西暦151年〜200年

151年:辛卯
後漢/元嘉に改元。 後漢・魏の政治家、書家となる鍾ヨウが生まれる。
153年:癸巳
後漢/永興に改元。
153年:甲午
新羅/逸聖王が死去。阿達羅王が即位。
155年:乙未
後漢/永寿に改元。 後漢末期の英雄にして魏の建国者、曹操孟徳が生まれる。
幼名は、阿瞞また吉利。廟号は太祖。謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は高祖劉邦の武将夏侯嬰とされている。魏将、夏侯惇、夏侯淵とは従兄弟にあたる。 月旦で有名な後漢・三国時代の人物批評家許劭(許子将)は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の奸雄」(「子治世之能臣亂世之姦雄」『魏志武帝紀』)、もしくは「治世の奸臣、乱世の英雄」(「君清平之姦賊亂世之英雄」『後漢書許劭伝』)と評した。 演義では、「爪黄飛電」・「絶影」を愛馬とし、対となす宝剣「倚天の剣」・「青?の剣」を作らせる(「絶影」は正史の注である魏書にも記述があり、絶影とは影もとどめぬという意味)。 祖父・曹騰は後漢の順帝の時から桓帝まで四代の皇帝に宦官として仕え、大長秋まで昇っており、それなりの財を築いていた。父・曹嵩はその金で太尉の地位を手に入れた。 若い頃の曹操は、機知と権謀術数には富んでいたが、気ままで勝手し放題、品行方正という言葉からは程遠い存在だった。このような曹操の行状は、当時の品行を重んじるという風潮からは疎まれ、曹操を評価する人は、橋玄と何?の2人を除いて、天下にただ一人もいなかったとまでいわれる。 曹操が生まれた頃の後漢朝は、皇帝に接近する事で権力を握った宦官と、それを憎む清流派と呼ばれる士大夫達の間で激しい権力闘争が繰り広げられていた。この戦いは常に宦官が有利であったが、この後、そのような状況を一変させる出来事が次々と発生する。 後漢末期の英雄、孫堅文台が生まれる。 三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。家系は孫氏。 董卓との戦いの際、秦の始皇帝が皇帝の印のみに用いるように定めた「玉璽」を入手した事により、「三国志演義」では英雄譚において、曹操、劉備、そして孫堅の名が連ねられる。
156年:丙申
鮮卑の檀石槐が北匈奴を破り、モンゴル高原を統一する。 北匈奴が滅亡する。
158年:戊戌
後漢/延熹に改元。
159年:己亥
後漢の桓帝の命令で外戚の梁冀が誅殺される。これ以後、外戚に代わり宦官が勢力を拡大。
161年:辛丑
ローマ/ 3月7日、第15代ローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが死去。
3月8日、第16代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが即位。
8月31日、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子にして後の第17代ローマ皇帝コンモドゥスが生まれる。
後漢/ 後漢末の英雄にして蜀の初代皇帝、劉備玄徳が生まれる。 黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角をあらわし、諸葛亮の補佐を得て蜀を建国した。 『三国志』中の伝では、諡号の昭烈帝ではなく、先主と呼ばれている。(二代目劉禅は後主)これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めないゆえである。ただし『三国志』の著者陳寿は蜀の遺臣であったので、呉の歴代皇帝が「呉主権」などと諱をそのまま使っているのに比べて、敬意を表されている。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。また、劉封を養子にしていた。 劉備は自ら前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前112年年始あたりに?郡?県の侯としての漢朝への上納金がなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま?に住居していたという。そのため系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。 その一方で当時の後漢では、前漢以来の歴代皇帝の末裔に関しては幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に劉姓を名乗る事は困難であったとも言われており、単純に劉備の主張を嘘と決め付ける事も出来ない。 また中山王の末裔は中山国を初め、?郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているがもちろん創作である。 ?(たく)郡?県(現河北省?県)の出身で、祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり最終的には東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が若い頃に死んだために劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。 劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。 15歳の時に叔父の劉元起の援助で廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に公孫?がおり、大変仲が良く、劉備は公孫?に対して兄事していた。 しかし劉備はあまり真面目な学生ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には人が集まるようになった。中山の豪商張世平・蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた。
162年:壬寅
マルコマンニ戦争が起こる(〜180年)。
165年:乙巳
