西暦101年〜150年

101年:辛丑
カンボジアで扶南が建国される。
ローマに派遣された中国の軍事大使、甘英が死去。
新約聖書に登場するイエスの使徒の一人ヨハネが死去。
ローマ教皇クレメンス1世が死去。
102年:壬寅
後漢の武将(班固の弟)班超が死去。
???年頃
歴史上にサクソン民族が登場する。ザクセンともいう。
この頃に登場するサクソン民族は、現在のノルウェー半島とドイツをつなぐデンマークのホルシュタイン地方南西部にあった小部族を母体とし、やがて個々の部族が協力しあい、部族国家として北ドイツ地域まで拡大していった民族と言われている。ケルト特有の民間信仰や文化を持ちつつも、その中に北オリエント文明の民間信仰も取り入れた事からか、南ザクセン人の多くは、自分たちの祖先はスキタイ民族(現在のブルガリアやルーマニアにあった民族)であると考える部族もあった。 サクソン人という呼び名は、片刃の直刀の武器「サクス」に由来していると言われている。スクラマサクスもまた、古ドイツ語にあるスクラマ=「深い切り傷を負わせる」、サクス=「ナイフなどの刀剣」の意味。 おおよそサクソン人と呼ばれた民族のほとんどは、サクスを携帯していた事がうかがえる。
105年:乙巳
後漢/元興に改元。 後漢の蔡倫が製紙法を改良する。
高句麗/宮(太祖大王)が、遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿菱の反撃にあって大敗。
106年:丙午
第2次ダキア戦争でトラヤヌス率いるローマ軍がデケバルス率いるダキア軍を撃破。これによりダキア全域をローマの属州とした。 ローマ帝国、ナバタイ及びアラビアを属州化。
107年:丁未
倭国王帥升ら、後漢の安帝に生口160人を献上する。
(後漢・永初1、丁未;『後漢書』安帝紀、同東夷伝)
この頃、倭は朝鮮の弁韓・辰韓の鉄を盛んに輸入する。(『魏志』韓伝)
108年:戊申
メートルイティル・メティリウス・ブラッドが領事に。
タキトゥスが『履歴』を書く。69年から96年までを記述。
110年:庚戌
後漢/馬融が大将軍の登隲に徴され、校書郎となる(登+おおさとへん)
日本書紀によれば、関東の蝦夷の反乱があり、景行天皇が日本武尊に東征を命じる。ただし、他の古文献によっては、「景行天皇即位28の年(98年)」に、日本武尊が東征に出立したとある。 古事記に具体的な年月の記載はない。日本武尊の記載がある古文献の内容を比較してみると、実際にどういう内容であったのかは前後関係に差異はあるものの、大きな話の流れでは一致している。
6月、【日本書紀】東の夷が反乱を起こして辺境を騒がせる。
7月、日本書紀と古事記で異なる内容を示している。
【日本書紀】
天皇は卿(臣下)に詔し、東国の平定に誰を遣わしたら良いかを問う。臣下は皆、誰を遣わせればいいか判断できなかった。これに日本武尊は、自分が先に西征を行ったので。この役は大碓皇子にと進上する。しかし大碓皇子はこれに驚き、草むらに逃げ隠れてしまった。景行天皇は使者を送っては、大碓皇子を呼び戻し、行きたくなければ、無理に行かせはしないが、相対していない的に対して、なにを怯えるのかと問い、美濃国に封じた。大碓皇子は後に身毛津君・守君の祖となった。(※田は都(みやこ)であり、津は港都を意味している。つまり美濃国には海に面している地域があった)この状況から、日本武尊が東征に名乗りをあげる。(この時、日本武尊は「西征から幾年も立っていないが行きましょう」という返答が日本書紀には記載されている。つまり数年の刻は経過している。)これに対して、景行天皇はこのように聞いたという説明から東国の蝦夷について説明を行い、一方で日本武尊を神と讃え、斧鉞を授ける。日本武尊は礼拝と奏上をし、重ねて礼拝をし、景行天皇は吉備武彦と大伴武日連を日本武尊に付けた。七掬脛を膳夫とした。
【古事記】
天皇はまた重ねて倭建命に「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じ、吉備臣らの祖、御スキ友耳建日子を添えて遣わした。その際、比比羅木の八尋矛を授けた。
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10月、日本武尊が、大和の都から出発し、伊勢国→尾張国へ進む。
【日本書紀】
日本武尊が東征のため出立。途中、道を外れて伊勢神宮に詣でられた。倭姫命にあい、天皇の命で東征にいく事を告げる。倭姫命は草薙剣(神宝/天叢雲劔)を日本武尊に授け、「慎み(謹み)、怠ってはいけない」という事を告げる。
【古事記】
