西暦451年〜500年

451年:辛卯
6月20日、カタラウヌムの戦いで西ローマ・ゴート連合軍がフン族のアッティラ王を破る。カルケドン公会議。
7月、済王(允恭天皇)、宋朝・文帝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝) また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝) 10月8日、カルケドン公会議で単性論(非カルケドン派)が異端宣告される。
452年:壬辰
北魏の太武帝が宦官の宗愛により殺害される。 アッティラ率いるフン族がイタリアに進攻。
允恭天皇四二年(453年):癸巳
崩御。新羅王は悲しみ、多くの調を持ってやってきたと言う。崩年は78歳(古事記)。 アッティラが急逝。フン族の後継者争いが起こり、息子のエラックが勝利する。
安康天皇元年(454年):甲午
ネダオ川の戦いで、フン族の王エラックがゲピド族長アルダリックに敗北し、フン族の国家は崩壊する。 1月28日、(允恭天皇42年12月14日)安康天皇即位。別名を穴穂天皇(あなほのすめらみこと)と言う。 中国の『宋書』・『梁書』の倭の五王の中の倭王興に比定されている。 453年、允恭天皇が崩御すると、第一皇子である木梨軽皇子(きなしかるのみこ)が即位するはずであったが、近親相姦の前科が有ったために群臣がこれを嫌い、皆、穴穂皇子の側に付いた。その為、木梨軽皇子が穴穂皇子を殺そうとして兵を集めた。 穴穂皇子も戦いの準備を始めたが、木梨軽皇子は群臣が離反していくのを悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだが、兵士に囲まれて自害した。 こうして、穴穂皇子は12月に天皇に即位した。 しかしながら、安康天皇は456年8月9日、在位3年余りにして、眉輪王(まよわのおおきみ)に暗殺されてしまう。『古事記』によれば56歳と言う。 ※牟佐坐神社の由緒書き 祭神 高皇産霊神、孝元天皇  安康天皇の御代には、牟佐村(現三瀬町)の鎮守であり、祭神は「生雷神」雷公であったとされている。  日本書記天武紀に、高市県主許梅への神がかりの中で「吾は高市社にいる、名は事代主神なり、また、身狭社にいる、名は生霊神なり。」と言い、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種種の兵器を奉れ」等の託宣をしている記事が見える。 生霊神は生国魂神と同じ神である。  また雄略記には身狭村主を呉国に遣わしむとある。新撰姓氏録には身狭村主、呉の孫権の男、高より出づとあり、身狭村主の一族は呉の国に出自の渡来人であった事を伺わせる。  江戸初期までは榊原(境原)天神であり、享保年間に菅公を奉祀していたが、明治になり、古道再び明らかにと、天津神である高皇産霊神を奉祭した。  境内は孝元天皇即位の宮地である。孝元天王軽境原宮跡の石碑がある。懿徳天皇の宮跡の碑はない。
安康天皇二年(455年):乙未
ローマ/ ヴァレンティニアヌス3世の暗殺による西ローマ帝国でのテオドシウス朝の断絶。
ヴァンダル人のガイセリックがローマを占領
安康天皇三年(456年):丙申
眉輪王の変(日本書紀) 記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという。 履中天皇が雄略天皇に殺されて後、億計(おけ)と弘計の兄弟は、逃げて身を隠した。丹波国与謝郡に行き、のちに播磨国明石に住む。縮見屯倉首に仕え、名を変えて丹波小子(たにはのわらし)と名乗る。 陶弘景、生まれる。中国六朝時代の医学者・科学者。道教の茅山派の開祖
雄略天皇元年(457年):丁酉
雄略天皇即位。大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)と言う。倭の五王の中の倭王武に特定されている。埼玉稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の金象嵌鉄剣銘や、江田船山古墳(熊本県玉名郡菊水町)出土の銀象嵌鉄刀銘に見える「獲加多支鹵(わかたける)大王」ではないかと推測されている。 『日本書紀』には、この雄略天皇とは、人の意見を聞かず誤って何人もの罪なき人を殺したとして「はだはだ悪い天皇だ」と人々がそしっていたとしている。また雄略天皇の伝説によると、三輪山の神(大物主尊)を宮中に引きずり出したとか、葛城山の神・一言主神を四国に追放したなど様々なものがある。いずれにしてもそれまでのヤマトにおける「合議制」の政治構成から、日本史上初めての「独裁」政権を行使した天皇である。 456年 安康天皇が、眉輪王(まゆわのおおきみ)に暗殺されたので、皇位継承の争いが始まる。 まず、同母兄の一人、八釣白彦皇子を暗殺の容疑で斬り殺してしまう。一方眉輪王は、同じく兄の境黒彦皇子の元に逃げ込んだので、これも一緒に焼き殺してしまう。また、履中天皇の皇子・いとこの市辺押磐皇子(いちのへのおしいわのみこ、仁賢天皇・顕宗天皇の父)も謀殺し、ライバルを排除して天皇の座についた。 都は泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや)」も朝倉宮を指すと言われる。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡ではないかと話題を呼んだ。尚、日本霊異記によれば、磐余宮(いわれのみや)にも居たという。
