西暦201年〜250年

201年:辛巳
大和/神功皇后が摂政となり、大和を治国。 ※天照大神(ひみこ)、豊受大神(とよ)、神功皇后の計3名の女性による大和の治国。
202年:壬午
5月。後漢末の武将、三国志に登場する群雄の一人、袁紹が死去。
203年:癸未
ローマ/ 3月20日。後のローマ帝国セウェルス朝皇帝ヘリオガバルスが生まれる。 セプティミウス・セウェルス帝がガラマンテス族を破り属州アフリカの「リメス・トリポリタヌス」を拡大する。 フォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門が建設される。
204年:甲申
後漢/ 帯方郡を設置。 曹操、袁氏の本拠である?(現在の河北省臨?[りんしょう])を攻め落とし、ここに本拠地を移す。 劉表が没し、劉表の後を継いだ劉そうが曹操に降伏した。このときに劉備は、諸葛亮より劉そうを討って荊州を奪ってしまえと薦められたが「忍びない」と言って断り、逃亡した。そうすると周辺の住民十数万が劉備に付いてきてしまい、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。諸葛亮が住民を捨てて早く行軍するべきだと劉備に薦めたが再び「忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。 しかし曹操の軽騎兵隊に追いつかれると狼狽して妻子・民衆たちを置いて逃亡し、関羽の軍と合流したことで安堵を得る。更に劉?の軍と合流する。 遼東の公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置。
207年:丁亥
後漢/ 袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。 曹操の実力は圧倒的な物となり、残るは荊州の劉表、呉の孫権、蜀の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬超を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉宗を降し、長江を下って呉へ攻め込もうとした。呉の大将は周瑜。呉と劉備の連合軍は5、6万と推定される。 夏侯淵の五男、夏侯栄が生まれる。 後の蜀漢第2代皇帝、劉禅が生まれる。 袁紹の次男、幽州の刺史、袁煕が死去。 袁紹の三男、袁尚が死去。 曹操に仕えた軍師、郭嘉が死去。 董卓→劉表→曹操に仕えた張繍が死去。
208年:戊子
後漢/ 後漢から三国時代へ移行する。 劉表陣営では劉鐴が後継となることがほとんど決定となり、劉鐴は命すら危ぶまれていた。劉鐴は自らの命を救う策を孔明に聞こうとしていたが、孔明の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉?は一計を案じて高楼の上に孔明を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、孔明に助言を求めた。 観念した孔明は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉鐴に対して外に出て身の安全を図る事を薦めた。劉鐴はこれに従い、その頃ちょうど孫権により江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉?が持った兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となっている。これはやはり孔明の深慮遠謀であったと見て良いだろう。 同年、劉表が死去。その後を予定通り劉鐴が継ぐ。 まもなくして曹操が南下を開始、中国統一にいよいよ乗り出してきた。 劉鐴は曹操に降伏し、劉備は手勢を連れて逃れる。劉備が曹操より逃亡を図ったこの時、劉鐴配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。 ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。 その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉表の長子・劉埼の軍と合流した(長坂の戦い)。 その時に孫権から魯粛が情勢観察のために派遣されてきて、孔明は魯粛と共に孫権の元へ行き、孫権に対して曹操への交戦を説き、同盟の締結を説いた。
『三国志演義』では孔明が降伏に傾きかけていた孫権の気持ちを変えた事になっており、実際に孔明の弁舌は影響を与えたであろうが、孫権が最も信頼する周瑜も早くから交戦を唱えており、決定付けたのはやはり周瑜の弁舌であったと考えられている。