高句麗/3月、太祖大王は失意の中119歳でその生涯に幕を閉じたという。 新大王が即位する。
166年:丙午
後漢/党錮の禁が起こり、宦官が儒学派の官僚を弾圧する。 後漢の訓詁学者、馬融が死去。
ベトナム/日南(ベトナム・ユエ)に大秦王安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着。
百済/蓋婁王が死去。肖古王が即位する。
167年:丁未
後漢/永康に改元。
168年:戊申
後漢/建寧に改元。
169年:己酉
後漢で第二次党錮の禁が起こる。 後漢末から三国時代の武将、張遼が生まれる。
170年:庚戌
ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの妻、カラカラ、ゲタの母親となるユリア・ドムナが生まれる。
172年:壬子
後漢/熹平に改元。
175年:乙卯
呉の武将、周瑜が生まれる。
177年:丁巳
後漢/ 鮮卑、漢軍を破る。 後漢末の文学者・学者・政治家となる王粲が生まれる。 後漢末から三国時代の武将となる潘璋が生まれる。 後漢末の武将、孫堅の甥となる孫瑜が生まれる。 後漢末の武将となる霍峻が生まれる。 五斗米道の2代目教主、張衡が死去。 ローマの属州ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)でキリスト教迫害が起きる。
178年:戊午
後漢/光和に改元。
179年:己未
後漢/魏の武将、西晋の建国者となる司馬懿が生まれる。
高句麗/新大王が死去、故国川王が即位。
180年:庚申
大和/ 大国主尊(大己貴尊)が、日本建国の祖の一人、素佐之男尊スサノオノミコトの末子相続人の須世理姫(スセリヒメ)の養子となる。
※ここで用いられる神名は役職のようなものである。 具体例としては「第6代目大国主尊◯◯」というもの。襲名という文化は紀元前の頃からあったらしい。
三輪山の北西麓一帯に纒向遺跡が出現(纒向1類)。創建は、180年〜210年頃と推定されている。
ローマ/ 3月14日、ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがウィンドボナで死去。。五賢帝時代が終わる。 3月17日、長男コンモドゥス、ローマ帝国に即位する。
181年:辛酉
後漢/ 後漢最後の皇帝、献帝が生まれる。
諸葛亮孔明、生まれる。
後の蜀の丞相。 司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子である二代目劉禅を丞相としてよく補佐した。 伏竜、臥竜とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子には蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛原(景春)らがいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。子孫たちは諸葛八卦村という村に今も生き続けている。 琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は、8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)もあった。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉(首都圏長官)の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、孔明が幼い時に死去している。正母の章氏も同様に幼い時に死去しているが父の諸葛珪が妻の死去後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均がいる。他に妹がいる。『呉志』「諸葛瑾伝」の注釈に「諸葛氏は元は葛氏であったが、陽都に移り住んだ際に現地に既に葛氏がいたために諸葛氏と呼ばれるようになった。」という話を載せている。
※ まだ幼い頃徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時期に起こった曹操による徐州での大虐殺が原因かとも考えられる。後に呉の重臣となる兄の諸葛瑾と継母の宋氏はこの頃に別れたと思われる。 この時の行き先については『三国志』の内、陳寿の本文では従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷から朱皓(朱儁の子)が豫章太守として送られて来て、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。 これに対して裴松之注に「『献帝春秋』曰く」と言い、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので、劉表が代わりに諸葛玄を任命し、朝廷からは病死した周術の代わりに朱皓を送り込まれ、朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが途中で民衆の反乱に逢い、首にされて劉?に送られたとなっている。 諸葛玄が敗れた後に劉表を頼るのだから最初から劉表の元にいたと考えるのが自然ではあるが、豫章は現在の江西省南昌であり、劉表の根拠地である荊州襄陽(湖北省襄樊)からはかなり遠く、そこの太守を劉表が任命したとするのは無理がある。何故、敗れた後に袁術を頼らなかったのかと言えば、その時に既に袁術が滅んでいたか、或いは滅びかかっていたからであろう。即ちこの出来事の年代は袁術が皇帝を僭称した197年以降の事と考えられる。
182年:壬戌
後漢末の英雄にして呉の初代皇帝、孫権孫権仲が産まれる。
184年:甲子
後漢/中平に改元。(張曼成、神上元年とした。) 黄巾の乱が起こる。 太平道の教祖にして黄巾の乱の指導者、大賢良師張角が死去。 変わって、張曼成が指導者となる。張曼成は、自ら元号を「神上元年」と言った。 黄巾の乱は鎮静したものの、これにより中原(漢の国全体を指す言葉)全域において内乱が発生。三国志時代の始まりとされている。 劉備、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命されたが、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際、劉備が面会を求めたが断られた。これに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。
