紀元前300年〜200年代

前295年
戦国時代の趙の君主/武霊王が死去。
前293年
『史記』によれば、秦の猛将/白起が、左更にすすみ、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。さらに韓将公孫喜を捕え、5城を落とした。
前292年
『史記』によれば、秦の猛将/白起が、魏を攻め、大小61城を落とした。
前291年
秦の将軍司馬錯が、魏を討ち、軹・鄧を取った。また、白起と共に垣の城を落とした。
前290年/孝霊天皇の御代
『古事記』では、大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとこ)命と表記されている。 『日本書紀』は、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある) 黒田(くろた)の廬戸(いほど)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしめしき。(この後は、四人の比売(ひめ)を娶って、八人の御子をもうけ、一人は天皇の位につき、あとの御子はそれぞれ吉備国などの祖になった、と記す。)天皇の御年、一百六歳(ももあまりむとせ)。御陵は片岡の馬坂の上にあり。(『古事記』)。黒田の廬戸宮は、奈良県磯城郡。 この代に、徐福が渡来する。
前289年
秦の将軍司馬錯が、魏を討ち、垣・河雍・決橋を取った。 マガダ国内において、ナンダ朝が完全にマウリヤ朝チャンドラグプタ王によって制圧される。 マウリヤ朝のバラ門であるカウティリヤが最期の王ダナ(ダナナンダ)を処刑。ナンダ朝が滅亡する。
前287年
数学者・物理学者 シュラクサイのアルキメデスが生まれる。(〜紀元前212年)
前286年
秦の将軍司馬錯が、魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じた。
前280年頃
秦の将軍司馬錯が、隴西から兵を出して蜀に出て楚を討ち、黥中を取った。また、罪人を赦して南陽に移した。 戦国時代の政治家。法家の代表的人物/韓非が生まれる。(〜前233年)
前278年
秦の猛将/白起が、楚を攻め、鄢郢の戦いで楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。
前279年
戦国時代の政治家。戦国四君の一人、孟嘗君が死去。
前276年頃
天文学者・数学者・地理学者エラトステネスが生まれる。(〜紀元前194年頃)
前273年
秦の猛将白起が、魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。また趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。
前272年
ラコニアに攻め込んだエピロス王ピュロスをアレウス1世が撃退し、ペロポネソス同盟を再結成した。
前269年
秦の武将胡傷(コショウ)、趙の閼与(あつよ)を攻めるが、趙奢(ちょうしゃ)の奇策にはまり、大敗した。
前268年頃
マウリア朝第3代アショカ王が即位。
前264年
秦の猛将白起が、韓の陘城を攻め、陘城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した。
ローマとカルタゴとの間に第一次ポエニ戦争始まる。(〜紀元前241年)
前261年頃
アショカ王がカリンガ国を征服。
前260年
将軍王齕が、趙を討って、上党を取った。趙も反撃してきて、秦は内密に白起を増援させて上将軍とし、王齕をその副将とした。長平の戦いでは、趙を大いに破った。
秦と趙による、長平の戦い。
秦の猛将白起が、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝。王齕は副将。このとき40万余りに及ぶ趙兵捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。その数はおおよそ40万人が殺害される。 しかし、本国にあった宰相・范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
前259年
秦の始皇帝/政が生まれる。(〜前210年) 秦が趙の首都邯鄲に攻め入る。王陵を起用して邯鄲を包囲。 将軍王齕が、白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。
前258年
秦が邯鄲の包囲に、増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。 この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。
前257年
11月、戦国時代の秦の将軍/白起が死去。
秦の将軍王齕、邯鄲を攻めたが落とせないので、汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、首を斬ること6千、魏軍は敗走し、黄河で2万人が流れ死んだ。汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を抜いた。 秦の武将王齮、趙の邯鄲を包囲。(王齕と同一人物ではないかとの説がある)
白起が昭襄王によって自害させられた。 自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか? なぜ自害せねばならぬか?」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか? 天に対し罪を犯したのだ」と感嘆した。 秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