12月、赤壁の戦いが起こる。
その後、孫権・劉備連合軍と曹操軍は対決し、連合軍の勝利に終わる。呉軍の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めにあい、撤退を余儀なくされた。
『三国志演義』ではこの戦いに於いて色々と活躍する孔明であるが、『三国志』には孔明の活躍はほとんど書かれておらず、実際に活躍したのは周瑜たち孫権軍の将兵である。 これにより中国全土統一の事業は頓挫し、その後に劉備が蜀の劉璋を降した事により、魏・呉・蜀の三国が割拠することとなった。 戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を付いて荊州南部の四郡を占領する。 最初は劉表の長子劉埼を傀儡として上表して荊州刺史に建て、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉鐗が死去したために自ら荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。 孔明は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この時期に孔明と並び称された厖統士元が劉備陣営に加入している。
ローマ/ 後のローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが生まれる。
210年:庚寅
呉/ 武将、周瑜公謹が病死。
211年:辛卯
後漢/ 荊州の次に取る予定であった益州の劉璋から五斗米道の張魯から国を守ってほしいとの要請が来た。しかしその使者となっていた法正は同僚の張松と益州の支配者を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めはこれを渋るが、孔明と厖統は渡りに船と劉備に強く薦め、劉備も益州を奪うことを決心した。 劉備は厖統・黄忠・法正を連れて益州を攻撃し、他の主な幹部、関羽・張飛・趙雲と孔明は魏・呉対策のために荊州に残した。しかし益州攻撃に苦戦し、厖統が戦死するに至って孔明は張飛・趙雲らを連れて援軍に赴いた。
ローマ/ 2月4日。ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが死去。 ローマ皇帝カラカラが即位。
プブリウス・セプティミウス・ゲタが、カラカラの共同皇帝として即位
12月19日。カラカラが、共同皇帝プブリウス・セプティミウス・ゲタを殺害。
212年:壬辰
後漢/ 曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の二人の将軍を殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。 初めは順調に進んでいたもののらく城(らく、?は各隹)にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行わざるを得なかった。 この戦闘中に厖統が流れ矢に当たって死去し、援軍として急ぎ諸葛亮・張飛・趙雲らが駆けつけて?を落とすことに成功し、更に成都を包囲。劉璋は降伏した。 劉備の軍師、厖統士元が死去。
ローマ/ ローマ皇帝カラカラが「アントニヌス勅令」発布。 ローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える。
213年:癸巳
後漢/ 魏国が成立。曹操、魏公となる。
214年:甲午
後漢/ 後漢が魏、呉、蜀の三分に定まる。 劉備軍は益州を平定し、孔明は軍師将軍・左将軍府事となった。ここでかつて孔明が計画した天下三分が定まった。 蜀を獲って安定した地盤を得た劉備であったが、それは孫権勢力からの嫉視を買うことになる。元々赤壁の際に主要な活躍をしたのは孫権軍であって、その戦果たる荊州は孫権軍が獲るべきと考えられていた。 しかし劉備にある程度の勢力すなわち荊州を与えて曹操に当たらせるという構想の元に荊州は劉備のものとなっていたのである。
百済/ 肖古王が死去。仇首王が即位。
ローマ/ 5月10日。後のローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスが生まれる。 後のローマ皇帝アウレリアヌスが生まれる。
215年:乙未
後漢/ 劉備が蜀を手に入れたことで孫権は荊州を返すようにといってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら返します」と答えた。涼州は蜀の遥か北であり、劉備がこれを獲ることはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。 これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入る。 しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。 このことに危機感を抱いた劉備たちは荊州の南三郡を割譲することで孫権と和解し、漢中の攻略を目標とすることになった。
