西暦50年〜100年

51年 : 辛亥
ローマ帝国/10月24日。第11代ローマ皇帝となるドミティアヌスが生まれる。
53年 : 癸丑
高句麗/11月、解憂(慕本王)、いつか王に殺されると恐れていた杜魯という側近に殺される。
54年:甲寅
10月13日。第4代ローマ皇帝クラウディウスが死去。ローマ帝国でネロが帝位に就く。
高句麗/先代の慕本王が53年11月に臣下の杜魯に殺害されたとき、慕本王の太子の翊(よく、イク)が不肖であったために、 国人が、宮(太祖大王)を迎えて王位につけた。 『魏書』高句麗伝には「朱蒙死,閭達代立。閭達死,子如栗代立。如栗死,子莫來代立。・・・莫來子孫相傳,至裔孫宮」とあり、 この莫來を慕本王として、太祖大王の治世が長すぎる(93年間)こともあって、慕本王から太祖大王までの間に数代の欠落があったとする説もある。
55年 : 乙卯
2月11日。ローマ帝国の帝位後継者ブリタンニクスが死去。
56年 : 丙辰
後漢の光武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
高句麗/7月、宮(太祖大王)は、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東海)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。
57年 : 丁巳
倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝、魏志倭人伝) 後漢の初代皇帝、光武帝が死去。
59年 : 己未
ローマ皇帝ネロが実母小アグリッピナを殺害。
60年:庚申
庚申の年となる。
61年:辛酉
ローマ帝国の属州ブリタンニアでブーディカの乱が起こる。 古代ローマの文人であり政治家、ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)が生まれる。
62年:壬戌
エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教 ローマのポンペイ(現在のカラブリア州)で大きな地震。 ナザレのイエスの異父弟または従兄とされる人物、ヤコブが死去。
ローマ皇帝ネロの最初の妻、クラウディア・オクタウィアが死去。
ローマ皇帝ネロの側近であり親衛隊長官、セクストゥス・アフラニウス・ブッルスが死去。
63年:癸亥
ローマ皇帝クラウディウスの解放奴隷にして側近、マルクス・アントニウス・パッラスが死去。
64年:甲子
甲子の年となる。
1月18日。ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。
11月17日。ローマ皇帝ティトゥスの娘、ユリア・フラウィアが生まれる。
65年:乙丑
古代ローマの政治家、思想家、詩人、セネカが死去。
ローマ皇帝ネロの2番目の妻、ポッパエア・サビナが死去。
66年:丙寅
帝政ローマ時代の文人ペトロニウスが死去。
67年:丁卯
ローマ/ 1月29日、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー、ペトロが死去。(後代の伝承による) ウェスパシアヌスがユダヤ属州に派遣。 ネロ、帝国東方の軍司令官コルブロおよび彼の兄弟に自死を命じる。
ユダヤ戦争でローマ軍と戦っていたヨセフ(後の歴史家フラウィウス・ヨセフス)がウェスパシアヌスに投降。
初期キリスト教の理論家、新約聖書の著者の一人パウロが死去。(後代の伝承による)
ローマ帝国の軍人グナエウス・ドミティウス・コルブロが死去。
後漢/ 洛陽に白馬寺を建立したという説話による、仏教の中国伝来の一説の年。
68年:戊辰
ローマ/ 6月8日、元老院の推薦でローマ皇帝にガルバが即位
6月9日、第5代ローマ皇帝ネロが死去。
高句麗/8月、曷思王の孫の都頭が、国を挙げて宮(太祖大王)の元へ投降。
後漢/明帝の治世に仏教が中国大陸に伝わり、白馬寺が建立される
69年:己巳
ローマ/4帝乱立の一年。
1月15日、ローマ皇帝ガルバが殺害される。
1月15日、オトがローマ皇帝に即位
4月15日、ローマ皇帝オト自死
4月17日、ローマ皇帝ウィテリウス即位
12月22日、ローマ皇帝ウィテリウス、ウェスパシアヌスによって殺害される。
フラウィウス朝の確立。
70年:庚午
ウェスパシアヌス、ローマに入る。フラウィウス朝始まる
ユダヤ戦争終了。エルサレム攻囲戦で都市とエルサレム神殿が破壊される。 コロッセオの建設が始まる(他説あり) ドミティアヌス、コルブロの娘と結婚 古代ギリシアの数学者アレクサンドリアのヘロンが死去。
大和/ 8月8日、第11代天皇垂仁天皇が死去。
景行天皇元年(71年):辛未
景行天皇が即位。別称を、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)という。 垂仁天皇の第三皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んでそれを許されて即位した。 七十七人の皇子女を諸国に分封し、諸国の別の祖とするなど全国的に勢力を広げ、皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊に九州の熊襲や東国の蝦夷を鎮定させたと伝えられている。『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。131年、崩御。143歳といわれている。 この時、魏志倭人伝には、「其の国、本亦男子を以って王と為す。往(いまおさる)七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼と云う」 出雲の王、須佐之男が九州地方をも征圧していたが、須佐之男の死後、入り婿の大国主が後を継いだ後も、国乱れて収まらず、卑弥呼の娘「多紀理姫」を現地妻としていた大国主も日向の地で死んだため、義母の立場にあった、卑弥呼が女王として立った事実が記されているものと解釈している。この間が約7?80年あったと言われている。
ローマ/ウェスパシアヌスとネルウァが執政官となる。
72年:壬申
高句麗/2月。宮(太祖大王)は、藻那国を討伐。
ローマ/ウェスパシアヌスとティトゥスが執政官となる。
73年:癸酉
後漢の班超が西域に出征 ドミティアヌスが執政官となる
74年:甲戌
高句麗/10月。宮(太祖大王)は、朱那国を討伐。
75年:乙亥
ローマによって都市カーウェントが発見される。 古代ローマの歴史家スエトニウスが生まれる。
後漢の第2代皇帝、明帝が死去。
76年:丙子
1月24日、ローマ皇帝ハドリアヌスが生まれる。
百済/第3代王、己婁王が即位。
77年:丁丑
百済の第2代王、多婁王が死去。
78年:戊寅