大和/ 倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える。(『魏志』倭人伝) この後、卑弥呼が共立されて、王となる。(『魏志』倭人伝) ここでいわれる卑弥呼については、諸説あり。「日霊女」という発音だけが、「卑弥呼」となったのであれば、役職としての説も考えられる。 「中平□年」の紀年銘を持つ大刀出土する(奈良県天理市東大寺山古墳)。中平は、184?189。ただし、日本の元号ではなく後漢の元号。
新羅/ 阿達羅王が死去。伐休王が即位。
185年:乙丑
後漢/ケンタウルス座付近に超新星(SN 185)出現。『後漢書』に記載あり。
186年:丙寅
ローマ/ 4月4日、後のローマ皇帝カラカラが生まれる。
187年:丁卯
後の魏の初代皇帝となる曹操の長子、曹丕が生まれる。 188年:戊辰
後漢の霊帝が西園八校尉の設置などの軍制改革を行う。
189年(中平6年):己巳
倭国/70〜80年にかけて、諸国が大にに乱れていたが、卑弥呼が邪馬台国の女王/倭国王に就くことで収まる事になった。以後、卑弥呼は240年代に亡くなった次に男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたび発声する事になる。 『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、黒歯国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。邪馬臺國王卑弥呼も北朝である魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。 台与以後、しばらく倭国による中国北朝 王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば120以上の国造が日本列島の各地に任命され地域国家が形成されていた。 そのなかで、古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。 4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。
後漢/霊帝が死去し、少帝が即位。 董卓の独裁が始まる。 霊帝の外戚である大将軍・何進が宦官との権力闘争を繰り広げるが敗れ、何進は宦官によって暗殺される。しかし、何進は生前に、宦官を粛清するために諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。 大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し、宦官を排除して天子を補佐することが、権力を握るための最短ルートとなったのである。宦官の時代は、こうしてここに終焉する。 何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝を立て、朝廷を牛耳った。曹操はその暗殺を図るが失敗、洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
ローマ/ 3月7日、カラカラの弟にして共同皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタが生まれる。
190年(初平元年):庚午
後漢/初平に改元。 袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会行い、誰も積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯はお互いを牽制し始める。 劉備、公孫?の元へ身を寄せ、公孫?から別部司馬とされ、青州刺史の田楷と共に(とあるが、刺史の田楷と県令程度の劉備が共にというのはおかしい)袁紹軍と戦って戦功を上げたので、公孫?は劉備を仮に平原の県令(県長官)にして、その後(県副長官)とした。この頃に平原の地元の人間より刺客を送られるが、その刺客を刺客と知らず厚くもてなしたので刺客は劉備を殺すのが忍びなくなって、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。 董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが攻撃命令は下されず、単独で董卓を攻撃した曹操の軍は、壊滅的な打撃を受ける(しかし、この無謀ともいえる突撃が評価されて、曹操の名前は全土に鳴り響いたといわれている)。曹操は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めた。諸侯もまた撤退、兵力を保持したまま各地に散らばっていった。 事実上、この時点で後漢王朝の全土への支配力は完全に失われ、群雄割拠の時代となった。
ローマ/ セプティミウス・セウェルス、コンスルに就任。
大和/ 7月30日、第13代天皇、成務天皇が死去。
191年(後漢/初平2年):辛未
後漢/曹操は袁紹によって東郡太守に任命。 陽人の戦いで反董卓連合軍が董卓に勝利、董卓は洛陽から長安に遷都。
大和/天皇空位の年。
仲哀天皇元年(192年):壬申