ローマ/ カラカラの軍がエジプトのアレクサンドリアの民を虐殺。
216年:丙申
後漢/ 曹操、魏王に封じられ、後漢の配下の王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢をほぼ乗っ取った形であったが曹操は最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。 簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。
217年:丁酉
ローマ/ 4月8日。親衛隊長官マクリヌスによって皇帝カラカラが殺害される。母ユリア・ドムナも自死 4月11日。マクリヌスがローマ皇帝位に就任
218年:戊戌
後漢/ 劉備、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・[[張コウ|]]を攻め、翌年に黄忠の活躍により夏侯淵を切って漢中を占領する。その後、曹操の軍が奪還すべく攻めてきたが、篭城によりこれを撃退した。 漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて、219年劉備は漢中王を自称した。漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものである。 一方、東では荊州を奪還するべく呂蒙たちが策を練っており、関羽が曹操軍の曹仁を攻めている間に荊州本拠を襲い、孤立した関羽を捕らえてこれを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなる。
ローマ/ 6月8日。アンティオキアの戦いでマクリヌス帝が敗北。ローマ皇帝マクリヌス殺害される。 セウェルス家の巻き返しでエメサの神官ヘリオガバルスがローマ皇帝になる。 ヘリオガバルスはシリア・エメサの太陽神をローマのエラガバリウム神殿の主神として招来し黒石バエティルスを配置。
219年:己亥
樊城の戦いが起こる。
樊城(はんじょう)をめぐる劉備と曹操と孫権の衝突により、多くの武将が亡くなる。
後漢/ 三国時代の魏の武将、夏侯淵が死去。
三国時代の魏の武将、夏侯淵の五男、夏侯栄が死去。
三国時代の魏の武将、魏諷が死去。
三国時代の魏の武将、董衡が死去。
三国時代の魏の武将、董超が死去。
三国時代の魏の武将、楊修が死去。
三国時代の魏の武将、龍徳が死去。(龍=龍+厂)
三国時代の蜀の武将、関羽雲長が死去。(※後に、華僑によって「関帝聖君」として神格化。)
三国時代の蜀の武将、関羽の子、関平が死去。
三国時代の蜀の武将、侯音が死去。
三国時代の蜀の武将、 劉璋が死去。
三国時代の呉の武将、蒋欽が死去。
三国時代の呉の武将、呉蘭が死去。
三国時代の呉の武将、孫皎が死去。
三国時代の呉の武将、呂蒙が死去。
三国時代の呉の武将、陸績が死去。
220年:庚子
後漢/ 元号を延康に改元。 曹操孟徳、死去。遺言では戦時であるから喪に服すのは短くして、墓に金銀を入れてはいけないと言った。 死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。
魏/ 元号を黄初に制定。 曹丕が後漢の献帝を廃して魏王朝を立てる。九品官人法を制定。 三国時代の蜀の書官、法正が死去。
ゴート/ ゴート族、東西に分裂。
221年:辛丑
蜀/ 劉備が蜀王朝を建てる。 劉備が皇帝に即位。 元号を章武に制定。 孔明は丞相・録尚書事となった。

『三国志』「諸葛亮伝」では入蜀から一気に221年の劉備の皇帝即位に話が飛び、この間は孔明は劉備不在の際には成都を守り、兵士の食料を供給していたとだけ書かれている。 おそらくは後方支援の他にも支配体制の確立を行っていたのだろうが、このようなことは史書には残りにくい。また、この時期には従軍の際の劉備の傍らには法正があり、それぞれ役割を分担していたと考えられる。 ただ『蜀記』という書物からの引用に「孔明が入蜀後に新しい法律の制定に力を注いだ。その内容は大変厳しく、峻烈であった。これに対して法正が、『高祖(劉邦)の法三章の故事に倣い、もっと法律をやさしくすべきではないか』と問いかけてきた。 孔明は『蜀の旧主の劉璋は暗弱であり、きちんとした政治がほとんど行われていなかった。だから今は厳しい法で民が生業に安心して従事できるようにすべきである。』