西暦50年〜100年

51年 : 辛亥
ローマ帝国/10月24日。第11代ローマ皇帝となるドミティアヌスが生まれる。
53年 : 癸丑
高句麗/11月、解憂(慕本王)、いつか王に殺されると恐れていた杜魯という側近に殺される。
54年:甲寅
10月13日。第4代ローマ皇帝クラウディウスが死去。ローマ帝国でネロが帝位に就く。
高句麗/先代の慕本王が53年11月に臣下の杜魯に殺害されたとき、慕本王の太子の翊(よく、イク)が不肖であったために、 国人が、宮(太祖大王)を迎えて王位につけた。 『魏書』高句麗伝には「朱蒙死,閭達代立。閭達死,子如栗代立。如栗死,子莫來代立。・・・莫來子孫相傳,至裔孫宮」とあり、 この莫來を慕本王として、太祖大王の治世が長すぎる(93年間)こともあって、慕本王から太祖大王までの間に数代の欠落があったとする説もある。
55年 : 乙卯
2月11日。ローマ帝国の帝位後継者ブリタンニクスが死去。
56年 : 丙辰
後漢の光武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
高句麗/7月、宮(太祖大王)は、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東海)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。
57年 : 丁巳
倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝、魏志倭人伝) 後漢の初代皇帝、光武帝が死去。
59年 : 己未
ローマ皇帝ネロが実母小アグリッピナを殺害。
60年:庚申
庚申の年となる。
61年:辛酉
ローマ帝国の属州ブリタンニアでブーディカの乱が起こる。 古代ローマの文人であり政治家、ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)が生まれる。
62年:壬戌
エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教 ローマのポンペイ(現在のカラブリア州)で大きな地震。 ナザレのイエスの異父弟または従兄とされる人物、ヤコブが死去。
ローマ皇帝ネロの最初の妻、クラウディア・オクタウィアが死去。
ローマ皇帝ネロの側近であり親衛隊長官、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスが死去。
63年:癸亥
ローマ皇帝クラウディウスの解放奴隷にして側近、マルクス・アントニウス・パッラスが死去。
64年:甲子
甲子の年となる。
1月18日。ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。
11月17日。ローマ皇帝ティトゥスの娘、ユリア・フラウィアが生まれる。 後漢/伝承の通りであれば、蔡愔、秦景らの使節団が天竺を抜け、大月氏に向かう。そこで迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧と出会う。
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おそらくは、当時カブール(現在)もしくは、その東南東近くにあったガンダーラ(現在ガンダーラは南インドにあるがそれではない)が目的地であったと推測される。
当時は、サマルカンドとマトゥルラーをつなぐ交易路があり、ガンダーラやカブールはこの交易路上にあった。後のクシャーナ朝の主要ルートとなる。
65年:乙丑
古代ローマの政治家、思想家、詩人、セネカが死去。
ローマ皇帝ネロの2番目の妻、ポッパエア・サビナが死去。
66年:丙寅
帝政ローマ時代の文人ペトロニウスが死去。
67年:丁卯
ローマ/ 1月29日、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー、ペトロが死去。(後代の伝承による) ウェスパシアヌスがユダヤ属州に派遣。 ネロ、帝国東方の軍司令官コルブロおよび彼の兄弟に自死を命じる。
ユダヤ戦争でローマ軍と戦っていたヨセフ(後の歴史家フラウィウス・ヨセフス)がウェスパシアヌスに投降。
初期キリスト教の理論家、新約聖書の著者の一人パウロが死去。(後代の伝承による)
ローマ帝国の軍人グナエウス・ドミティウス・コルブロが死去。
後漢/ 洛陽に白馬寺を建立したという説話による、仏教の中国伝来の一説の年。
白馬寺の由来は、迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧と、蔡愔、秦景をはじめとする十数人の使者が、白馬に乗り『四十二章経』という経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬寺と名づけられた。
サンクスリットで記載された仏教経典の漢訳がおこなわれる。
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この当時、中国では儒教や道教が強い影響力をもっていたため、漢訳時においても儒教・道教の思想が基盤となり「空」は「無」として解釈された。