大和/ 仲哀天皇即位。名は足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。日本武尊の第四子。皇后は神功皇后(じんぐうこうごう)。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。 記紀によれば,熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は西海の宝の国(朝鮮半島諸国のこと)を授けるという神託を受ける。しかし仲哀天皇はこれを信じず神の怒りに触れ急死してしまう。その後再び神託が下される。こんどは神功皇后の胎中の子(後の応神天皇)にそれを授けるとの内容であった。神功皇后は神託に従いみごもったまま朝鮮半島を攻め、国王を服従させるにいたったという。これを俗に神功皇后三韓征伐という。 また、京都府舞鶴師にある籠神社(このじんじゃ:豊受大神を祀る神社であり、伊勢神宮と対を成す神社であると言われている)に残されている系譜図によると、3世紀頃、日本は、日女(日霊女:ひみこ)と小夜(とよ)の二人の巫女を立てて治められていたという記録が出てくる。ここに天皇(天王)を含め、三神一体(三輪)で国を治めていたという事になる。
後漢/ 5月22日。権勢を振るっていた董卓、呂布に殺される。 董卓が呂布に暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。?州の刺史・劉岱が黄巾の残党に殺され、曹操はかわって?州刺史に就任。黄巾討伐の詔勅を受け、青州の黄巾軍の残党30万を討伐。これを降して自身の勢力に組み入れ、『青州兵』と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。 劉備は、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めてきたので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。 曹操は本拠地が呂布に奪われたために撤退し、陶謙は命拾いをした。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。 後漢末期の官僚であり書家、蔡ソウが死去。
ベトナム/ 日南郡の区連が蜂起し、独立して林邑(チャンパ王国)を建国。
ローマ/ 第17代ローマ皇帝コンモドゥスが死去。アントニヌス朝は断絶。
193年(後漢/初平4年):癸酉
後漢/ 春、曹操は袁術の軍を打ち破ったので徐州から帰還したが、前年に陶謙の部将に父・曹嵩を含めた一族を殺されていた。夏、その恨みから復讐戦を行う事を決意し、徐州に再度侵攻する。この時、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため河が堰き止められたというほどの惨状であったといわれる(徐州大虐殺)。この虐殺によって曹操は最大の悪評を得る事に至り、『三国志演義』において曹操が悪役扱いされる事の根源となった。 秋、曹操が蝗の為に兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて帰還した。ところが、親友の張?が、軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れており、領地である?州の大半は呂布の物となっていた。 張?は、呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだ為に、袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にその事を言われる都度に張?を庇っていたが、張?の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切った。張?と曹操とは、反董卓連合の時代からの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。 それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。 幸い、荀?と程?が本拠地を守り抜き、蝗の為に呂布も軍を引かせた為、曹操は帰還を果たす事が出来た。しかし、この戦いで青州兵は壊滅的打撃を受け、曹操自身も大火傷を負い、従兄弟の夏侯惇も左目を失っている。 このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくる。程?の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食うほどの大飢饉が訪れたので、曹操は苦しい実情を踏まえながらも、兵の補充や役人の雇用を諦めている。徐州では、父の仇である陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。 この時に曹操に敗北した呂布が徐州へやってきたのでこれを迎え入れた。その後、袁術が攻めてきたのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下?の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。 しかしここで兵を集めたことを呂布が不快に思い、攻めてきたので逃亡し、曹操の元へ身を寄せ、再び小沛に入った。更に呂布が攻めてきたので曹操は援軍に夏侯惇を派遣したが、呂布の部下高順に撃破され、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して呂布を攻めてこれを生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少し躊躇ったが、劉備は呂布が丁原と董卓を殺したことを挙げて諌めた。これを聞いた呂布は劉備に「こいつの方が信用ならない!」とののしった。 劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許へ入った。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出すときには常に同じ車を使い、席に座るときには席を同格にすると言う異例のものであった。 この頃、宮中では董承が献帝よりの密詔を受けての曹操討伐計画が練られており、その同士に劉備が引き込まれた。あるときに曹操と歓談していたときに曹操より「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹などでは不足だよ。」と評されている。その後、討伐計画に対して具体的な行動を起こさぬうちに朱霊、路招らと共に袁術討伐に赴くが、袁術が途中で死去して空振りに終わる。 セプティミウス・セウェルスがローマ帝国皇帝となる。 ローマ/ 5人の皇帝が即位するという年となる。 1月1日。ペルティナクス、ローマ皇帝に即位 3月28日。ペルティナクス殺害 3月28日。ディディウス・ユリアヌス、親衛隊の帝位の「公開競売」を落札、ローマ皇帝に即位 4月9日。セプティミウス・セウェルス、軍団の支持を得てローマ皇帝に即位 6月1日。ディディウス・ユリアヌス殺害 セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルを、キジクス、ニケアにて敗る。 セウェルス帝は属州アフリカのレプティス・マグナ出身で、皇帝になると同時にこの都市の大開発を行う。