と答え、法正はこれに感服した」という。 この話はどうやら後世作られたものらしいが、これからは孔明は法家的な考え方をする人物であるように取れる。 劉備は関羽の弔い合戦と称して後に進軍を計画する。この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されると言う事件が起こり、孔明は張飛が就いていた司隷校尉(首都圏の長官)を兼務する。 夷陵の戦いが起こる。 この戦いは最初は上手く行っていたが、蜀の親征軍は快進撃を続けるが、これは孫権軍の総大将陸遜の相手を深く攻め入らせ、隊列が長くなった所で逆撃すると言う策戦であった。蜀軍は陸遜率いる軍に惨敗、劉備は白帝城に逃げ込みここを永安と改称した。 この戦いの後、孔明は「ああ、法正が生きていれば主君を諫めたであろうに。」と嘆いた。(法正は220年に死去している。)
三国時代の蜀の武将、張飛益徳が死去。 三国時代の蜀の武将、糜竺が死去。
魏/ 三国時代の魏の武将、于禁が死去。 魏の文帝曹丕の妻、甄妃が死去。
大和/ 「事代主」と母親「多紀理姫」(三穂津姫)を擁して、「天児屋根」アメノコヤネ・「武甕槌」タケミカズチ・「経津主」フツヌシの日向の総軍を挙げて出雲に乗り込んだ。何しろ末子相続の時代だから事代主が正当な相続人である。その為、心情的に同情はしても他の出雲の族長たちも実力で武御名方尊を擁護しきれなかったものと思う。 松江大橋川を鋏んでの攻防戦は簡単に終ってしまったようだ。むしろ、武御名方尊は観念して、ある程度の手兵を残して、北陸海岸沿いに逃げ、最後は信州諏訪に落ち延びたのである。武御名方尊は二度と諏訪を出て出雲に戻らないと約束した為、全国の神様が出雲に集う10月「神無月」カンナズキでも信州諏訪地方丈は今でも「神在月」カミアリズキと云う。 以上が世に云う「出雲国譲り」の顛末であるとも言われる。 魏志倭人伝では、邪馬台国は卑弥呼の死後大いに乱れ、その後女王をたてると国は治まったとある。また邪馬台国は近隣の狗奴国と争っていたという記述もある。 狗奴国との戦いについて記し、卑弥呼、以て死す。大きな塚を作る。塚の直径は歩いて百歩以上で、殉死する者百人以上。男王が立ったが国中再び乱れ戦となった。使者は千人以上に及んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族)で、十三歳の壱與(台与?)を王として再び国中が平定したと記されている。

日本史においては、紀元後とも思われる年代に神話の神々の名前が出てくるが、ここに登場する神々は神話の神々ではなく、神名を襲名した大和の民の事である。神代の記録でも、天神(アマカミ)はすでに襲名によって継承されてきたものであり、天照大神が8代目(古事記では12代目)と言われている。上代以降の歴史においては、それぞれの神々の名が、国を収める役割を担う者として継承されてきた。この思想は時代とともに衰退していくも、少なくとも明治初期までは日本に根付いていた考えである。
222年:壬寅
呉/ 三国時代が始まる。 孫権仲謀が自立して呉王朝を建てる。 元号を黄武に制定。
ローマ/ 3月11日。ローマ帝国セウェルス朝皇帝ヘリオガバルスが殺害される。 アレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。
223年:癸卯
蜀/ 劉備玄徳、夷陵の戦いで失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城でに死去する。 ※ 死去にあたり劉備は孔明に対して 「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」 (君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくんば、之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の10倍である。 きっと国を安定させて、最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。 もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。 これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます。)と答えた。 李厳のように諸葛亮に帝位に就くよう暗に勧める者もいたが、諸葛亮はあくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。 劉禅が皇帝となると、諸葛亮は、武郷侯・開府治事・益州牧になり、蜀の政治のすべてを任されることになる。関羽の死によりこじれた呉との関係を?芝(?は登におおざと)を派遣して修復し、魏に対する北伐を企図する。 その前段階として、南(雲南)で漢人官僚の搾取に対して雍?が反乱を起こすが、225年に南征し南方を安定させる。 この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。 またこの時にいわゆる七縱七禽の故事があったとも言われるが、陳寿の本文には登場しない。 元号を建興に改元。