68年:戊辰
ローマ/ 6月8日、元老院の推薦でローマ皇帝にガルバが即位
6月9日、第5代ローマ皇帝ネロが死去。
高句麗/8月、曷思王の孫の都頭が、国を挙げて宮(太祖大王)の元へ投降。
69年:己巳
ローマ/4帝乱立の一年。
1月15日、ローマ皇帝ガルバが殺害される。
1月15日、オトがローマ皇帝に即位
4月15日、ローマ皇帝オト自死
4月17日、ローマ皇帝ウィテリウス即位
12月22日、ローマ皇帝ウィテリウス、ウェスパシアヌスによって殺害される。
フラウィウス朝の確立。
70年:庚午
ウェスパシアヌス、ローマに入る。フラウィウス朝始まる
ユダヤ戦争終了。エルサレム攻囲戦で都市とエルサレム神殿が破壊される。 コロッセオの建設が始まる(他説あり) ドミティアヌス、コルブロの娘と結婚 古代ギリシアの数学者アレクサンドリアのヘロンが死去。
大和/ 8月8日、第11代天皇垂仁天皇が崩御。
景行天皇元年(71年):辛未
日本書紀:元年秋七月己巳朔己卯、太子卽天皇位、因以改元。是年也、太歲辛未。
(※年月日それぞれの干支で記載がある。年は60年周期。月は5年周期だが潤月が加わるためずれていく。日もまた同じ。朔は月の一日目(朔日)の事。己卯の日であったと記されている) 景行天皇が即位。別称を、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)という。
垂仁天皇の第三皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んでそれを許されて即位した。 七十七人の皇子女を諸国に分封し、諸国の別の祖とするなど全国的に勢力を広げ、皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊に九州の熊襲や東国の蝦夷を鎮定させたと伝えられている。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。131年、崩御。143歳といわれている。
ローマ/ウェスパシアヌスとネルウァが執政官となる。
72年:壬申
播磨稲日大郎姫が、景行天皇の皇后となる。
後に、櫛角別王、大碓命、小碓命、倭根子命、神櫛王が生まれた。
※日本書紀の原文を素読みすると、景行天皇が二年の時に、たくさんの子供が生まれたように記載されているが、もともとは語り部が伝えていた内容なので、実際生まれた年は不詳。
高句麗/2月。宮(太祖大王)は、藻那国を討伐。
3月3日、播磨稲日大郎姫が皇后に立てられた。
73年:癸酉
後漢の班超が西域に出征 ドミティアヌスが執政官となる。
2月、景行天皇が紀伊国へ行幸。屋主忍男武雄心命に紀伊の神を祀らせる。屋主忍男武雄心命の息子が武内宿禰。
74年:甲戌
2月、大和/景行天皇が美濃(現、岐阜県美濃市〜可児市と推定)へ行幸。美人と名高い弟姫を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在したが拒絶された。
しかし、そのあとに姉の八坂入媛命を事を聞き妃とした。
日本書紀の記載にある「弟姫」は、姉の八坂入媛命を相対した代名詞。
泳宮跡地は、現在の岐阜県可児市久々利1606-4に存在している。
日本書紀では、それぞれ生まれた子供が記されている。
10月、高句麗/宮(太祖大王)は、朱那国を討伐。
11月、大和/景行天皇が纒向(まきむく:奈良県桜井市穴師)に都を移す(日代宮)。
75年:乙亥
ローマによって都市カーウェントが発見される。 古代ローマの歴史家スエトニウスが生まれる。
後漢の第2代皇帝、明帝が死去。
76年:丙子
1月24日、ローマ皇帝ハドリアヌスが生まれる。
百済/第3代王、己婁王が即位。
77年:丁丑
百済の第2代王、多婁王が死去。
78年:戊寅
後漢代の政治家・科学者・文学者、張衡が生まれる。
79年:己卯
ローマ/ 6月23日、ローマ皇帝ウェスパシアヌスが死去。
6月24日、ティトゥス、ローマ皇帝に即位
8月24日、ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
ローマ帝国の元老院議員、博物学者「大プリニウス」の異名を持つ、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスが死去。
9月23日、ローマ教皇リヌスが死去。
中国後漢/ 学者、馬融が生まれる。 第4代皇帝、和帝が生まれる。
新羅/婆娑王が即位。
80年:庚辰
ローマ/ コロッセウムが完成。 アルサケス朝パルティアの王ヴォロガセス2世が死去。 新羅/ 第4代の王、脱解尼師今が死去。 後漢〜新/ 新/後漢の政治家、武将である趙憙が死去。
81年:辛巳
9月13日、ローマ帝国皇帝ティトゥスが死去。
9月14日、ドミティアヌス、ローマ皇帝に即位。
82年:壬午
大和/景行天皇が即位12年にあたるこの年に播磨稲日大郎姫との間に、大碓尊、小碓尊が生まれる。
生年不詳とされているが、小碓尊が熊襲討伐を行ったのが十六歳のため、換算すれば生まれたのはこの頃に当たる。
小碓尊(後の日本武尊)は、亦名を日本童男(ヤマトオグナ)という。
