紀元前100年〜0年

概要

紀元1年の前年にあたる、紀元前1年は、紀年法としての尺度である。紀元1年を西暦1年として見立てた場合、紀元前1年は西暦0年として解釈する。


前99年
前漢の李陵が匈奴に降伏する。
前98年
前漢の武帝が泰山で封禅の儀を執行する。
祟神天皇の御代、(前97年-)
異称を、御間城入彦五十瓊殖天皇。所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと)『古事記』。御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)『日本書紀』という。 「御間城天皇(みまきのすめらみこと)の世に、額(ぬか)に角有ひたる人、一(ひとつ)の船に乗りて、越国(こしのくに)の筒飯浦(けひのうら)に泊まれり。故(かれ)、其処(そこ)を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と日ふ。」 この時、越国の筒飯浦(福井県敦賀市気比町)に鉄の生産国である意富加羅国(おおからこく)の王子ツヌガアラシト(アメヒホコ。もしくは少彦名尊)が来日する。泊まった地域を角鹿(同町角鹿)と呼んだ。(『ホツマツタエ』『日本書紀』記) また、この後においてツヌガアラシトは、出雲(ヤマト)に渡ったとされる。(『風土記』『播磨国風土記』『日本書紀』記) この時代、『日本書紀』によれば、ヤマト朝廷は三輪山の麓、城上郡志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社付近を中心として勢力をもった豪族、磯城県主(しきのあがたぬし)から、正妃を輩出していたとある。さらに『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』によると、磯城県主は、物部同族であったとしている。 前漢で司馬遷が『史記』を完成。
崇神天皇3年(前95年)
三輪山西側のふもとの瑞籬宮(みずかきのみや、奈良県桜井市金屋)に遷都。金星は古来鉄に関係する名前で、実際に遺跡から沢山の鉄屑が見付かっている。(時代は未確認)。即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるために宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。天照大神は、まず皇居の北1Kmにある笠縫邑、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に最終的に現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。詳細記事:元伊勢 倭大国魂神は、いくつかの場所を移動し、最終的に皇居の北10Kmにある現在の大和神社に鎮座した。 大物主命は、占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫に当たる太田田根子に託して祀らせた。これは現在の大神神社にあたり、当時の皇居の北1Kmに位置し三輪山を御神体としている。
前91年
古代ローマで同盟市戦争(- 紀元前88年)。
崇神天皇10年(前88年)
大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波へ将軍として送り、従わないものを討たせた。しかし大彦命は異変を感じて途中で引き返した。 そのとき孝元天皇の皇子、武埴安彦(たけにわやすひこ)がその妻吾田媛(あたひめ)と謀反を起こしている事を知り、武埴安彦は山背(山城)から吾田媛は大坂から都を襲おうとした。崇神天皇は、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り、これを迎え撃って迎撃する。一方山背には大彦命と彦国茸(ひこくにふく、和珥(わに)氏の祖)を向かわせこれを打ち破った。
古代ローマでミトリダテス戦争(- 紀元前63年)。
崇神天皇11年(前87年)
四将軍が地方の敵を帰順して、帰参した。
崇神天皇12年(前86年)
天下は落ち着きを取り戻し、平穏になった。
その為、天皇を褒め称え、御肇国天皇と呼んだ。
前82年
ルキウス・コルネリウス・スッラがローマの終身独裁官に就任。
前73年
古代ローマで剣闘士のスパルタクスが反乱を起こす(- 紀元前71年)。
前70年
10月15日 、ローマの詩人/ウェルギリウス(プブリウス・ウェルギリウス・マロ)が生まれる。 バージルともいう。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』という3つの叙情詩及び叙事詩(ヘクサメトロスという韻律で書かれた詩でテオクリトスと同一又は類似の韻律を踏襲している)を残した。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される詩人である。 生地はガリア・キサルピナのアンデスという村で、現在の北イタリアマントヴァ付近のアンデスという農村だったと考えられている。
ウェルギリウスはクレモナとミラノで教育を受けた後、ローマで修辞学・弁論術・医学・天文学などを修め、その後エピクロス学派の哲学を学んだ。 ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺後、マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスは、ピリッピの戦いで共和派を破ったが、その後オクタウィアヌスは、退役軍人に農地を与えるため、イタリア各地で農地の没収を始めた。 その際ウェルギリウスの農地も一時没収の憂き目に会うが、オクタウィアヌスに直訴することで、没収をまぬがれた。 ポリオの庇護を受けて、ウェルギリウスは『牧歌』を完成させる。 それが、オクタウィアヌスの寵臣であったガイウス・マエケナスの目にとまり、以後その庇護を受け、詩作活動を行った。
紀元前19年、50歳で没した。
前63年
古代ローマのポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤを平定する。
ローマ帝国の皇帝/アウグストゥス(インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス/ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス)が生まれる。
ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、帝政(元首政)を創始、「ローマの平和」を実現した。 騎士階級に属するガイウス・オクタウィウスとアティア(カエサルの姪)との間に生まれる。 出生の時の名はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスと称する。姉には小オクタウィアがいた。 幼少の頃はウェレトラエ(現ヴェッレトリ)の祖父のもとで過ごす。
前60年
古代ローマでカエサルが執政官に就任、ポンペイウス、クラッススと共に第一回三頭政治を開始。
前58年
カエサルがガリア戦争を開始(- 紀元前51年)。 トゥリヌス(アウグストゥス)、父と死別。
その後、母アティアはルキウス・マルキウス・ピリップスと結婚、この時トゥリヌスは新夫妻の元へ引き取られ、継父は実の息子とともにトゥリヌスのことを可愛がったという。
前54年
匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。
前53年
カルラエの戦いでパルティアがクラッススを破る。
崇神天皇46年(前52年)
弥生時代の池上曽根遺跡から出土した神殿らしい高床式建物に使用されていた柱を年輪年代測定法で検査すると、この年の伐採ヒノキ材であることが判明した。
崇神天皇48年(前50年)
豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼びどちらを皇太子にするか決めた。
その結果、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
カエサルがファルサロスの戦いでポンペイウスを破る。
古代ローマの主導権を得る。
前47年
トゥリヌス(アウグストゥス)、神祇官 (Pontiff) に任命される。 クレオパトラ7世がエジプトの主権を握る。
前46年
ローマにおいて1年が445日存在する(翌年にローマ暦に代わってユリウス暦が導入されるための移行措置で、歴史上もっとも1年の日数(暦年)が多かった年とされている)。
トゥリヌス(アウグストゥス)、大叔父カエサルの建造したウェヌス神殿を記念してギリシアの古代オリンピックに参加させられる。 本来は大叔父のアフリカ遠征に付き従いたかったのだが、母親アティアの反対により断念となった。 大叔父カエサルのヒスパニア遠征に従軍したが、ムンダの戦いでカエサル軍が勝利をすでに収めた後であり、彼自身も出立直前に病に倒れる結果となってしまった。 病が治るとすぐに戦場に船で急行したが、途中で船が難破し、カエサルと敵対する勢力の真ん中に漂流してしまう。 ここでトゥリヌスは生き残った少数の兵を掌握し敵陣を横断、この彼の行動はカエサルに強い印象を与え、一説にはこの時にカエサルは自分の後継者としてトゥリヌスを選ぶ事にしたと言う。
またトゥリヌスは計画されていたパルティア遠征には司令官として赴くことになっていた。 そして虚弱体質で軍才もないという弱点を補うべく、生涯の盟友となるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパともこの前後に引き合わされた。
前45年
ユリウス暦が実施される。 太陽暦の一種。
ユリウス・カエサルによって制定されたという。 1年を原則として365日とし、4年に1度の閏年に、2月に1日を加えて366日とする。 正確な一太陽年とは、4年に約44分の誤差がある。 1582年2月24日にグレゴリオ暦が発布され、同年10月4日(木曜)の翌日を10月15日(金曜)とされてからは、徐々に取って代わられた。 暦の切り替えはキリスト教圏でもばらつきがあり、ロシアは共産主義革命まではユリウス暦が採用されていた。 現在でも東方正教会ではユリウス暦を用いて祭礼を行なっている。ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まったあとでキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、東方正教会がグレゴリオ暦を導入していないわけではない。(ユダヤ教は1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、東方正教会では、完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである)
前44年
地球上空にニビルを観測する事が出来た言われている。
3月15日、カエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺される。 この時はカエサルの指示からトゥリヌスはギリシア西海岸にて遊学中であったが、急遽ローマへ帰還する。 その途中ギリシアからほど遠くない南部イタリアブルンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していた事を知る。 これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になった。 そして以後ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスを名乗る。 ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちより温かい歓迎を受けたオクタウィアヌスはカエサルの側近たちの協力も得、カエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するためカエサルが集めた公的資金を要求。 70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められた。 そして元老院の査察のもとその資金で軍団を編成、東方に派遣したとされているが、実情はアントニウスを中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。 そして、また彼は権限なしで東方の属州からローマにわたるはずの税収を収用した。