224年:甲辰
ローマ/ 後のローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルスが生まれる。 ホルミズド平原の戦いでペルシアのアルデシール1世がパルティアのアルタバノスに勝利。
225年:乙巳
ローマ/ 1月20日。後のローマ皇帝ゴルディアヌス3世が生まれる。
蜀/ 雲南を南征し、治安を安定させる。
226年:丙午
魏/ 魏の初代皇帝、曹丕が死去。
ペルシアのアルデシール1世が「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」の称号を名乗る(サーサーン朝ペルシアの成立)。
ササン朝ペルシアがパルティアを滅ぼす。
227年:丁未
魏、蜀/ 北伐の準備を整えた孔明は、いよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かないものは人間にあらず。」とまで言われた。「表」とは公表される上奏文のことである。 一回目の北伐で孔明はかつて蜀から魏へと下った将軍・孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に下った後は異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、226年の曹丕の死後はそれまでの寵愛振りから嫉妬を受けて、極めて危うい状況にあった。 その情報を偵知していた孔明は孟達に対して調略の手を伸ばし、孟達もこれを受けようとしていた。 しかし魏の名将・司馬懿はこの情報を察知するや否や孟達を攻め滅ぼし、孔明に介入する間を与えずに孟達を討った。 魏の武将、孟達が死去。
魏/ 元号を黄龍に改元。
高句麗/ 山上王が死去。東川王が即位。
228年:戊申
蜀/ 孔明、漢中より北へ進軍を開始。 この時に将軍・魏延は分隊を率いて、一気に長安を突いて、その後に孔明の本隊と合流する作戦を提案したが、孔明はこれを受け入れなかった。 魏延はこの後、北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも孔明により退けられている。 孔明は名の知れた宿将である趙雲をおとりに使い、魏の大将軍・曹真の裏をかくことに成功し、そのことで魏の西方の領地である南安・天水・安定の三郡(いずれも現在の甘粛省に属する)が蜀に味方することを表明した。 魏はこれに対して司馬懿と並ぶ宿将の張?を派遣した。孔明はまたも趙雲をおとりに使い、最も重要な地点である街亭に自分が最も可愛がっていた馬謖を使うが、これが大失敗であった。 馬謖は孔明の指示を無視して山上に布陣したため、張?により山の下を包囲され、飲料水を確保できず、破れかぶれの反撃に出たところで張?軍により完膚なきまでに撃破された。 以前、劉備が白帝で病床にあった時に「馬謖は言う事が実際に行う分より大きいからあまり重用してはいけない。」と言っていたのだが、孔明は馬謖を信任してしまった。 街亭で敗北した蜀軍は全軍を引き上げさせ、孔明は馬謖を敗戦の罪により誅殺し、自らも三階級降格として丞相から右将軍になった。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。 ちなみに『三国志』「蜀志」の「向朗伝」に「馬謖が逃亡して、再び捕まった」との記述がある。孔明が右将軍となったと言っても蜀を運営していけるのは孔明以外におらず、実質上は丞相であった。 同年の冬、再び孔明は北伐を決行する。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が絶えない。 しかし二度目の北伐では曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。
229年:己酉
蜀/ 孔明、第三次の北伐を決行する。武将の陳式(陳寿の父という説もある)に武都・陰平の両郡を平定させた。 この功績により、再び丞相の地位に復帰する。
中国三国時代の蜀(蜀漢)の軍人、趙雲子龍が死去。
呉/ 元号を黄龍に改元。
230年:庚戌