命を受けて旅たつ際、伊勢神宮にお参りをして倭姫命にあう。日本武尊は、倭姫命に「天皇は私に死なせたいと思っているのだろうか。西征から帰国してまだそれほどの時しか立っていないのに、今度は大した軍も与えてもらえず、東征にいけと言われる。これを考えると死ねと言われているようなものだ」と言って泣き憂えた。叔母の倭姫命は、日本武尊に草薙剣(天叢雲劔)と嚢を授け、急事(困った事)があれば嚢を開けなさいと告げる。
【倭姫命世記】
日本武尊が東征のため出立。途中、道を外れて伊勢神宮に詣でられた。倭姫命にあい「天皇の命により、東征にいき、謀反者を誅にいくため、暇をいただく」という事を告げる。
※ ※ ※ ※
【三重県桑名市尾津神社伝】:日本武尊が、東征の際に、尾津浪の松の下に剣を置き忘れる。この時に忘れたのは、元々所有していた剣の事で、倭比売命から授かった草薙剣ではない。
【愛知県東海市名和町船津神社伝】:尾津から船で出航し、東へ海路を進み、船津に到着する。ここに船をつけ「なわ」で船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たの事。
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【古事記】
日本武尊、尾張國に到達して尾張國造の祖と美夜受比賣(ミヤズヒメノミコト)の家に滞在する。日本武尊は、美夜受姫命と婚姻を結びたいと考えたが、帰りの時にしようと思いとどまり、婚約だけをして東の国へ向かった。道中、山河の神々や祀る事ができない者たちを退治して進んだ。
※ ※ ※ ※
【日長神社】(愛知県知多市): 日本武尊が御東征の折この地に来られ、里人に此の所の名、及び日の暮れる方向をたずねられたので、里人が畏こんで〝日は未だ高し〟とお答すると、尊はこれを聞かれ、それでは此の所を「日高」と呼ぶがよいと仰せられた。後にこれが地名になり、後に「日永」となる。※江戸時代後期に「日長」となる。山頂にある手水池は、命が里人に掘らせられた池と伝えられている。如何なる日照りが続いても、水の涸れたことのないという伝承が伝わる。
【成海神社】(愛知県名古屋市): 日本武尊は、建稲種命の宮(現在の天神社)から移動し、ここから舟で火高山の宮簀媛(美夜受比賣)の元へ向かったとされる。後に成海神社がこの地に創建されたが、後世において現在の場所に遷宮する。火高山(現在は、火上山:氷上姉子神社)は、天神社の地から南方にあり、ここに成海潟が広がっていたとの事。火高山には美夜受比賣の宮があったとされている。
【七所社】(愛知県名古屋市): 境内に縦横26尺の塚あり。そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という。日本武尊腰掛岩と伝えられる。
【八劔神社】(愛知県安城市): 日本武尊御東征の折に榎の大木あり、その下にて休憩されその所に小祠を建て祀ると謂ふ。
【菅生神社】(愛知県岡崎市): 当地通過の砌り、高石にて矢を作り一矢を小川に吹流し、其の矢を、御霊代として伊勢大神を鎮祭し、吹矢大明神と称した
【矢作神社】(愛知県岡崎市): 日本武尊が東夷御征伐の時軍神として素盞鳴命をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。
【神明社】(愛知県岡崎市): 日本武尊左右には吉備武彦命、大伴武日蓮を相副られ三河国に御下向当地を通御在らせられ給ひ、遥かに山上を見給ふに紅白の雲棚引き恰も錦の御旗の如くなりしかば、尊御感の余り峰に登らせられ天照皇大神を遥拝して戦捷を祈らせ給ふ。
【熱田神社】(静岡県湖西市): 御道駐屯の事蹟として、当社付近に神井戸及び御手洗等の遺蹟を存せり。当社鎮座地、大字『吉美』、往時『吉備』と称せしは、尊の随者吉備武彦命の吉備を取りて、『吉備の郷』と称せしと伝ふ。
111年:辛亥
大和/武蔵国の大國魂神社が創建
新羅/祇摩王が即位。
???年
日本武尊、尾張国→駿河国(相武国)→相模→上総→陸奥へ進む。常陸の境に至り、ここから帰路へ。吾妻→甲斐へ進む。日本書紀と古事記で記載が異なる。
【日本書紀】
この年、日本武尊が初めて駿河に到った。その土地の賊が偽って従た。その賊が欺いて言うには「この野に、大鹿がたくさんいる。息は朝霧のようで、足は茂げった林のよう。出向いて、退治してください。」と言う。日本武尊はその言葉を信じ、野の中に入り獣の跡を探した。賊は王を殺そうと思って(王とは日本武尊のことをいう)、その野に火をつけた。王はだまされたと知ってすぐに火打ちを出して、火を打ち出し、向火をつけて免れることが出来た。ある伝えでは、王の腰に差した剣藂雲が自ら抜けて、王の周りの草を薙ぎ払った。これによって免れることが出来た。それでその剣を名付けて、草薙という。王が申されるには「ほどほどにだまされた。」と申された。そしてことごとくその賊を焼いて滅ぼした。そのところを名付けて焼津という。