5月6日、オクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれていた。 カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、マルクス・ブルトゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはガリア・キサルピナ属州(現・北イタリアの一部、当時は本土イタリアの内と考えられていなかった)を支配下に抑えていた。 ローマに戻ったオクタウィアヌスは、軍団兵の支持厚い名将、民衆派の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を執り行った。 カエサルの財産の4分の3を相続するはずだったオクタウィアヌスだが、下記のようにアントニウスの妨害にあってそれを入手出来ないでいた。 しかし借金などの金策に努めてカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。 次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせる。 当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようオクタウィアヌスが説得した。 アントニウスはこれを拒否し、オクタウィアヌスは説得には失敗するものも、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。
9月、アントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。 オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを論難、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。 次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。 この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。 彼は執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目した。 この属州は、上述のとおり当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。 この間オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集し自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個軍団も指揮下に入れる。
12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、翌紀元前43年1月1日ガリア・キサルピナへと逃れた。 ガリア・キサルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルトゥスはムティナ(現:モデナ)でアントニウス軍に包囲されていた。元老院は争う両者を止めようとするも失敗。自らの軍を持たない元老院に代わってオクタウィアヌスがこの状況を活用しようとする。 この時点でオクタウィアヌスが自ら配下の軍団を持っていることは周知の事実であり、血統的に元老院の新参者であるオクタウィアヌスの弱点を突くアントニウス派の攻撃を、キケロが弁舌で擁護していた。
前43年
アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスが第二回三頭政治を開始。
1月1日、元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして彼にインペリウムを与えた。 この年の執政官であるヒルティウスとパンサとともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官はアントニウスとの戦いで戦死した(ムティナの戦い)。 元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づき、上記の両執政官が率いた軍団の指揮権を委ねることを決議した。 これに反発したオクタウィアヌスは前線から撤退、ポー川流域に留まり、それ以上のアントニウスへの攻撃要請を拒否した。
6月、オクタウィアヌス配下のケントゥリオがローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。 元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍する。
8月19日、さしたる抵抗なくローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。一方でアントニウスは、同僚でカエサル支持派でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスと連合して元老院と対峙した。 ここで、内心はカエサルの後継者として帝政(元首政)を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。
10月、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立した。 この同盟関係は密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。 彼らは国家再建三人委員会に就任し、カエサル暗殺者逮捕を名目に元老院派の排除に乗り出した。 この際、かつてのルキウス・コルネリウス・スッラのように、作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2000人が殺害、財産が没収されたといわれる。 粛清リストにキケロの名があったため、盟友であったオクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたが、アントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、 この大量粛清は非情に断行され、キケロも殺害された。 こうして元老院派は、ギリシアで兵を集めていたマルクス・ブルトゥスとカッシウスを残すのみとなった。
前42年