日本書紀においては、兄の大碓尊とは双子であったと記されている。
古事記においては、武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじらた、という意味合いの表現がなされている。
景行天皇43年(西暦113年)に亡くなったとされているため、没年は32歳であったと推定される。(日本武尊の歩んだ道が、素戔嗚尊と同じ道跡を歩んでいるという説もある。)
日本武尊は実在しているが、実は西征はしなかったという説もある。しかし、九州にあるいくつかの神社では、東征と同じく日本武尊が訪れた事に由来して創建されたものがいくつかある事、熊襲討伐の伝承が他の地域で発生していない等からして、西征の実在性がなかったとは言い難い。
尚、滋賀県米原町の琵琶湖沿岸に位置する荒磯崎神社(現、磯崎神社)は、日本武尊の奥津城でもあり、日本武尊を祀っている。。(伊雑宮口頭伝)
83年:癸未
ローマ/モンス・グラウピウスの戦い(84年説あり)が起こる。 大和/熊襲國(現在の宮崎県)が恭順しなかったため、景行天皇が熊襲の討伐へ向かう。土蜘蛛との戦い。
天皇に恭順しなかった民を、蝦夷として征討の対象に記した記録は、この時期からと思われる。(ホツマツタエでは「ハタレ」としているが、アスス暦を換算すると100万年前という記述になるため、対象外とする)
神道が明確に定められたのは仏教が伝来し延喜式が定められてからになるが、それ以前は祖神がどの存在であるかによって区別がなされていた。
天津神を祖神とする天皇を祀る民とは違い、日本古来から存在した外津神や国津祇、天別津神、天甕星神を祖神とした民、あるいは異民族、当時の反天皇派の意志をもつ民、天皇に恭順しなかった民はすべて夷狄と見なされた。蝦夷や土蜘蛛もまた、そうした民のひとつである。
これらの民は、ここで独自の優れた文化を持ち合わせていた事も多く、同時に夷狄として見られていた事から、後世において鬼や妖怪の類として記録されていく事になる。
景行天皇が日向国の高屋宮に到着。市乾鹿文が天皇に協力して父を殺すものの、その親不孝を憎んで天皇に殺される。
8月、景行天皇が筑紫に行幸される。(景行天皇の西征)
9月、周防国の娑麼(現在の山口県府中市)に到着。神夏磯媛という女酋が投降する。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。
同月、筑紫(九州)に入る。豊前国の長狹県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(現在の福岡県行橋市)と呼ぶ。
10月、豊後国の碩田(おおきた:現在の大分県大分市)に到着。速津媛という女酋が現れる。速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猨、八田という。そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺。
11月、景行天皇が日向国の高屋宮(宮崎県高屋神社)に到着する。宮崎県西都市にも古墳が広がっているため、西都市が高屋宮ではないかという説がある。日向五郡八院旧元集によれば、景行天皇は6年間この高屋宮を行宮の拠点としている。「武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」ともあるので、後に八幡神(やはたのかみ:応神天皇・比売神・神功皇后)を奉った事がうかがえる。
12月、景行天皇は熊襲梟帥(くまそたける)を討つ計画を立てる。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文と市鹿文の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文兵は1、2人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。
そこまでは考えていなかった天皇は姉の市乾鹿文に対して、親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造(統治者:現在の熊本県)に送り飛ばしてしまった。(※熊襲梟帥の名は「熊襲梟帥○○」というように世襲制によって継がれているため、後世にも熊襲梟帥の名は後世にも登場する。)
84年:甲申
ローマ/ モンス・グラウピウスの戦い(83年説あり)が起こる。
大和/景行天皇が襲国(ソノクニ)を平定。
景行天皇、熊襲國の御刀媛(みとひめ)を妃とする。豊国別皇子が生まれる。豊国別皇子は日向国造の祖とされている。
大和/ 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:後の第13代成務天皇)が生まれる。
85年:乙酉
ローマ/ ギリシャ人天文学者クラウディオス・プトレマイオスが生まれる。
鮮卑が北匈奴を破る。
南匈奴の単于、湖邪尸逐侯是単于が死去。(是=革+是)
86年:丙戌
9月19日、後のローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが生まれる。
後漢の政治家、儒学者、黄瓊が生まれる。