194年:甲戌
後漢/元号を興平に改元。
ローマ/ ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが、ペスケンニウス・ニゲルをイッソスで敗る。 ローマ帝国の皇帝自認者ペスケンニウス・ニゲルが死去。
195年(後漢/興平2年):乙亥
春、曹操は呂布から定陶で大勝利を得た(定陶の戦い)。呂布は劉備を頼って落ち延び、張?もそれに付き従ったが、曹操は、張?が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃。 秋、根拠地の?州を全て奪還した曹操は、?州牧に任命された。 冬、張超を破り、張?の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。前後して、袁紹は公孫?をうちやぶり、河北をほぼ平定している。 劉備は朱霊たちが帰還した後に、下?の守将車冑を殺して、徐州を領有し、下?の守備を関羽に任せて自らは小沛に移った。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が送ってきた劉岱、王忠の両将を破った。 しかし曹操自身が攻めてくると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われる。 袁紹の長子袁譚はかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目)に推挙したので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので劉備はこれに合流して曹操の後背地を荒らしまわった。この時に関羽が曹操の元から逃げ出して劉備のところへ帰ってきた。 その後、曹仁により撃破されて袁紹の所へ帰るが、最早袁紹の元から離れたいと考えて荊州の劉表に袁紹との同盟を説いてくると偽ってそのまま劉表の元へと身を寄せた。
196年:丙子
後漢/元号を建安に改元。 後漢の献帝が洛陽に帰還、さらに曹操の庇護を受け許に遷都する。
新羅/伐休王が死去。奈解王が即位。
ローマ/セウェルス帝が反対派についたビュザンティオンを征服し破壊する。
197年:丁丑
高句麗/故国川王が死去。山上王が即位。
198年:戊寅
後漢末期の将、呂布が死去。
199年:己卯
金官伽耶(伽耶国)/ 3月20日。太祖、首露王が死去。居登王が即位。
後漢/ 袁術が死去。
ローマでカリストゥスのカタコンベ(英語版)が造営される。 助祭カリストゥス(後にローマ教皇)がアッピア街道沿いに作らせたもので歴代教皇の墓がある。
200年:庚辰
後漢/ 曹操・袁紹の争いが激化する。 序戦は白馬の戦い、決戦が官渡の戦い、終局が倉亭の戦い(袁紹軍壊滅)となる。 官渡の戦いが起こる。 曹操は、最強の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。 劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼って、荊州の北部・新野(河南省新野)に居城を貰っていた。劉表から新野城(現河南省新野)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。しかし劉備の元に集まる人が増えたことで劉表は劉備を猜疑するようになり、曹操が烏丸を討伐に行った隙をついて許を襲撃するように劉表に進言したが、これは受け入れられなかった。この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた。」と言う話がある。このことから髀肉之嘆の言う故事成語が生まれた。 北の曹操の強大化に伴い、それまでは平和であった荊州も危険なのではないかと有志の間では話し合われていたが、頭領の劉表は年齢から病気がちになり、その後継も長男・劉?と次男の劉?で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。 孔明は相変わらずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており、徐庶は孔明の事を劉備に話していた。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない。」と言い、劉備は3度孔明の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之注には「『魏略』曰く」と書いて、孔明の方から劉備を訪ねたという話を載せている。また別に『襄陽記』から劉備に対して人物鑑定家として有名な司馬徽が「伏龍・鳳雛とは孔明と厖統の事だ。」と言ったという話が載せてある。 この時、孔明は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、これを持って天下を争うべきだと勧めた。そして、諸葛亮は劉備に仕えた。 後漢末期の訓詁学者、鄭玄が死去。
呉/ 後漢末の武将、孫堅の長子、呉の初代皇帝孫権の兄である、孫策伯父が死去。孫権仲謀が君主となる。
ローマ/ 後のローマ皇帝タキトゥスが生まれる。
大和/ 3月8日、第14代天皇、仲哀天皇が死去。 日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。