1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、「神君ユリウス(Divus Julius)」となる。 これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めた。 一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。 今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いてマケドニア属州に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。 最終的にギリシアのフィリッピの戦いでブルトゥス、カッシウスらに勝利し、敗れた2人は自害した。 この戦いではオクタウィアヌス自身は軍を指揮せず、配下のアグリッパに指揮を託していた。 このオクタウィアヌスの態度をアントニウスは臆病者となじり、この戦いの真の勝利は自分の功績だと主張したという。 オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕であるガイウス・マエケナスを見出したのはこの時期であったとされる。 軍事のアグリッパに対し、マエケナスは内乱期の外交交渉に活躍した。 しかもその役目を十全に果たすために自らのキャリアを犠牲にして、オクタウィアヌスの私設顧問のような形をとった。 内乱終結後は文化振興に従事して「メセナ」の語源となった。 戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。 また、アントニウスはエジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプスが生まれる。 レピドゥスはアフリカへと赴任する。そしてイタリア本国に留まる事になったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。 すなわち軍団兵たちの戦後処理の処遇で、フィリッピの戦いで味方として戦った兵士だけでなく敵兵も軍役の義務の対価として土地の要求をしていた。 もし譲歩せねばこれらイタリア在住の兵士は敵方に寝返りかねない。 しかし内紛では兵士に配るだけの新たな土地もあるわけがなく、既存のローマ市民の自治体に強引な割り込みをしなくてはならない。 兵士を取るか、市民を取るか、苦渋の選択でオクタウィアヌスは兵士の側に立ち、強引に地方共同体に退役兵の入植を行った。 しかしながらこの戦後処理は十分とは言えず、兵士の中には不満が残った。 これを元老院と結託したルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)に攻撃の隙ととらえてしまう。
前41年
ルキウス・アントニウスと手を組んだフルウィラはイタリア本国在住の兵士と結託、8個軍団を編成しオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。 しかし彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。 ルキウス側はすぐに資金が困難となり、即座にペルシア(現:ペルージャ)でオクタウィアヌスに包囲される。
前40年
アントニウスはルキウスの反乱に呼応してエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。 しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたく、カエサル配下であったケントゥリオたちは相次ぐ戦争への従軍を拒否した。 ルキウス・アントニウスが降伏、フルウィラは東方へと亡命した。 この敵対行動をオクタウィアヌスは許さず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑した。 この処刑は汚点となり、後の詩人セクストゥス・プロペルティウスに批判されている。 また先の武装蜂起を起こした1人であったフルウィラは同年死去. 妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆したこともあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ(ペルシアの戦い)。 この盟約でそれぞれの支配地域が再確認され、アントニウスは東方の属州、レピドゥスは北アフリカ、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西となった。 先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスであったが、別の視点から見ればイタリア半島は兵の募集が容易で、東方にいるアントニウスの方が不利であった。 さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。 後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。 オクタウィアヌスはセクストゥス・ポンペイウスの親族スクリボニアと再婚した。 しかし後にスクリボニアの性格に耐えきれず、またセクストゥスとの間が険悪化。
前39年
オクタウィアヌス、セクストゥスとの間が険悪化したため、唯一の実子であるユリアが誕生すると同時に離婚。
前38年
健康で聡明なリウィア・ドルシラと再々婚。 これは恋愛結婚あるいは略奪婚といわれ、オクタウィアヌスは彼女の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロに直談判をして離婚させリウィアを娶ったとされる。 またリウィアは連れ子ティベリウスの他に夫の子を妊娠中であったため、1月14日に大ドルススを出産した後に夫と離婚し、1月17日に結婚式を挙げた。 三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も地方では元老院派が残っていた。 その最たるものはポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスで、カエサル派で統一された三頭とは本来敵対関係にあるはずだが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとしていた。 当初オクタウィアヌスはセクストゥクスと和議、サルディニア島、コルシカ、シチリア、ペロポンネソス半島の領有権を認め、さらに紀元前35年の執政官になることも確約していた。 しかしセクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。 自らを「ネプトゥヌスの息子(Neptuni Fillius)」と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは看過できず、両者の関係は悪化した。 オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。 アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは彼自身の野心、すなわちカエサルが実現できずに終わったパルティア遠征を達成するために貸しを作りたかったからであった。 カルラエの戦いでクラッススが破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとって、パルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るには格好の事業であった。