87年:丁亥
フラウィウス朝ローマ帝国の軍人コルネリウス・フスクスが死去。
後漢/元和から章和に改元
大和/熊襲において、景行天皇が子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。以後、熊襲國は日向國(ヒムカノクニ)となる。
景行天皇、九州で京を思い思邦歌(クニシノビウタ)を歌う。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)」
88年:戊子
後漢/第3代皇帝、章帝が死去。
大和/
3月、景行天皇、日向國から大和へ帰京を開始。景行天皇、夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛が儀式を行うのを見る。
4月、景行天皇が熊県(熊本県球磨郡)で弟熊を誅殺。葦北の島で水が湧く。
5月、景行天皇が火の国(現、熊本県)へ移動。 高来県(長崎県諫早市)を通過。
6月、景行天皇、玉杵名邑(熊本県玉名市)の土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を誅殺。阿蘇(熊本県阿蘇郡)で阿蘇津彦と阿蘇都姫に出会う。
7月、景行天皇が筑紫国の御木(福岡県大牟田市)に着いて高田行宮に滞在。八女県へと移動。藤山を越えて南の粟岬を眺められる。景行天皇の山に神が居わすのかという問いに、水沼県主の猿大海が「八女津媛」という神がいると奏上。八女国と名づけられる。
8月、景行天皇が的邑(いくは(村)、現在の福岡県浮羽郡)で食事。
89年:己丑
後漢/永元に改元
9月、大和/景行天皇、日向國から大和へ帰京。
90年:庚寅
大和/景行天皇、おそらくは倭姫命によって、五百野皇女に天照大神を祀らせる。 伊勢斎宮群行の始まり。
倭姫命世記:倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめみこくすひめのみこと)に移し奉る。
春二月朔日(現在の3月半ば。御神事としては3月19日に定着)、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。
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倭姫命は歳老いた自らに代わり、斎内親王を継承し仕奉るための皇女を卜定にて選出する事を決める。選出された内親王または王女は当時の宮中から伊勢神宮に出仕し、初斎院に入る事となる。この時、諸々の仕えし氏族たちがともに行群する。これが伊勢斎宮群行となる。
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91年:辛卯
後漢/班超、西域都護となり西域50ヶ国を平定
ローマ/ローマ教皇アナクレトゥスが死去。
92年:壬辰
外戚の主導者、竇憲が死去。 漢書の著者の一人、班固が死去。
93年:癸巳
8月23日、ローマ帝国ブリタニア総督グナエウス・ユリウス・アグリコラが死去。
94年:甲午
後漢/ 班超が西域諸国を制圧。 後の第6代皇帝、安帝が生まれる。
95年:乙未
大和/ 景行天皇が、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させる。日本書紀では、北陸(北陸道)および東(東海道、東山道)の国々の地形、また百姓の様子を見させた、という記載がある。
福島・岩沼沖で地震発生の可能性。アウターライズ地震で、貞観地震や東北地方太平洋沖地震時を超える規模の「東北太平洋沿岸津波」が発生したと推定されている。歴史研究家の飯沼勇義が提唱。
96年:丙申
古代ローマで五賢帝時代始まる。
9月18日、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌスが死去。
??年
大和/ 古事記:
三野国造の祖、神大根王の娘、兄比賣と弟比賣の二人がとても美しいと聞いて、大碓命を遣わし、この二人を召し上げようとした。
ところが遣わされた大碓命は、そのまま天皇のもとに送らず、自分でこの二人の姫と交わり、他の女を姫に仕立てて、「これがその兄比賣と弟比賣です」と言って天皇に奉った。
だが天皇は差し出された女が他の女だと気づき、何度も見直し、女を召しもせず、思いに沈んだ。
この大碓命が兄比賣に生ませた子は押黒之兄日子王(三野の宇泥須和氣の祖)、また弟比賣に生ませた子は押黒弟日子王(牟宜都君らの祖)である。
この御世に田部を定め、東の淡(安房)の水門を定めた。また膳部(かしわで)の大伴部を定め、倭の屯倉(みやけ)を定めた。また坂手池を作って、その堤に竹を植えさせた。
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古事記にある三野国とは美濃の事とされている。(岐阜県美濃市)
日本書記に登場する八坂入媛命と弟姫は、崇神天皇の第二皇子である八尺入日子命の娘。
古事記にある神大根王(八瓜入日子王)は、開花天皇の第三皇子である彦坐王(ひこいますのみこ)と天之御影神の女(巫女)である息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと)との間に生まれた子である。