【古事記】
相武国に到達した時、相武国造は日本武尊に偽りを伝えた。「この野の中に大きな沼があります。そこに住む神は非常に荒れ狂う(道速振る)神で困っております」と言う。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。日本武尊は騙されたと知って、倭比賣命にもらった嚢の口を明けてみると、燧石が入っていた。そこで刀で身の周りの草を切り払い、それに燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちをみんな斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
【倭姫命世記】
この年、日本武尊が初めて駿河に到り、野中に入りて、野火の愁に遭う。王の腰に差した剣藂雲が自ら抜けて、王の周りの草を薙ぎ払った。これによって免れることが出来た。それでその剣を名付けて、草薙という。
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日本書紀・倭姫命世記では、駿河と記載している。古事記によれば、相武国(さがむ)の国と記載。現在の神奈川県あたりが有力説。相武国は後に相模国と武蔵国に別れたとされているが、日本書紀では明確に「相模」という地名で記載をしている。古事記は「こじき」という名称ではなく、元来は「ふるきことしるすふみ」という名称であるため、相武国は駿河・相模・武蔵の3つがひとつの国であった可能性も伺える。
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【日本書紀】
日本武尊は、相模に行き、上総へと向かおうとした。日本武尊は海を眺め「これは小さい海だから走って渡れる」と言った。そして海の中までやってくると暴風がたちまち吹いて、日本武尊の王船は漂って渡ることが出来なかった。この時、日本武尊付き従ってきた女性がいた。弟橘媛といった。弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰の娘である。弟橘媛は、日本武尊に「今、風が吹いて、波が荒く王船が沈もうとしています。これは必ず海神の仕業です。願わくば、賤しき私の身を王の命に代えて海に入りましょう。」と申した。言い終わると、波を押し分けて入っていった。暴風がやんだ。船は岸につくことが出来た。それで時の人は、その海を名付けて馳水という。
【古事記】
さらに進んで、走水の海を渡ろうとした時、その渡りの神が波を激しく立て、船は一カ所の留まり漂って、進めなくなった。同行していた后、弟橘比賣命は「私が皇子の代わりに海に入りましょう。あなたは首尾良く征伐を成し遂げて、天皇に復命してください」と言った。海に降りる時、波の上に菅畳、皮畳、あしぎぬの畳を沢山積み重ねて敷き、その上に降りた。すると荒れていた波はおのずと静まって、船は進むことができた。后は歌って、相武の小野に、燃える火の、火中に立って、(私のことを)尋ねてくださった君よ七日後に、その后の櫛が海辺に流れ着いた。それを拾って、陵墓を作って中に納めた。
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日本書紀にある「馳水」という海は、おそらく現在の東京湾の事。古事記では「走水海」としている。
現在の神奈川県横須賀市にある走水神社、東京都品川区東品川にある寄木神社にも、この伝承が残されている。当時の地形は、北側の入江が深く、現在の埼玉県三郷市鷹野にある寄巻水神社〜春日部市あたりまで入江海岸線があったと推定される。鎌倉時代においても当時、利根川の河口が現在の南千住付近にあったため、やはり利根川の河口があった事も伺える。概ね琵琶湖と同サイズの入江であったため、入江の奥まで視界が開けている筈もなく、横須賀から見た時点では対岸の房総半島は「島」として認識された事がうかがえる。(※実際のところ、現在の琵琶湖南部にかかる琵琶湖大橋から北側の景色は、どれだけ晴天であっても見える視界範囲は、近江舞子〜近江八幡、沖島ぐらいまで。)
船が一箇所に留まったとあるのは、暴風雨以外にも潮の流れが関与していたものと思われる。おそらくは川崎市あたりの緯度までは北上した可能性がある。そして、弟橘比賣命の櫛が流れ着いたのは、現在の千葉県木更津市という説もある。
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【日本書紀】