蜀/ 孔明、第四次の北伐を行うが、食料不足により撤退する。 この撤退の時に魏の張?を討ち取っている。ところがこの食糧不足は食糧輸送の一切を監督していた李厳(この時は李平)が孔明に手柄を独占されたくないと考えて、偽って食料を送らなかったのであり、孔明が帰還した所で李厳は「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」などと聞き返してきた。 これに呆れた孔明は李厳を庶民に落とした。
魏/ 後漢・魏の政治家であり書家、鍾ヨウが死去。
新羅/ 奈解王が死去。助賁王が即位。
ペルシア/ ゾロアスター教がサーサーン朝ペルシアの国教となる。
231年:辛亥
魏/ 後の三国時代魏の皇族、曹殷が生まれる。
後漢?三国時代魏の政治家、華欠が死去。(欠=音+欠)
後漢?三国時代魏の武将、張合が死去。(合=合+おおさとへん)
三国時代魏の武将、曹真が死去。
呉/ 後の三国時代呉の皇族、孫?が生まれる。
蜀/ 後漢、三国時代蜀漢の武将、李恢が死去。
232年:壬子
呉/ 元号を嘉禾に改元。
233年:癸丑
魏/ 元号を青龍に改元。
234年:甲寅
魏・蜀/ 五丈原の戦いが起こる。(魏と蜀の戦い) 第五次、最後の北伐に出る。この戦いで孔明は屯田を行い、持久戦の構えを持って五丈原で司馬懿と長い時間に渡って対陣する。しかし食糧不足が解決されても今度は孔明の健康問題が生じてきた。頼りにしていた呉が荊州と合肥の戦いで魏に大敗し、司馬懿は専守防衛に徹した。 孔明は陣中で病に侵されていたが、ついにそのまま陣中で没した。 蜀軍は退却するが、その途中で魏延と楊儀とで争いが起こり、孔明の与えておいた策で楊儀が勝ち魏延を殺した。蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見た司馬懿は陣地の素晴らしさを見て、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。 孔明は、漢中の定軍山に魏が見える様に葬られたという。遺言により質素な墓とされた。 孔明が死んだ事を聞いた李厳は「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった。」と嘆いた。
魏/ 後漢の最後の皇帝、献帝が死去。
蜀/ 蜀の丞相、諸葛亮孔明が死去。 百済/ 仇首王が死去。古尓王が即位。
235年:乙卯
ローマ/ 3月18日- ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスが死去。セウェルス朝が断絶。 3月20日。ローマ帝国マクシミヌス・トラクスが即位。 軍人皇帝時代の始まり。 またこの時代をローマ帝国内外の社会的・経済的変動を含めて「3世紀の危機」とも呼ぶ。
236年:丙辰
インド(月氏)/ サータヴァーハナ朝が滅亡。
魏/ 後の西晋の初代皇帝、司馬炎が生まれる。
237年:丁巳
魏/ 元号を青龍に改元。
燕/ 公孫淵が燕国(遼東)を起こす。元号を紹漢とする。
238年:戊午
燕/ 元号を青龍に改元。 三国時代、遼東公孫氏の当主(燕王)、公孫淵が死去。
魏/ 魏、遼東の公孫氏を滅ぼし、楽浪郡・帯方郡の2郡を領有する(『魏志』倭人伝)。 後の西晋の武帝司馬炎の皇后、楊艶が生まれる。
呉/ 元号を赤烏に改元。 ※呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)。
蜀/ 元号を延熙に改元。 蜀(蜀漢)の政治家、李福が死去。
ローマ/ 内戦が起こる(六皇帝の年)。 3月22日。ゴルディアヌス1世即位、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝に指名。 4月12日。ゴルディアヌス2世が戦死、ゴルディアヌス1世が自死。 4月22日。マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスとデキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスが共同で皇帝となる。ゴルディアヌス3世が副帝に即位。 4月?日。マクシミヌス・トラクスが親衛隊により殺害される。 7月29日。プピエヌス・マクシムス、バルビヌスが親衛隊により殺害される。ゴルディアヌス3世が単独皇帝となる。
日本/ 呉の「赤烏元年(238)」の紀年銘を持つ画面帯神獣鏡出土する(山梨県西八木郡鳥居原きつね塚古墳)
239年:己未
大和/ 6月。倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。 12月。明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初3年『魏志』倭人伝)。