後漢代の政治家・科学者・文学者、張衡が生まれる。
79年:己卯
ローマ/ 6月23日、ローマ皇帝ウェスパシアヌスが死去。
6月24日、ティトゥス、ローマ皇帝に即位
8月24日、ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
ローマ帝国の元老院議員、博物学者「大プリニウス」の異名を持つ、ガイウス・プリニウス・セクンドゥスが死去。
9月23日、ローマ教皇リヌスが死去。
中国後漢/ 学者、馬融が生まれる。 第4代皇帝、和帝が生まれる。
新羅/婆娑王が即位。
80年:庚辰
ローマ/ コロッセウムが完成。 アルサケス朝パルティアの王ヴォロガセス2世が死去。 新羅/ 第4代の王、脱解尼師今が死去。 後漢〜新/ 新/後漢の政治家、武将である趙憙が死去。
81年:辛巳
9月13日、ローマ帝国皇帝ティトゥスが死去。
9月14日、ドミティアヌス、ローマ皇帝に即位。
83年:癸未
ローマで、モンス・グラウピウスの戦い(84年説あり)が起こる。
84年:甲申
ローマ/ モンス・グラウピウスの戦い(83年説あり)が起こる。
大和/ 第13代天皇、成務天皇が生まれる。
85年:乙酉
ローマ/ ギリシャ人天文学者クラウディオス・プトレマイオスが生まれる。
鮮卑が北匈奴を破る。
南匈奴の単于、湖邪尸逐侯是単于が死去。(是=革+是)
86年:丙戌
9月19日、後のローマ帝国皇帝アントニヌス・ピウスが生まれる。
後漢の政治家、儒学者、黄瓊が生まれる。
87年:丁亥
フラウィウス朝ローマ帝国の軍人コルネリウス・フスクスが死去。
後漢/元和から章和に改元
88年:戊子
後漢/第3代皇帝、章帝が死去。
89年:己丑
後漢/永元に改元
91年:辛卯
後漢/班超、西域都護となり西域50ヶ国を平定
ローマ/ローマ教皇アナクレトゥスが死去。
この代に、日本武尊が日本各地を征伐する。
異称を、小碓命(オウスノミコト)、倭建命(ヤマトタケルノミコト)、倭男具那尊(ヤマトオグナノミコト)、日本童男命(ヤマトオグナノミコト)という。 日本武尊は第12代景行天皇の子として誕生した。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていた。
ある日,景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや?奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われる。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は,二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことと決め,父の前には別の娘を差し出してごまかすことにした。しかし,このことが父に知られることとなり,大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまう。
そのため朝夕の食事にも同席せず,大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまった。そこで,父は弟の小碓命(日本武尊)に食事の席に出るように諭してくるように命じた。小碓命は早々に兄に会い,教え諭した。しかし,それでも大碓命が顔を出さないので,父が小碓命にどのように諭したのかをたずねたところ,「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき,手足をもぎ取り,体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えた。  小碓命が16才のとき,父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じた。熊襲建(くまそたける)兄弟は武勇に秀でていたが,大王の命に従わおうとしないので,征伐することになった。九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりで,そこでは祝いの宴が催されていた。小碓命は少女のように髪を結い,叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込んだ。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると,その前に進み出て目にとまるような仕草をした。色白で美しい小碓命に熊襲建の兄が声をかけてそばに座らせた。そして,兄が小碓命を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき,小碓命はここぞどかりに持っていた短刀で兄を一気に斬り殺してしまった。それを見て外に走って出ようとした熊襲建の弟を追い,背中から刀をさしたところ,弟は自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが倭にはいたんだと知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。小碓命はこれより倭建命(日本武尊)と名乗ることにした。(「建」は勇敢な者という意味を持つ)  
奈良にある宮に戻る途中も,山の神,川の神,河口の神などの大王に従わない者たちを征伐した。出雲の国の出雲建(いずもたける)を征伐するときも頭を使って勝利し,国を平定した。
宮に戻った日本武尊は羽曳野で一人の娘と出会った。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれた。
日本武尊は休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばならなかった。父は,東国の12か国(伊勢:いせ,尾張:おわり,三河:みかわ,遠江:とおとうみ,駿河:するが,甲斐:かい,伊豆:いず,相模:さがみ,武蔵:むさし,総:ふさ,常陸:ひたち,陸奥:みちのく)が従わないので平定するよう倭建命に命じたのだった。 出発前,日本武尊は伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)から須佐之男命(すさのおのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を受け取った。 尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ)と出会い,東国の平定後に結婚すると約束した。 美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており,副将軍として東国の平定に出かけることとなった。