雄略天皇五年(460年):庚子
12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 百済の蓋鹵王(がいろおう)が、それまでに日本に女人を送り続けていたのを改め、弟の昆支(こんき)を日本に向かわせ、天皇(允恭天皇の事)に仕えさせる。また、『日本書紀』によれば、雄略天皇の5年(461年)百済の武寧王が筑紫の加羅嶋(かからしま)で誕生した事になっている。 北魏で雲崗石窟の工事始まる。 柔然が高昌に侵攻し、宋の河西王(北涼の残党)を滅ぼす
462年:壬寅
倭王興、宋に使者を派遣。 3月、宋・孝武帝、済の世子の興(安康天皇)を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) 祖沖之により、大明暦が完成される
463年:癸卯
吉備田狭の乱(『日本書紀』) 吉備田狭が朝廷で妻の稚媛を自慢していることを聞いた雄略天皇が、吉備田狭が任那に出兵している間に稚媛を奪ったためだと日本書紀に記載されている。 朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。しかし、弟君はそのことを知った妻樟媛に殺された。反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。 星川皇子の乱が起こる。 その後、稚媛は雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した。 百済から日本に陶工・画工が伝わる
雄略天皇八年2月(464年):甲辰
新羅・高句麗の軍を破り、9年5月には新羅に攻め込んだ。新羅を撃破し続けたが、将軍紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が死に、指揮系統が乱れたため退却した(『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入している。こちらは新羅が打ち破ったと記載されている)。
467年:丁未
4月12日、アンテミウスが西ローマ帝国皇帝に即位。
468年:戊申
バシリスクス司令官率いる東西ローマ帝国連合軍が北アフリカのボン岬でヴァンダル王国に大敗。
471年:辛亥
埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した「辛亥年七月中」の干支銘を持つ金錯銘鉄剣が製作される。
472年:壬子
西ローマ帝国の事実上の支配者のリキメル将軍と皇帝アンテミウスが対立し、内乱に突入。メディオラヌム司教エピファニウス(英語版)が調停を行う。 アンテミウス帝は軍隊が逃げ出すまでローマに籠城を続けた。物乞いに変装して逃亡を図るがサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で捕えられ斬首される。 7月11日、リキメルはオリブリオスを西ローマ皇帝であると宣言するが、2か月後に大量出血により死去する。ブルグント族出身の将軍グンドバット(英語版)が西ローマ軍の指揮権を引き継ぐ。 11月2日、オリブリオス帝が僅か4か月の在位で死去。在位中の彼は主に宗教に打ち込み、実権はグンドバットに掌握されていた。 ヴェスヴィオ山が噴火。南イタリア一帯に火山灰が降り注いだ。
473年:癸丑
ネポス、西ローマ帝国の皇帝に即位。
雄略天皇二〇年(475年):乙卯
高句麗が百済を攻め滅ぼした。 西ゴート王エウリックがゲルマン法に基づく成文法の「エウリック法典」を編纂。 10月31日、最後の西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルス即位
雄略天皇二一年(476年):丙辰
雄略天皇は任那の一部を百済に与え、百済国を救い興した。ただしここには諸説あり、最も有力なものが、これは与えたのではなく、百済の一方的な侵略であり、雄略天皇がこれを黙認したのではないかという事である。(『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。 これにより、長年にわたっての日本と伽邪の友好関係は大きく揺らぐ事となる。 新羅、伽邪に対して、侵攻を開始する。 9月4日、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、西ローマ帝国が滅亡する。帝位は東ローマ皇帝ゼノンに返上され、オドアケルはパトリキウスとしてイタリアを支配する。
477年:丁巳