日本武尊は上総から移り、陸奥国に入る。時に大きな鏡を王船に掛けて、海路から葦浦に回った。さらに横の玉浦を渡って蝦夷の国の境に至った。蝦夷の賊首の嶋津神と国津神たちが竹水門に集まって防ごうとする。しかし遠くに王船を見て、その勢いに怖気づき勝てないと思い、ことごとく弓矢を捨て、遠くを見て拝んでから「仰ぎて君の御顔を見ると、人として優れておられる。もしや神か。御名を教えて下さい。」と言う。これに、日本武尊は「私は現人神の御子である。」と返答した。ここに蝦夷たちがことごとく畏まって、すぐに着物をかかげ、波を分けて王船を手伝って岸につけた。そして自ら縛って従った。それで罪を許された。よってその首帥を捕虜として従わせた。
蝦夷を平定し、日高見国から戻って、西南の常陸を通って甲斐国に着いて酒折宮におられた。時に火を灯して食事をした。この夜、御歌で周りに付き従う者に聞いて申されるには、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるほとんどの付き従う者は答えることが出来なかった。時に火を灯す者がいた。王の御歌の後に続けて、歌詠みして申すには日日並べて夜には九夜日には十日を火を灯す者の賢さを褒められて、厚く褒美を与えた。そしてこのお宮にいるときに靫部を、大伴連の祖先武日に賜えた。ここに日本武尊が申されるには「蝦夷の悪い首長どもを、ことごとく罪し服した。ただ信濃国、越国だけがいまだに朝廷に従わない。」と申された。そして甲斐より北の武蔵、上野を巡って、西の碓日坂に到った。時に日本武尊はいつも弟橘媛を偲ばれる気持ちがあった。それで碓日嶺に登って、東南の方を見て、三度嘆いて申されるには「我が妻よ」と叫ばれた。よって山の東の国々を名付けて吾嬬国という。ここに手分けをして吉備武彦を越国に遣わせて、その国の様子、また人民が従うか否かを調べさせた。
【古事記】
さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、足柄の坂本で食事をした。その時坂の神が白い鹿に姿を変えて、側にやって来た。そこで飯の残りの蒜の切れ端で打ったところ、目に当たって死んだ。その後坂の上に登り、嘆いて「吾妻はや」と言った。そこでその国を「あづま」と言うのである。その国を越えて甲斐に出た。そこで酒折宮にしばらく滞在し、歌って「新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。するとたき火の番をしていた老人が歌を継いで、「全部合わせると夜は九夜、昼は十日になります」と歌った。それが当意即妙だったので老人を賞め、東国の国造に任命した。
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112年:壬子
古代ローマの文人、政治家「小プリニウス」の異名をもつガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスが死去。
???年
日本武尊、甲斐→信濃→尾張と進む。尾張でしばらく滞在。近江国の伊吹山に向かう。日本書紀と古事記で記載が異なる。
【日本書紀】
日本武尊が信濃に入られた。この国は山が高く、谷が深い。青い岳が幾重も重なっている。人、杖を使っても登り難い。岩は険しく、架け橋を廻って、高い岳が数千、馬は進まなかった。しかるに日本武尊は煙を分け、霧を凌いで、遥かな大山を渡ってゆかれた。既に峰に到ったところで、お疲れになられた。山の中で食事をされた。山の神が王を苦しめようとして、白い鹿となって王の前に立たれた。王は怪しまれて、一つのニンニクを白い鹿に投げつけた。目に当てて殺した。ここに、王はたちまち道に迷って、出ていくところが分からなくなった。時に白い犬がやってきて、王を導く様子であった。犬について行くと、美濃に出ることが出来た。吉備武彦が越国から出てきて合流した。それまで信濃坂を越える者は、多くが神の気にやられて病んでしまっていた。ただ白い鹿を殺したまわれた以降、この山を越える者はニンニクをかんで人と牛馬に塗った。日本武尊だけは自然と神の気に当たらなかった。
【古事記】
その国から科野の国に越え、科野の坂の神を退治した。
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甲斐国(現在の山梨県)から信濃(北陸地方)へ行幸するまでは同じ。当時の国々の境界は現在の県境とは大きく異なる。日本書紀では具体的な内容で記載があるが、古事記ではとくに取り上げられてはいない。
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【日本書紀】
日本武尊は尾張に戻ってきて、尾張氏の娘宮簀媛と結婚され、しばらく留まって月日が過ぎた。ここに近江の五十葺山に荒ぶる神がいると聞いて、剣を解いて宮簀媛の家に置いて、素手で出て行かれた。
【古事記】