崇神天皇61年(前37年)
高句麗が建国。 ローマ/ 三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定。アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。 アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。 イスラエル/ ヘロデ大王がユダヤ王となる(- 紀元前4年)
前36年
メソアメリカ最古とされる長期暦の日付がメキシコ・チアパス州、チャパ・デ・コルソの石碑2号に刻まれる。 ローマ/ 9月3日、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウスはアグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北する。 そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸。セクストゥスは逃亡を図る。
前35年
セクストゥス、アントニウス派の手の者に捕まり処刑。 シチリア島を占拠したオクタウィアヌスとレピドゥスはポンペイウス派の残存勢力を一掃した。 レピドゥスはオクタウィアヌスを放逐しシチリア島を独占するつもりでいたが、しかしここでレピドゥスの部下がオクタウィアヌスに買収されて寝返った。 孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏、終身職たる最高神祇官職の保持は許されたが、これにより三頭政治の一角が失脚した。 オクタウィアヌスはローマ人の権利を確約、今度は退役兵をイタリア半島外へと入植させ、ポンペイウスの軍に参加した持ち主が帰参した後もそのままポンペイウスのもとに留まっていた奴隷を元の持ち主に返還させた。 こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。 アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移す。 しかし結果は惨敗、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。 また前述のようにオクタウィアヌスの支援は2000人に過ぎなかった。 クレオパトラは彼の軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として、クレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。 しかしこの一件は、オクタウィアヌスにアントニウス攻撃の格好の口実を与えてしまう。 オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾した。 アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説。 アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。 しかしアントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするようなことを繰り返す。
前34年
アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。 アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレキサンドリアで凱旋式を行ったが、彼はクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けるなどした。 オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、アントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動。アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。
崇神天皇65年(前33年)
任那の国が朝貢してくる。 ローマ/ 1 月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出する。 しかし一部の元老院議員は彼が行ってきたアントニウス非難を政治的なプロパガンダとしか見ておらず、アントニウスの告発の根拠を求める。 これに応じたオクタウィアヌスはウェスタの巫女からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。 アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、アントニウスの墓はエジプトのアレクサンドリアに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきことが書かれていた。 これを受けて元老院もアントニウスを見限る。 中国/ 前漢の王昭君が匈奴の呼韓邪単于に嫁ぐ。
前32年
年末、オクタウィアヌスはクレオパトラのプトレマイオス朝に宣戦布告。 オルメカの祭祀センター、トレス=サポーテスの石碑Cの日付。
前31年
アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。 9月2日、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は、有利に戦っていたアントニウスとクレオパトラの連合軍に苦戦を強いられていたが、戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、その後を追ったアントニウス軍は司令官を失い指揮が乱れた。 その結果オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍はアクティウムの海戦で勝利した。 アントニウスとクレオパトラはエジプトのアレクサンドリアへ逃れるも、その後をオクタウィアヌスに追撃されアントニウスはアレキサンドリアで自害するに至った。 その直後にクレオパトラも自害したためにここにプトレマイオス朝は滅亡した。 この際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得て、内戦終結に伴う兵士の退職金に充てたと思われる。 カエサルの実子を名乗るカエサリオンは殺されたが、その他のアントニウスの遺児たちはオクタウィアの下で親族扱いで養育された(カリグラ、クラウディウス、ネロらはその血筋である)。 こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。