11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀) これより先、興(安康天皇)没し、弟の武(雄略天皇)立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)
雄略天皇二三年(478年):戊午
百済の文斤王(もんこんおう)が亡くなると、雄略天皇は昆支と共に来日していた昆支の次男である末多王(またおう)に五百人の護衛兵をつけて百済に送り返す。この頃より、百済と日本の大王家との間が急接近する。 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武(雄略天皇)を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、倭国伝)(「武」と明記したもので初めて) (倭王武が宋に入貢して上表する。「父祖の功績と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾し、自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求める。宋の順帝武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、『宋書』倭国伝)。)
479年:己未
中国で南朝の宋に代わり斉が成立。
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武(雄略天皇)を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
清寧(せいねい)天皇元年(480年):庚申
2月11日、雄略天皇の崩御にともない、清寧天皇即位。名は、白髪皇子(しらかのみこ)という。別名を白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と言う。 即位の折りには兄の星川皇子との間での後継争いに勝利する。 子がいなかったのを気に病んでいたが、履中天皇の皇子・市辺押磐皇子の子、億計王(おけ、後の仁賢天皇)、弘計王(をけ、後の顕宗天皇)を発見し、億計王を立太子させ、弘計王を皇子とした。 ダルマティアの支配者で西ローマ皇帝でもあったユリウス・ネポスがスパラトゥムで暗殺される。
清寧天皇二年(481年):辛酉
後の顕宗天皇、身を現わす。清寧天皇には子がなく、翌3年(482年)二人を摂津国に迎えて皇子とした。 メロヴィング朝のフランク国王キルデリク1世が死去。 キルデリク1世はベルギーのトゥルネーの墓に多数の黄金の宝飾品とともに埋葬される。 キルデリク1世の息子クロヴィス1世が全フランクを統一し、メロヴィング朝のフランク国王として即位。
482年:壬戌
東ローマ皇帝ゼノンが「ヘノティコン(統一令)」を発布。
483年:癸亥
5月11日、ユスティニアヌス1世、東ローマ皇帝、帝国領の再征服を果たす(〜565年)
484年:甲子
清寧天皇、病気で崩御。崩年は『水鏡』に41歳。都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)。 ヘラートの戦いで、エフタルのアフシュワルがサーサーン朝のペーローズ1世を敗死させる。 山西省大同郊外にある北魏の吏部尚書司馬金龍墓が作られ、「彩絵人物故事漆屏(中国語版)」が置かれる。 栖霞寺の創建
顕宗(けんぞう)天皇元年(485年):乙丑
顕宗天皇即位。名を弘計王(をけのみこ)と言う。都を近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、或いは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)に移す。 億計王(仁賢天皇)が皇太子になったが、清寧天皇が崩御すると互いに皇位を譲り合ってなかなか天皇が決まらなかった。その為、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)がその間政務を見た。結果的に兄の説得に折れる形で485年、顕宗天皇が皇位に付いた。 雄略天皇の皇女、春日大娘皇女を立てて皇后とした。 オホド生まれる。後の継体天皇。(『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)) 『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。 近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。 ある一説によると、父の彦主人王に引き継がれた語部(書物、文献、もしくは語り部という職人、等)も、越前国へ移動する際に一緒に移動させた。もしくは、語り部のみ、高島郷に残したという。 その書物が「ホツマツタヘ」「ミサカフミ」「フトマニ」の三巻であるとされている。 北魏の馮太后の摂政のもと孝文帝が均田制を実施する。
※ ※ ※