尾張へと帰り着いた。そこで以前約束を交わしていた美夜受比賣の家に入った。美夜受比賣は、大御饌を奉るため、大きな盃を献げて奉った。ところが、その時美夜受比賣の着物の裾に、月経の血が着いていた。倭建命はそれを見て、歌って「天香具山の、鋭い鎌に触れようとする細い切り株のように、細くたおやかなあなたの腕を、枕にしようと思ったが、共に寝ようと思ったが、あなたの着ている着物の裾に、月が立ったよ」。そこで美夜受比賣が答えて「高光る日の御子、私の大君、次々に新しい年が来て過ぎて行くと、そのたびにもっとたくさんの新しい月が来ては過ぎて行くのです。そうです、そうです。あなたを待ちかねて(じっとしていられず)、私の着ている着物の裾にも、月が立ったのですよ」。そこで婚姻した。彼はその身に着けていた草那藝の剣を美夜受比賣のところに置いて、伊服岐山の神を退治しに出かけた。
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【知立神社】(愛知県知立市): 日本武尊が、東征の帰途の際に皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願された。依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、ウガヤ葦不合尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊の四柱の皇大神を奉斎あらせられた。その場所に創建された。
【熱田神社】(愛知県大府市): 日本武尊が、大高の氷上(ひかみ)の里から東下されて、大府市を通った際に休憩をされた。後において、その場所に熱田神社が創建される。現在の熱田神宮の元宮。
113年:癸丑
トラヤヌスのフォルムにトラヤヌスの記念柱が建設される。
日本武尊、近江国の伊吹山で病にかかり、近江→尾張→三重→能褒野で死去。日本書紀おいて景行天皇即位43年と記載がある。滋賀県一宮建部大社伝では32歳に亡くなったとされている。熊襲討伐から換算しても景行天皇即位43年に一致。
【日本書紀】
胆吹山までくると、山の神が大蛇になって道をふさいでいた。ここに日本武尊は神が蛇なっているのに気付かず申されるには「この大蛇は、きっと荒ぶる神の使いだろう。その神を殺すことが出来れば、この使いをなぜ求める必要があるだろうか。」と申された。そして蛇をまたいで、さらに進んでいった。時の山の神は雲をおこして雹を降らせた。峰に霧が出て、谷は暗くなり、進む道がわからなくなった。さまよい、踏むところもわからない。それでも霧を凌いで無理に進んだ。なんとか抜け出すことができた。なお惑うような気持ちは、酔っているようであった。それで山の下の泉のほとりで、その水を飲んで目が醒めた。それでその泉を名付けて居醒泉という。
【古事記】
倭建命は「この山の神は、素手で退治してやろう」と言い、山に登って行くと、白い猪がいた。大きさは牛ほどもある。そこで言挙げして「この白い猪の姿をしているのは、きっと山の神の使いだろう。今殺さなくても、帰り道で殺してやろう」と言ってさらに登って行った。ところが急に激しい氷雨が降ってきて、倭建命は惑わされ、進めなくなってしまった。<実はこの白猪の姿をしたものは、山の神の使者でなく、その神自身だった。それを言挙げしたため、惑わされることになったのだ。>仕方なく引き返したが、玉倉部の清水があって、そこで一休みしたところ、やや元気を取り戻した。それでその和泉を居寤の清泉と言う。
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日本書紀においては白蛇、古事記においては、白猪とある。居醒泉は滋賀県米原市醒ヶ井の事。
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【日本書紀】
日本武尊はここではじめて、体調が悪くなった。そうしてようやく立ち上がり、尾張に帰られた。ここに宮簀媛の家には戻らず、伊勢に移って尾津にやってきた。昔日本武尊が東国に出発した年、尾津浜で休んで食事をした。この時に、一つの剣をほどいて松の下に置かれた。それをつい忘れて出発された。今ここに至るに、この剣がなおあった。それで歌って言うには「尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松ひとにありせば衣著せましを太刀佩けましを」能褒野にまでやっきて、体調はますますひどくなった。そして捕虜にした蝦夷たちを神宮に献上した。また吉備武彦を遣わせて、天皇に奏上して申されるには「私はご命令を帝より受け賜って、遠く東の夷を討ちました。そして神の恩をいただき、天皇の威勢を借りて、背く者が罪に従い、荒ぶる神は自ら従ってきました。これをもって、鎧を脱ぎ、矛をおさめて、戦が済んだので戻ってきました。いずれの日にか、いずれの時にか帝に復命しようとしてまいりました。しかし、寿命がたちまちやってきてしまい、余命いくばくもありません。それで一人曠野で伏せています。誰にも語る事はありません。なぜ身が滅びることに惜しいでしょうか。ただ愁うのは天皇に仕える事ができないことのみです。」と申された。能褒野で崩御された。時に年三十歳。