前256年
秦の武将楊摎(ヨウキュウ)、韓を討ち、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。
前漢・初代皇帝/劉邦が生まれる。( - 前195年)
前254年
秦の武将楊摎、魏を討ち、呉城を取る。
前252年
秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものが無かった。
前251年
戦国時代の秦の君主/昭襄王が死去。
前250年
戦国時代の趙の公子で政治家。戦国四君の一人/平原君が死去。
前247年
秦の将軍王齕、韓の上党を攻めて、太原郡を置いた。魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを蒙驁と迎え撃ったが敗れた。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。 秦の武将王齮、韓の上党を攻めて、太原郡をおいた。 政が即位する。李斯を丞相として国力増強に努める。
カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(政治家)が生まれる(〜前183年)
前246年
荘襄王が若くして死去。政、秦の皇帝に即位する。
呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいはおじという意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。 秦の武将王齮、蒙驁、麃公らと共に将軍に任じられる。
前244年
戦国時代の魏の公子、政治家・軍人。戦国四君の一人/信陵君が死去。
秦の将軍王齮、同僚の蒙驁が韓を攻め十三城を取るも、同年に死没。
なお、『史記』の「秦本紀」に登場し長平の戦いなどで活躍した将軍王齕は「秦始皇本紀」では一切触れられず、逆に「秦始皇本紀」で初めて現れる王齮は「秦本紀」には登場しない。遅くとも南朝宋代には王齕と同一人物である可能性が論じられており、裴駰の『史記集解』は徐広の説を引いて、「齮」字について「一に齕に作る」と述べている。
前238年
戦国時代の楚の政治家。戦国四君の一人/春申君が死去。
前236年
ローマの将軍スキピオ・アフリカヌス(政治家)が生まれる( -前183年)
前232年
西楚の覇王/項羽が生まれる( -前202年)
前235年
秦の政治家。大商人/呂不韋が死去。
紀元前223年
政、秦の最大の敵であった楚を滅亡させる。
紀元前221年
政、中国を統一する。
自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。 文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。 万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。 匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。 このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。
前219年
張良子房、黄石(黄石公)と出会う。倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士(窮奇)を借り受ける。
ローマとカルタゴとの間に第二次ポエニ戦争始まる(〜紀元前201年)。
前218年頃
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg)の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた。
孝元天皇の御代、(前214年〜)
『古事記』では、大倭根子日子国玖流(おほやまとくにくる)命と表記する。
『日本書紀』では、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。欠史八代の一人で、実在の人物ではないと考えられている。(実在するとする説がある) 軽の境原(かるのさかいばら)宮に坐しまして、天の下治らしめしき。(この後は、三人の比売(ひめ)を娶り、五人の御子をもうけ、その内の一人が天皇の位についき、後の御子も結婚して御子をもうけ、それぞれが平群・蘇我臣の祖となった、と記している)この天皇の御年、五十七歳(いそぢまりななとせ)。
御陵は、劔池(つるぎのいけ)の中の岡の上にあり。(『古事記』)。軽の境原宮、劔池の中の岡は奈良県高市郡。記紀に見られるのは系譜のみで事績は全く伝えられていない。奈良県橿原市石川町の剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)に葬られたとされる。
この頃、富士山の麓に、富士王朝が存在していたとされている。
前213年
秦の始皇帝、宰相の李斯の進言により焚書坑儒を実施。
前210年
始皇帝、政が病で亡くなる。 二世皇帝の胡亥、宦官の趙高、李斯が実権を握るが、権力争いにより宮中は泥沼化し、中原にいたっては、非人道的な収税のため、民の非難が絶えない状況となる。
前209年
陳勝・呉広の乱。 秦代末期の反乱指導者/陳勝が死去。
項羽が、実父項梁とともに、会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。
前208年
秦代の政治家/李斯が死去。
前205年
秦の将軍/章邯が死去。
前202年
劉邦、項羽を滅ぼし、前漢を建てる。(〜紀元後8年)