※「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。 これ以降、大和と中華(中国)との交易が盛んであった事が記録に現れる。 「景初三年」の紀年銘を持つ神獣鏡が、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳と島根県大原郡の神原古墳から出土している。
240年:庚申
大和/ ※ 「□始元年」の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡が、出土する(群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳)。
ローマ/ キリスト教家ラクタンティウスが生まれる。
241年:辛酉
ペルシア/ サーサーン朝ペルシア、シャープール1世が第2代皇帝に即位。 サーサーン朝ペルシア、メソポタミアを占領。このころ、クシャーナ朝を破り、インドへ侵入。クテシフォンからニコシアに遷都。
ローマ/4世紀頃にローマ帝国によって編纂されたとされている『皇帝列伝』によれば、ローマ行軍歌のなかにフランク人(フランク族)という記録が出てくる。 当時のローマ人は、ライン川中流域に居住するゲルマン人民族を一括して「フランク人」と呼んだ。 フランクの語源は「勇敢な人々」「大胆な人々」あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味だが、当時のフランク族は投擲武器として「フランキスカ」という戦斧を用いていた。 その特徴から「フランキスカを用いる民族」として「フランク人」とした説もある。(民族による領土争いの絶えなかった時代では、戦う事が初見である事が多く、民族の語源が武器名に由来している事は珍しくない)
呉/ 三国時代の呉の政治家・武将、諸葛亮の兄である諸葛瑾が死去。
242年:壬戌
越(西蔵:チベット)/ このころ、マニがペルシアでマニ教の宣教を開始。
インド/ クシャーナ朝が衰退。
243年:癸亥
大和/ 倭王が魏に使者を送り、生口・倭錦などを献じる
(魏の正始4年、『魏志』少帝紀、同倭人伝)。
244年:甲子
大和/ ※「□烏七年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉古墳から出土している(呉の赤烏七年)。 一般学説的にはこの頃、マヤ文明が興る。(マヤの地の歴史とは異なる。)
ローマ/ 2月11日。マッシナの戦いで、サーサーン朝のシャープール1世がローマ皇帝ゴルディアヌス3世を敗死させる。 フィリップス・アラブスが即位。
魏の毌丘倹が高句麗に遠征し丸都城を蹂躙する。
245年:乙丑
大和/ 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『魏志』倭人伝)。
246年:丙寅
後の三国時代の魏の第5代、最後の皇帝、曹奐が生まれる。
247年:丁卯
大和/ 倭の女王卑弥呼は、狗奴国と対立していたが、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄をつくって告喩する(魏の正始8年、『魏志』倭人伝)。 北九州で皆既日食が観察されている、という説がある。
新羅/ 助賁王が死去。沾解王が即位。
248年:戊辰
この頃、女王卑弥呼死す。径100余歩の冢を造り、奴卑100人を殉葬する。 男王を立てるが、国中服さず、誅殺しあい、1000余人が殺されたという。 卑弥呼の宗女壱与(または台与)が女王となり、国中が治まる。 魏使ら、檄をもって壱与に告喩する。壱与、倭の大夫ら20人を遣わして、魏使らを送らせ、生口30人、白珠5000孔などを献じる(魏の正始九年、『魏志』倭人伝)。
※ 日本神話の天照大神の岩戸隠れのエピソードは、この年日本で見られた日食をモチーフにしたものとする解釈がある。 ローマ皇帝ピリップス・アラブスによるローマ建国一千年祭が行われる。
249年:己巳
魏の司馬懿がクーデターを起こし、実権を握っていた曹爽らを誅殺する
(高平陵の変または正始の政変)。
魏/ 元号を嘉平に改元。
ローマ/ ローマ皇帝フィリップス・アラブスが死去。 ローマ帝国デキウスが即位。
250年:庚午
ペルシア/ ササン朝ペルシャのシャープール1世がインドのクシャン朝を破る。
ローマ/ ローマ皇帝デキウスが、キリスト教徒を迫害。 3月31日。後の西ローマ帝国皇帝、コンスタンティヌス朝の創始者となる、コンスタンティウス・クロルスが生まれる。 年代は不明だが、ヴィデーハ朝がこの期にクシャナ朝より独立し、ティーラブクティ国となる?
ヴィデーハ朝は、マガダ国と婚姻関係の強い国であったが、ティーラブクティ国となってもその関係は継承されていた可能性が強い。 また、その関係性から、バラモン教を主とする中でも排他的な価値観を持つ国であったとされており、しばしば周辺の国々と対立していた。