【古事記】
そこから出発して、當藝野のあたりに到った時、「私の心は、これまでは大空を翔り行くように思っていた。だが今、私の足は前へ進まない。當藝斯(たぎし)のような形になってしまった」と言った。それでそこを當藝と言う。そこからやや進んだが、たいへん疲れを覚えたので、杖を突いて少しずつ歩いた。それでそこを杖衝坂と言う。尾津の前の一つ松のところに到った。以前ここで食事したことがあり、そこに刀を忘れたことがある。それが失くならずに、まだ残っていた。そこで歌って、「尾張に、直に向き合っている尾津の前の一つ松よ。あせを。一つ松が人ならば、刀を佩かせてやるのに、着物を着せてやるのに。一つ松、あせを」そこからさらに進んで三重村に到った時、また「私の足は三重に曲がって、ひどく疲れた」と言った。それでそこを三重と言う。そこからさらに進んで、能煩野にたどりついた。そこで故国を偲んで歌った。「大和は、国のまほろば。たたなづく、青垣山籠もれる、大和し麗し」。また歌って「命の、全(また)けん人は、たたみこも(重畳する)、平群の山の、熊白檮の葉を、うず(髻)に挿せ、その子」。この歌は国偲び歌である。また歌って、「はしけやし、我が家の方より、雲居立ち来も」、この歌は片歌である。この時、病が急に重くなり、歌って「乙女の、床の辺に、我が置きし、剣刀。その刀はや」。歌い終わると同時に崩じた。そこで都に駅馬を送った。
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日本書紀では、30際に亡くなったとしているが、西暦97年の熊襲討伐が齢十六とある事と、西暦113年が景行天皇即位43年にあたる事から、政治的理由で崩御された年を意図的に変更された可能性がある。
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【日本書紀】
天皇がこれを聞いて、寝ても席についても落ち着かなかった。食事をしても味が分からなかった。昼も夜も嗚咽して、泣き叫び、胸をうって悲しんだ。大いに嘆いて申されるには「我が子小碓王は昔熊襲が背いた日は、まだ総角もまだだったのに、長く戦いに煩い、近くにいては私の不足を補ってくれていた。東の夷が騒ぎだしても、討ちに行く者がいなかった。かわいいが、それを忍んで、賊の国に行かせた。一日として思い出さなかったことはない。朝晩にうろうろして、帰る日を今か今かと待っていた。何の禍だ、何の罪だ、思いかけずに我が子が死んでしまうとは。今後、誰と共に皇位を治めようか。」と申された。そして卿たちに詔し百寮たちに命じて伊勢国の能褒野陵に葬られた。時に日本武尊は白鳥となられて、陵から出ていき倭国に向かって飛んでいった。臣たちがその棺を開いてみると、服だけが残り屍がなかった。そこで使いを遣わせて白鳥を追い求めさせた。そして倭の琴弾原に降りた。その所に陵を造った。白鳥がまた飛んでいき河内に到り旧市邑に留まった。またその所にも陵を造った。それで時の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵といった。そうしてついに高く飛んで天に昇った。この三つの陵には、ただ服と冠を納めた。よってその名を残すために武部を定めた。この歳、天皇が即位して四十三年である。
【古事記】
倭にいた(倭建命の)后たちや子供たちがやって来て、御陵を作り、その周囲の田に腹這いになって泣き、歌った。「御陵を取り巻く田の稲幹に、稲幹に、這い回る、野老の蔓よ」このとき、(倭建命は)八尋もある白い千鳥になって飛び立ち、浜に向かって飛んで行った。その后たちや御子たちは、地面の笹の切り株に足が傷ついても、その痛みも忘れて、泣く泣く(鳥の)後を追った。このときの歌は「浅小竹の原に、腰まで草に埋もれ、空は飛べないから、足で行くことだ」。また海に入って、水に浸かりながら行くときの歌は、「海を行けば、腰まで水に浸かり、大河原に植わっている草のように、海はいざよう」。また飛んでしばらくそこの磯にいた時に歌った歌は、「浜の千鳥、浜を行かず、磯伝いに行くよ」。この四首の歌は、その葬礼の時に歌ったものである。だから今も天皇の大葬の礼で歌われている。その国から飛び翔って、河内国の志幾に留まった。そこに御陵を作って鎮まらせようとした。