崇神天皇68年(紀元前30年)
120歳で崩御(『古事記』では168歳)。崇神天皇を持って初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。また、葛城王朝から三輪王朝への王朝交代説もある。 ローマ/ プトレマイオス朝エジプトが滅び、ローマの属州となる。
垂仁天皇元年(前29年)
異称を、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)という。
『日本書紀』、『古事記』に事跡が見えるが、その史実性には疑いがもたれる。 殉死を廃止した天皇。伊勢神宮を創始したことでも知られる。仮に年代が正しければ、3番目に長生きした天皇である。記紀に拠れば、崇神天皇の子であり、景行天皇や倭媛(やまとひめ)の父であり、景行の子である日本武尊(やまとたけるのみこと)の祖父に当たる。
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イクメイリビコイサチ命は、師木の玉垣宮において、天下を治めた。 この天皇が、サホビコ命の妹、サハヂヒメ命を妻として生んだ御子は、ホムツワケ命である。一柱。 また、タニハノヒコタタスミチノウシ王の娘、ヒバスヒメ命を妻として生んだ御子は、イニシキノイリヒコ命、次にオホタラシヒコオシロワケ命、次にオホナカツヒコ命、次にヤマトヒメ命、次にワカキイリヒコ命である。五柱。 また、そのヒバスヒメ命の妹、ヌバタノイリビメ命を妻として生んだ御子は、ヌタラシワケ命、次にイガタラシヒコ命である。二柱。 また、そのヌバタノイリビメ命の妹、アザミノイリビメ命を妻として生んだ御子は、イコバヤワケ命、次にアザミツヒメ命である。二柱。 また、オホツツキタリネ王の娘、カグヤヒメ命を妻として生んだ御子は、ヲザベ王である。一柱。 また、山代のオホクニノフチの娘、カリハタトベを妻として生んだ御子は、オチワケ王、次にイカタラシヒコ王、次にイトシワケ王である。また、そのオホクニノフチの娘、オトカリハタトベを妻として生んだ御子は、イハツクワケ王、次にイハツクビメ命、またの名はフタヂノイリビメ命である。二柱。 全てこの天皇の御子たちは十六王である。男王十三、女王三である。 そして、オホタラシヒコオシロワケ命が、天下を治めることになった。身の丈は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸である。
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次に、イニシキノイリヒコ命は、血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池を作った。 また、鳥取の河上宮において、太刀一千本を作らせ、これを石上神宮に奉納して、そのままその宮において河上部を定めた。
次に、オホナカツヒコ命は、山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張の三野別、吉備の石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別等の祖である。
次に、ヤマトヒメ命は、伊勢大神宮を斎き祭った。
次に、イコバヤワケ命は、沙本の穴太部之別の祖である。
次に、アザミツヒメ命は、イナセビコ王に嫁いだ。
次に、オチワケ王は、小月之山君、三川之衣君の祖である。
次に、イカタラシヒコ王は、春日山君、高志池君、春日部君の祖である。
次に、イトシワケ王は、子が無かったので、子代として伊登志部を定めた。
次に、イハツクワケ王は、羽咋君、三尾君の祖である。
次に、フタヂノイリビメ命は、ヤマトタケル命の妃となった。
イニシキノイリヒコ命が、太刀一千本を作らせて石上神宮に奉納したという伝承は、日本書紀にも見られるものであり、そこでは、奉納した後にその神宝を管理したと記されている。 石上神宮が霊剣フツノミタマを御神体とすることは、神武天皇の段において記されていたが、これは石上神宮が、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の武器庫としての様相を呈していたことを示すものとされる。 ヤマトヒメ命が伊勢神宮を斎き祭ったというのは、崇神天皇の系譜において、トヨスキイリヒメ命が伊勢神宮を斎き祭ったとするのと同様に、斎宮になったとするものである。 日本書紀では、ヤマトヒメ命は、天照大御神の神霊を奉じて、その鎮め祭るところを求めて、大和の宇陀、近江、美濃を経て伊勢国に至ったと記されているが、伊勢神宮が皇室と関係の深い神として祭られるようになったのは六世紀頃からとされ、また皇室の氏神を祭る神社となったのは、壬申の乱以後であるとも推定されていることから、こうした記事は、かなり後の時代において考えられ付加されたものであると考えられている。
ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプスとなった。 プリンケプスとは、元老院内での第一人者を表す称号であり、かつてはクィントゥス・ファビウス・マクシムスやスキピオ・アフリカヌスがそうであった。 帝政下では全てのローマ市民の中で第1の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。 こうしてオクタウィアヌスは、カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功した。 時間はかかったものの、オクタウィアヌスは地中海世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを実力で証明した。
同時にそれは、殺害されることによる事業の中断を回避しつつ、カエサルの意図に沿って帝政を構築するという新たな長い戦いの始まりでもあり、下記のようにオクタウィアヌスはこの戦いでも勝利を収める。 軍事的な実績があり親戚でもあったアントニウスや、実子とされるカエサリオンではなく、18歳の無名の若者であった彼を後継者に指名したカエサルの人選は正に特筆ものであった。