こちらも「兄比賣(えひめ)」と「弟比賣(おとひめ)」という代名詞としての記載になっているが、八尺入日子命と八瓜入日子王は、全くの別人と推定される。
97年:丁酉
甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
大和/
2月、武内宿禰が帰京。蝦夷の地に豊かな土地があることが判明。武内宿禰は、東の夷の中に日高見国がある事、その国の人は男も女も、ともに髪を結い、背も高くて、人となりは勇ましい事、それらの人たちを蝦夷と言う事、土地は広大で肥沃であるため、討って出る事を進言する。
8月、熊襲(クマソ)が再度反乱を起こす。
?月(時期不肖)、古事記:
天皇は小碓命に「どうしてお前の兄は朝夕の大御食に出席しないのか。お前が行って、出てくるように教えてやれ」と言う。ところがその後五日も経つのに、まだ出て来ない。天皇はまた小碓命に「どうしてお前の兄はいつまでも出て来ないのか。まだ説得しに行っていないのか」と尋ねた。小碓命は「もう言いました」と答えた。
「どんな風に説得したのだ」と重ねて尋ねる。小碓命は、景行天皇にたいして「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき、兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦(こも)に包み投げ捨てた」と答える。
天皇は小碓命の猛烈で荒々しい心を知り、恐ろしく思った。九州の熊襲建兄弟(2人)の討伐を命じられる。
わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
日本書紀:景行天皇、日本武尊を遣わして熊襲討征をおこなう。(日本武尊)十六の歳。
10月、小碓尊が熊襲(クマソ)討伐に向かう。
12月、小碓尊が首長の川上梟帥(カワカミノタケル)を討つ。この時、川上梟帥より「タケル」の名を授かり、日本武尊(ヤマトタケル)の異称となる。古事記によれば、小碓尊(倭健命)は熊襲討伐の帰途、出雲に入った。出雲の首長である出雲健(イズモタケル)討伐のため、まずは出雲健と親しくなる。そして密かに赤檮(イチイ)の木から木刀を作り偽の佩刀とし、出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案する。遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけたが、刀を抜くことが出来ず、倭建命に討たれる事となった。
そして倭建命は次の歌を詠んだ。
「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」
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古事記に記載がなされている景行天皇と小碓尊のやりとりで、多くの有力説は小碓尊が大碓尊を殺めたと解釈している。しかし、記紀において人を殺めたという記載は、「殺めた」や「討った」といった明確な表現をしている。なので、ここではあえて小碓尊は景行天皇にそのように「答えた」だけと解釈している。実際のところ、この出来事以降においても大碓尊は登場し、愛知県にある猿投神社の社伝では大碓尊が猿投山に登る途中で蛇毒が原因で亡くなった(42歳)という伝承が残されている。
98年:戊戌
大和/大和武尊(小碓尊)が熊襲討伐を報告する。この後、大和武尊は弟橘媛と出会う事になる。
1月27日、ローマ/ローマ皇帝ネルウァが死去。
1月28日、ローマ帝国皇帝トラヤヌスが即位。
タキトゥスが『ゲルマニア』を編纂(他説あり)
3月(二月乙丑の朔の日)、大和/日本武尊は熊襲を平定した様子を景行天皇に奏上。「私は天皇の神霊のお陰で、一度の挙兵で刃向かう熊襲の魁帥者を殺して、悉く其の国を平定し、西の国は鎮まりました。百姓も無事です。ただ、吉備の穴済の神と難波の柏済の神だけが全ての者を傷付ける意志があり、毒気を放って道行く人々を苦しめました。故に悪人の集う場所となっていました。そのため、悉く悪しき神を殺し、水陸の道を開きました。」景行天皇は、日本武尊の功績を褒められ、特にかわいがられた。
3月、大和/倭姫命世記:春二月(3月半ば)、暴神多に起りて、東国安からず。
倭姫命世記によればこの年の10月、日本武尊(小碓尊)が東征のために伊勢神宮を発った記載されている。その際に、倭姫命は叢雲剱を日本武尊に授けた。
一方で、日本書紀によれば、上記の出来事は景行天皇即位40年(110年)にあった事とされている。
100年:庚子
日本で石器が消滅し、鉄器が普及する。
ペルー北海岸のモチェ川周辺で、本格的にモチェ文明が始まる。700年頃まで続く。後に神への生け贄信仰が始まる。
中国最古の字典「説文解字」が完成。
キリスト教神学者ユスティノスが生まれる(他説あり)。
古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが死去。
ティオティワカンの都市設計が行われる。「月のピラミッド」「太陽のピラミッド」「死者の通り」が建設される。