その名を白鳥の御陵という。しかしそこから更に飛び立ち、天空高く飛び去って行った。この倭建命が国を平定に行った時は、いつも久米の直の遠祖、七拳脛が膳夫としてそばに仕えていた。この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。<一柱>またあの海に入って死んだ弟橘比賣命を妻として生んだ子は、若建王である。<一柱>また近淡海の安國造の祖、意富多牟和氣の娘、布多遲比賣を娶って生んだ子は、稻依別王である。<一柱>また吉備臣建日子の妹、大吉備建比賣を娶って生んだ子は建貝兒王である。<一柱>また山代の玖玖麻毛理比賣を娶って生んだ子は、足鏡別王である。<一柱>またある妻の生んだ子は息長田別王である。倭建命の子は全部で六人いた。帶中津日子命は、後に天下を治めた。次に稻依別王は、<犬上君、建部君らの祖である。>次に建貝兒王は、<讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別らの祖である。>足鏡別王は、<鎌倉之別、小津(君)、石代之別、漁田之別の祖である。>次に息長田別王の子は杙俣長日子王である。この王の子は飯野眞黒比賣命、次に息長眞若中比賣、次に弟比賣。<三柱だった。>
114年:甲寅
後漢/元初に改元。 ローマ皇帝トラヤヌスのパルティアに遠征(〜117年)。
属州アルメニアを獲得。 アルメニアの王パルサマシリスが死去(別説あり)。
115年:乙卯
ローマ皇帝トラヤヌスが属州メソポタミアを獲得。
116年:丙辰
後のローマ教皇シクストゥス1世が生まれる(別説あり)。
3月3日、後のローマ教皇アレクサンデル1世が生まれる(別説あり)。
ローマ皇帝トラヤヌスが属州アッシリアを獲得。
117年:丁巳
倭国(現在の日本)にて、諸国での争いが発生する。当時、比較的交流の盛んであった中国の書籍には、様々な国名が登場する。 倭国、邪馬台国、奴国、句奈国、伊都国、筑紫国など、100余りあったと記録されている。 ローマ帝国のトラヤヌスがパルティアに遠征し、ローマが最大版図となる。
8月9日、属州キリキアのセレヌスにてローマ皇帝トラヤヌスが死去。
8月10日、ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが即位。 先帝の獲得した東方属州(アルメニア・メソポタミア・アッシリア)を放棄。
118年:戊午
高句麗/6月。宮(太祖大王)は、穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲う。
ローマ/ ティヴォリのヴィッラ・アドリアーナの建設がはじまる。
120年:庚申
後漢/永寧に改元。
成務天皇元年(121年):辛酉
大和国/8月、成務天皇が即位。 都を志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)現在の滋賀県大津市穴太に遷都する。125年9月、行政区画として国・郡(こおり)・県(あがた)・邑(むら)を定め、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などを任命するなど国家の体制を整備した。在位60年、190年6月に崩御。崩年は107歳。
高句麗/宮(太祖大王)が、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張。
ローマ/ 4月26日、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが生まれる。(『自省録』著者) ローマ帝国のハドリアヌス帝が朝日を見るためにエトナ山を登頂した。
後漢/ 後漢の宦官(紙の製法を発明した人物)、蔡倫が死去。
122年:壬戌
高句麗/宮(太祖大王)が、馬韓や穢貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされる。
後漢/延光に改元。 ハドリアヌスの長城が着工される。
124年:甲子
再建されたパンテオンが完成する。
125年:乙丑
ローマ/テレスフォルスがローマ教皇になる
126年:丙寅
後漢/永建に改元。
ローマ/ 8月1日、後のローマ皇帝ペルティナクスが生まれる。
127年:丁卯
世界規模で大洪水が発生。
後漢/後漢末期の学者、鄭玄が生まれる。
日本/ずっと雨が降り続くという最大規模の災害が発生。過去数千年の中で最大規模の降雨量。
128年:戊辰
百済/己婁王が死去。蓋婁王が即位。
130年:庚午
インド/クシャーナ王朝でカニシカ王(ガニシュカ大帝)が即位。(別説あり) カニシカ王の統治期間には諸説あるが、近年発見された「ラバータク碑文」によりその系譜は確定された。 カニシカ王即位とほぼ同時期に作成されたのが「カニシカ王の舎利容器(ペシャーワル博物館蔵)」。