前???年
ギリシャの歴史家ストラボンが、当時エジプトに伝わっていたロードピスの逸話を記録する。この逸話が後に「灰かぶり姫」(シンデレラ)の物語に発展したという説がある。過去、奴隷となった経緯のあるファラオの王妃がいれば、この話は実話である可能性につながる。
前27年
1月13日、突如オクタウィアヌスは元老院で、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行った。 元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。 これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかった。 しかしそれに気付く者もなく驚喜する元老院はまた、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。 これに対しオクタウィアヌスは比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする逆提案で返す。 厄介な地域はオクタウィアヌスが引き受けてくれる分、公職キャリアの終着点とも言える属州総督を大過なくこなせるということで元老院は更に驚喜した。 そしてその骨が折れる軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とした。 この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に「インペラトル」となった。 共和制復帰宣言からわずか3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した。 オクタウィアヌスは数度に渡り辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス(Imperator Caesar Augustus)と名乗るようになった。 慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。 これにより共和制は、元老院議員達には気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。 初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。 アウグストゥスの創始した帝政(元首政)はカエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。 すなわち臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的な事はせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。 アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べている。 しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。 このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになったのである。 また、元老院と同じ立法権を持った元首顧問会(実質上の内閣)を作り、その中に元老院議員を多く加えたほか、途中からは執政官職の独占をやめるなど元老院を重視する(少なくともそのように見せかけた)政策も多く立案し実行に移した。 しかし表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは唯一のローマの統治者であり続けた。 そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。 アウグストゥスは、インペラトルやカエサル、下記の護民官職権などと共にローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手する。
前23年
初代ローマ皇帝アウグストゥス、ローマに帰還。 連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権取得という「ささやかな願い」を了承される。 これにより、身体の不可侵性(それを持ちつつも暗殺されたカエサルを鑑み、備えは決して怠らなかった)と法案に対する拒否権等は彼のみが保有する状態となるが、「共和制の象徴たる執政官席が自分たちのもとに帰ってきた」ことに狂喜する元老院はそこまで考えが及ばない。 そしてこの議決には「異議がない限り、アウグストゥスの護民官職権は自動的に更新されうる」というさりげなくも重要な付帯条項があった。 アウグストゥスに異議を唱えられる者などいようはずもなく、アウグストゥスは終生この職権を保持した。 さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化され、元老院属州においても権限施行が可能となった。 これによって議員達に気付かれることもなく「皇帝」の地位を完全に確立した。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。
前22年
初代ローマ皇帝アウグストゥス、東方の再編に着手。
前19年
初代ローマ皇帝アウグストゥス、帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得る。 ローマの詩人/ウェルギリウス死去。
前18年
初代ローマ皇帝アウグストゥス、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みる。
前17年
地球上空にニビルを観測する事が出来た言われている。
前12年
初代ローマ皇帝アウグストゥスの腹心アグリッパが死去。
前8年
初代ローマ皇帝アウグストゥスの腹心マエケナスが死去。
前7-4年
ナザレのイエス生誕。(イエス=キリスト)
前2年
中国/大月氏(インド)の使者である伊存が前漢の人に「浮屠経」を口伝した(『釈老志』)。中国への仏教伝来説の中でも最古のもの。 ローマ/アウグストゥスがローマ元老院から「国家の父(pater patriae)」の称号を受ける。
前1年
西暦0年。イエス(イエースース:後のイエス・キリスト)が生まれた年。紀元1年はその翌年を定義している。