相模の国に入る前で妃の弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流した。
土地の役人が日本武尊を迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。日本武尊は罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われている。 天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れた日本武尊はこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。
「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社に祀られているとある。  この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。
また,日本武尊は小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。 走水(はしりみず)の海は三浦半島沖と房総半島にはさまれたあたりの海をさすが,船出をした日本武尊たちを嵐(あらし)が襲(おそ)った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。雷鳴がとどろき,激しい雨と風に船なすすべもなかった。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言った。そして,その怒りを静めようと海に身を投げてしまった。やがて海は静まり,日本武尊たちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができた。海岸で日本武尊はクシを見つけた。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきた。
こうして東国の神々を平定し,日本武尊たちは帰途についた。甲斐,信濃長野,美濃大井,釜戸,池田から尾張の国境,内津(うつつ)峠に入った日本武尊は早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞いた。日本武尊は「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭った。これが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院であったとされている。(春日井市教育委員会案内板より)
この後,日本武尊美夜受比売と再会し結婚した。 尾張ではまだしなければならないことがあった。それは伊吹山の神を征伐することだった 。日本武尊は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにした。伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きなイノシシが現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。ところがこのイノシシが山の神自身が変身していたのだった。山の神は日本武尊たち一行に大氷雨を降らせた。日本武尊たちは大きな痛手を被り,日本武尊自身も病にかかり伊吹山を下りた。 伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いた日本武尊は清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。
滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」がある。昔は中山道を往来した人たちの休憩所でもあった。日本武尊が傷をいやしたことから「居醒の清水」と呼ばれ,醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。 伊吹山での戦いの後,疲れ果ててしまった日本武尊は鈴鹿の山を越え,現在の三重県四日市市から鈴鹿市の国道1号にほぼ沿った道を杖をつきながら歩いた。 能褒野(のぼの)に向かう途中,だんだん弱ってきた日本武尊が「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語ったことからこの地を三重と呼んだ。
やっとのおもいで能褒野にたどり着いた日本武尊はここで力尽きた。
「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし」
この知らせは宮にいる妃たちにも届いた。そして,能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,倭の方へ飛んでいった。 この白鳥が舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で白鳥陵がある。 再び白鳥は空へと舞い上がる。
日本武尊の生涯については、記紀で記されているのはこの通りであるが諸説あり、はっきりとした事は不明である。 景行天皇43年(西暦114年)に亡くなったとされているため、没年は39歳であったと推定される。 (日本武尊の歩んだ道が、素戔嗚尊と同じ道跡を歩んでいるという説もある。)
尚、日本武尊をお祀りしている神社は、滋賀県米原町の琵琶湖沿岸に位置する荒磯崎神社(現、磯崎神社)であり、日本武尊の墓所でもある。(伊雑宮口頭伝)
92年:壬辰
外戚の主導者、竇憲が死去。 漢書の著者の一人、班固が死去。
93年:癸巳
8月23日、ローマ帝国ブリタニア総督グナエウス・ユリウス・アグリコラが死去。
94年:甲午
後漢/ 班超が西域諸国を制圧。 後の第6代皇帝、安帝が生まれる。
96年:丙申
古代ローマで五賢帝時代始まる。
9月18日、ローマ帝国の第11代皇帝ドミティアヌスが死去。
97年:丁酉
甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
98年:戊戌
1月27日、ローマ皇帝ネルウァが死去。
1月28日、ローマ帝国皇帝トラヤヌスが即位。
タキトゥスが『ゲルマニア』を編纂(他説あり)
100年:庚子
日本で石器が消滅し、鉄器が普及する。
ペルー北海岸のモチェ川周辺で、本格的にモチェ文明が始まる。700年頃まで続く。後に神への生け贄信仰が始まる。
中国最古の字典「説文解字」が完成。
キリスト教神学者ユスティノスが生まれる(他説あり)。
古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが死去。
ティオティワカンの都市設計が行われる。「月のピラミッド」「太陽のピラミッド」「死者の通り」が建設される。