ローマ/ 12月15日、後にマルクス・アウレリウス・アントニヌスと共に統治した共同皇帝ルキウス・ウェルスが生まれる。
大和/ 12月24日、第12代天皇であり日本武尊の父でもある景行天皇が死去。
131年:辛未
大和/第12代景行天皇が死去。
ローマ皇帝ハドリアヌスがサルウィウス・ユリアヌスに命じ法典『永久告示録』を編纂させる。
132年:壬申
後漢/ 陽嘉に改元。 張衡が地震計を発明 後漢末期の官僚、書家である蔡そんが生まれる。
ユダヤ/バル・コクバの乱が発生
133年:癸酉
ローマ/ 1月30日、後のローマ皇帝ディディウス・ユリアヌスが生まれる。
134年:甲戌
新羅/祇摩王が死去。逸聖王が即位。
135年:乙亥
ローマ/ローマ帝国がユダヤ人の蜂起を鎮圧。 エルサレムは「アエリア・カピトリナ」と名前を変えられ、ユダヤ人の立ち入りが禁止される(ディアスポラ)。 ウェヌスとローマ神殿が完成する。
136年:丙子
ローマ/ローマ教皇テレスフォルスが死去。(別説あり)
後漢/永和に改元。
137年:丁丑
後漢/後漢末期の政治家、王允が生まれる。
138年:戊寅
ローマ/ 7月10日、ローマ皇帝ハドリアヌスが死去。
7月11日、第15代ローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが即位。
139年:己卯
ローマ/ハドリアヌスの霊廟「サンタンジェロ城」が完成。
140年:庚辰
インド/クシャーナ王朝でカニシカ王(ガニシュカ大帝)が即位。(別説あり)
後漢/後漢の天文学者、劉洪が生まれる。
ローマ/ローマ帝国の政治家ペスケンニウス・ニゲルが生まれる。
アルサケス朝パルティアの王ミトラダテス4世が死去。
141年:辛巳
作家、ビュブロスのフィロンが死去。
142年:壬午
後漢/漢安に改元。 アントニヌスの長城が着工される。
144年:甲申
後漢/建康に改元。
145年:乙酉
後漢/永憙に改元。
146年:丙戌
ローマ/ 4月11日、後のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが生まれる。
高句麗/ 8月。宮(太祖大王)は、遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取る。 12月。王弟である遂成に異心のあることを見抜いた高福章らは王に遂成を誅殺することをすすめたが、王はこれを聞かず、遂成に王位を譲り、引退してしまった。 遂成は次大王となって直ちに高福章を処刑し、側近であった奸臣を取り立てて高位につけた。 さらに太祖大王の嫡子の莫勤(ぼきん、モゴン)を殺させ、これを聞いた莫勤の弟の莫徳(ぼとく、モドク)は自ら縊死した。 次大王が即位する。 後漢/本初に改元。
大和/ 帯中日子皇子が生まれる。後の仲哀天皇。
『日本書紀』によると景行天皇皇子である日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)である。『古事記』内の先項にも「この倭建命が伊玖米天皇(垂仁)の娘、布多遲能伊理毘賣命を妻として生んだ子は、帶中津日子命である。」と記載。日本武尊が死去して32年の歳月がすぎているため、歴史的には矛盾が生じている事になる。
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ただし、日本武尊と布多遲能伊理毘賣命の間に生まれた御子が、もしヤマトタケルの御名を継いでいた場合は、全体像が符号する。この可能性があるのは『日本書紀』『古事記』がともに、語り部から聞いた話を編纂している点に起因する。ヤマトタケルから生まれた御子は帯中日子皇子にあたり、日本武尊の孫ともなる。この点は現在調査中。
147年:丁亥
大和/ 倭国大乱が発生。
弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。
中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。 女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。以上の内容が、中国の歴史書『三国志』(魏志倭人伝)や中国の正史『後漢書』「東夷伝」に記述されている。 倭国大乱については、189年ごろまでの約40年間という期間まであった事が見受けられる。成務天皇の国家の体制を整備した上での事? 後漢/建和に改元。
148年:戊子
パルティア出身の仏教僧安世高が後漢の洛陽に来訪。
150年:庚寅
後漢/和平に改元。