ケルト人の文化が次第にローマ化していく。
44年(垂仁天皇七三年):甲辰
高句麗/ 10月、大武神王が死去。 太子の解憂(次代の慕本王)が幼少だったために国人(閔中王:びんちゅうおう)が即位。 『三国史記』高句麗本紀では先代の大武神王の弟、『三国遺事』王暦では大武神王の子とする。 11月、閔中王が即位直後に大赦を行なう。
ローマ/皇帝クラウディウスがブリタンニアから帰国し、凱旋式を挙行する。
ポッパエア・サビナがルフリウス・クリスピヌスと結婚する。
45年(垂仁天皇七四年):乙巳
インド/クシャーナ朝が建国。
46年(垂仁天皇七五年):乙巳
垂仁天皇の治世七五年にして、アスス暦773年と推定される。
47年(垂仁天皇七六年):丁未
ヤコブス・デ・ウォラギネ著の「黄金伝説」に記されている、聖女マルタについての伝説。
キリスト教布教のためにサント=マリー=ド=ラ=メールからやってきた聖女マルタ(聖母マリアの姉?)がネルルク(黒い森:ブーシュ=デュ=ローヌ地方(フランスの最南端)辺り)の村を訪問する。 この時、怪物タラスクの話を聞いた。
古よりこの土地に人食いの怪物あり。硬い甲羅に鋭い背鰭と山猫のような身体で、6本の肢をもち、竜のようなの角とワニのような顎をもつ姿をしている。毒息を吐き、灼熱の糞をまき散らす邪悪な竜の眷属で、性質は獰猛。人を喰らい、特に子供を好む。
聖女マルタは、これを鎮めるべく森に入る。 聖女マルタの目前に怪物タラスクが現れるも、聖女マルタは臆することなく一心に祈りを唱え聖水を振りかけ、タラスクを沈黙させた。 結果、聖女マルタは怪物タラスクを鎖に繋なぎ、これを手なずけた。
聖女マルタが怪物タラスクを連れて村に戻ると、長年苦しめられてきた多くの村人たちは、怪物タラスクを決して許すことなく石飛礫でもって怪物タラスクを撃ち殺した。
この伝承を持つ、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ではタラスクの名にちなんで、タラスコンという街名となり、今に残っている。 ローヌ川対岸にあるオクシタニー地域圏のボーケールとは、古くから土地と水利を巡って争いが絶えなかった歴史的経緯をもっていて、交流に乏しいと言われている。
48年(垂仁天皇七七年):戊申
後漢/匈奴が南北に分裂し、南匈奴が後漢に服従。 後漢の武将、朱姑が死去。(姑;衣+古)
ローマ/皇帝クラウディウスが国勢調査をおこなう。
皇妃メッサリナが元老院議員のガイウス・シリウスと結託してクラウディウスを殺害を計画、そしてシリウスと結婚する。 メッサリナはほとんどの元老院議員が自分の側に廻ると確信していたが、計画はクラウディウスの側近ナルキッススの耳に入り、シリウスとその取り巻きは即刻処刑される。
皇妃メッサリナがローマ皇帝クラウディウスによって自死を命ぜられる。 メッサリナはクラウディウスから自殺する猶予を与えられたが、自分で死ぬことができず、命を受けた者によって殺される。
金官伽耶/インドの阿踰陀国の許黄玉王女が、首露王の王后となる。
高句麗/高句麗の王、閔中王が死去。
49年(垂仁天皇七八年) : 己酉
ローマ/ローマ皇帝クラウディウスが姪である小アグリッピナと結婚。小アグリッピナは先帝カリグラの妹であるが、権力のためだけにクラウディウス帝に近づき、法律で許可されていなかったはずの叔姪婚を行ったとされている。
後漢/後漢の武将、馬援が死去。
高句麗/閔中王の兄である解憂が王位に就く。 2月、将軍を派遣して後漢の北平・漁陽・上谷・太原を襲撃させたが、遼東太守の蔡形は恩義と信義とをもって対応したので、両国間の関係は和親に戻った。 『後漢書』蔡?伝に拠れば、匈奴対策として鮮卑などを懐柔しようとした蔡?が鮮卑の朝貢に対して何倍もの下賜品を与えたことを伝え聞いた高句麗が、それまで敵対していたにもかかわらず後漢の遼東へと朝貢を行ったという記事があり、符合している。 8月、国内の飢えた民に施すこともあったが、後には人の上に座ったり人を枕にするなどして揺れ動いたものは容赦なく殺し、諫言する臣は弓で射殺すなど、暴虐の王と化した。
50年(垂仁天皇七九年) : 庚戌
ローマ/この頃、ローマ人からは鉛中毒が多く発生した痕跡が多数発見されている。サパと呼ばれる酢酸鉛を主成分とした甘味料が多く摂取されていた事や、ワインの製造器具から醸造過程で多くの鉛が混入してローマ人の健康を蝕んだ可能性が指摘されている。
2月25日。ローマ皇帝クラウディウス、ネロを養子とし、帝位継承者とする。
後漢/後漢の武将、堅鐔が死去。