記紀以前の古典の多くは、書物として発生した時期が比較的若い時期となっている事が多く、それ故に信憑性が問われる昨今だが、それもその筈であり、日本文化の大きな特徴としては、もともと語り部による口伝による継承手段がそのほとんどであり、筆記法が主になるのは平安時代以降の話である。雅楽の楽曲が譜面化されるようになったのも江戸〜明治時代以降であり、それまでは唱歌として口伝により継承してきたのが典型的な例。したがって記紀以前の古文献のほとんどは、各時代において口伝を書き写した「写本」として発見される事が多く、オリジナルが発見される事は稀である。言葉のニュアンスに流行言葉が発見される事も多いが、それは口伝として継承されていた事が要因であるため、信憑性の判断基準とする事自体は説得に欠ける事を留意したい。
486年:丙寅
ソワソンの戦いで、クロヴィス1世がガリア北部を支配していた西ローマ系軍閥シアグリウスを破る。 孝文帝が三長制を実施。
487年:丁卯
紀生磐の乱(日本書紀) 高車が柔然の支配から脱してジュンガリアに建国
仁賢(にんけん)天皇元年(488年):戊辰
第24代天皇・仁賢天皇が即位 名を大脚(おほし)または大為(おおす)という。 字は嶋郎(しまのいらつこ)。 おくりなして億計天皇(おけのすめらみこと)ともいう。 安康天皇3年、父が雄略天皇に殺されて後、逃げて身を隠す。丹波国与謝郡に行き、のちに播磨国明石に住む。縮見屯倉首に仕え、名を変えて丹波小子(たにはのわらし)と名乗った。清寧天皇2年身を表す。清寧天皇には子がなく、3年二人を摂津国に迎えて太子とした。   清寧天皇の太子となるが、位を弟と譲りあう。その間は飯豊青皇女が執政。弟が先に即位し顕宗天皇となる。 その死後、石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや。現在の奈良県天理市石上町、或いは同市嘉幡か)で即位。 佐伯造、石上部(いそのかみべ)の舎人をおき、 高麗(こま)に日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わしたとされる。 東ローマ皇帝ゼノンがエデッサの学院閉鎖を命じ、教師と学生はニシビスへと移動する。
489年:己巳
イゾンツォの戦い(英語版)で、東ゴート族長テオドリックがオドアケルに勝利しイタリアに進出。
493年:癸酉
高句麗から皮革工が伝わる 北魏が平城から洛陽に遷都 東ゴート人の族長テオドリックがオドアケルを破ってイタリアに東ゴート王国を建国。
494年:甲戌
北魏の孝文帝が大同から洛陽に遷都。洛陽近郊に竜門石窟寺院が建立され、漢化政策が推進される。
495年:乙亥
サクソン人の長チェルディッチ、息子のキュンリッチとともにブリタンニアに侵攻
496年:丙子
北魏の皇子元恂が、平城で反乱を起こす 嵩山少林寺の創建 トルビアックの戦いでフランク王国がアラマンニ族に勝利する。この勝利で王妃クロティルドの薦めもあり国王クロヴィス1世がランス司教レミギウスのもとカトリックに改宗する。
498年:戊寅
小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)が大伴金村に命じて、平群真鳥とその子、平群鮪を攻め殺す。 トルファン地方に麹氏の高昌国が興る。
武烈天皇元年(499-505年-):己卯
名は小泊瀬稚鷦鷯(尊)(おはつせわかさざきのみこと)という。都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、現在の奈良県桜井市出雲か)。古事記には、長谷之列木宮とある。 武列天皇の政権についてはよくわかっていない。出生は仁賢天皇の皇子である。はっきりと明確にはされていないが、『日本書紀』によれば、独裁的であり、酒池肉林を好み、人を苦しめる事に快楽を求めたという天皇とされている。文献のほとんどは、中国においての非道とされてきた皇帝を書き表したものによく似ている。この非道ぶりにおいて、全国の豪族層が武烈天皇を失脚させたとある。『古事記』には、そのような記録がない。 この相違は次代の継体天皇を美化、またはその即位を正当化するために前の天皇である武烈天皇を実際よりも悪く書いたという説もある。ちなみに戦前・戦時中の教科書では悪い部分を削除していた。 長谷(はつせ)の列木(なみき)宮で8年間天下を治めた。太子(ひつぎのみこ)がなったので、御子代(みこしろ)として、小長谷部(をはつせべ)を定めた。天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王(みこ)無かりき。故、品太(ほむだ)天皇の五世の孫、袁本(おお)どの命を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。(『古事記』) 武烈天皇、平群真鳥に当時存在した古文書を現代の文字に編纂させた。この文書を「竹内文書」といった。 ただし、武烈天皇の即位と、平群真鳥の没年で発生の由来に相違があるため、竹内文書の起源は、はっきりとわかっていない。 12月、第25代天皇・武烈天皇が即位
500年前後
ベイドン山の戦いでブリトン人がアングロ・サクソン人を打ち破る。この事件がアーサー王伝説の起源か。