紀元前400年〜300年代

前400年頃
メキシコのポポカテペトル山が噴火。 コロンビア/シパキラの岩塩坑内に、大聖堂も建設される。 斉の田午が生まれる。後に兄の田剡を殺害して桓公を名乗る。
前399年
ギリシャで哲学者ソクラテスが処刑される。
前396年
エトルリア人の町ウェイー、共和政ローマのマルクス・フリウス・カミルスにより陥落。
前392年/孝安天皇の御代
『古事記』では、大倭帯日子国神押人(おほやまとたらしひこくにおしびと)命と表記されている。 『日本書紀』では日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある) 葛城の室(むろ)の秋津島(あきづしま)宮に坐しまして、天(あめ)の下治(し)らしめしき。(この後は、毘売(ひめ)を娶って、二人の御子をもうける。内一人が天皇の位についたことを、書いている)天皇の御年、百二十三歳(ももあまりはたちまりみとせ)。御陵は玉出(たまで)の岡の上にあり。(『古事記』)。葛城の室の秋津島宮と玉出の岡は奈良県南葛城郡。 記紀に見られるのは系譜のみで事績は全く伝えられていない。
前391年
斉の康公は田和によって海上の孤島に追放され、食邑として城を1つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。 田和は自立して斉の君主と称した(田斉の太公)。
前387年
ケルト人、ローマを攻略、ローマが滅亡寸前になる。
プラトン、学校アカデメイアを創設。
前386年
太公望の子孫が公位を継承してきた斉(姜斉)が滅亡し、田和が新たに田斉を建て、周の安王により諸侯と認められた。 田和は周の安王によって諸侯に列せられ、正式に斉の君主となった。 田和が太公(たいこう)として即位する。 斉は田斉として再興する。 首都は呂斉の時と変わらず臨淄とされた。
前385年
マガダ国ナンダ朝の王マハーパドマが死去。
田斉の太公が死去。 太公の子である田剡が後を嗣いで斉侯となった。
前???年
マガダ国ナンダ朝において、スカルパ(アジャタシャトゥル)王が即位。
前384年
哲学者アリストテレスが生まれる。(-前322年)
政治家デモステネスが生まれる。(-前322年)
前380年
秦と魏が韓に侵攻する。韓は斉に救援要請を出す。 桓公が家臣たちに救援すべきかどうかを尋ねたとき、鄒忌は助けない方が良いと言ったが、他の家臣の進言により、結局助けることになった。 鄒忌は身長八尺の大男で、その容姿はじつに美しかった。同時代の陰陽家の騶衍・騶奭と合わせて三騶子と称されていたと言うが、鄒忌が思想活動を行っていたか、陰陽家であったかは判らない。その前歴も明らかではないが、鄒の氏はかつて存在した鄒と言う小国の末裔が名乗っていたという。あるいは越王勾践の子孫もそう名乗っていたともいう。 鄒忌は琴の名手として威王に謁見し、琴の音で政治を語ったという。それに感服した威王は三ヵ月後に鄒忌を宰相に任命した。
前379年
スパルタがギリシャとエーゲ海における覇権を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を担う自由市民が700名程度にまで減少したため、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度(古代ギリシア語: Λυκούργος, 英語: Lycurgus)は打撃を受けた。 斉の君主である康公が死去。 ここに太公望以来の姜斉の家系は断絶し、田和の家系が斉の新たな支配者となった。
前378年
最後の君主静公が退位を迫られ、晋が滅亡する。
前376年
周の安王が崩御する。
韓が鄭を滅ぼす。
周のにおいて、安王の子である姫喜が、烈王(れつおう)として即位。 烈王に子供はいなかった。 田斉の田剡が弟の田午によって殺害される。 田午は兄の田剡の地位を簒奪し、自ら桓公として即位した。
前???年
マガダ国ナンダ朝スカルパ(アジャタシャトゥルもしくはパンドゥカ)王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるパンドゥガティが即位。
前372年
戦国時代の儒学者/孟子が生まれる。( - 前289年)
前371年
テーバイが、スパルタとの戦争に勝ちギリシアの覇権を握る。 一方で、スパルタはギリシアの覇権を失った。
前369年
戦国時代の宋国の思想家、道教の始祖の一人/荘子が生まれる。( - 前289年)
周の烈王が崩御する。 烈王には子供がいなかったため、烈王の弟である姫扁ががその後を継いだ。
前368年
烈王の弟である姫扁が、顕王(けんおう)として即位。
アケネメス朝ペルシアにおいて、シリアで反乱が起こる。
アルタクセルクセス2世の息子オコスがこの鎮圧に大いに活躍したとされている。
前367年
古代ローマでリキニウス・セクスティウス法成立。
エジプト、後のプトレマイオス朝初代国王プトレマイオス1世が生まれる。(-前283年頃)
前366年
テーバイの指導者エパメイノンダスによってペロポネソス同盟が解散させられた。
前???年
マガダ国ナンダ朝パンドゥガティ王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるブータパーラが即位。
前360年
アルタクセルクセス2世は退位を決意し、後継者にダレイオスを指名した。
しかし、これに不満を持った別の息子オコスは兄ダレイオスとアリアスペスを殺害。
アルタクセルクセス2世は己の無力さを認識し、これを黙認した。
前359年
フィリッポス2世がマケドニア王に即位。
アケネメス朝ペルシアにおいて、アルタクセルクセス2世の息子オコスが、アルタクセルクセス3世として王位を継ぐ。
前358年
アケネメス朝ペルシアにおいて、アルタクセルクセス3世が、前368年に発生したシリアの反乱鎮圧に成功する。
魏侯の罃(後の魏の恵王)と、田斉の田嬀(後の威王)が会見する。この時に以下の逸話がある。 魏侯は威王に対して「あなたも宝を持っているでしょう?」と聞き、威王は持っていないと答えた。魏侯はそれをいぶかしみ、「私でも車12台を照らすことの出来る1尺の珠を持っています。どうしてあなたが持っていないことがあるでしょうか。」と問いただした。これに対して威王は「私の考える宝はあなたのとは違う。」と答え、自らの家臣の4人を褒めて、「これらの宝は千里をすら照らします。車12台など。」と答え、これを聞いた魏侯は恥じ入った。
前357年
テーバイとアテナイの間で同盟市戦争が勃発。
田斉の桓公が死去。 桓公の子である田嬀が、後を次いで威王(いおう)として即位する。 この時、桓公の喪中の機を狙って、三晋(かつて晋より分かれた魏・韓・趙の三国の事)や魯などに攻められ、次々と領土を奪われる。 しかし、威王はそれに対して何もしなかった。一度だけ魏の武侯が死んだ後の継承争いに介入して魏へ攻め込んだが、すぐに引き上げた。 その後も領土を奪われるが、威王は酒宴に耽り、政治は全て他人に任せ切りで内部は腐敗した。 臣たちは誰も威王に諫言しなかった。
前356年
ヘロストラトス、エフェソスのアルテミス神殿に放火。 マケドニア王国国王アレクサンドロス3世が生まれる。〜前323年) アレクサンドロス3世はピリッポス2世とエペイロス王女オリュンピアスの間に生まれたとされている。 テーバイを中心とするアンフィクテュオニア評議会とフォキスを中心とするアテナイ・スパルタ連合軍の間で第三次神聖戦争が起こった。
魏が趙の都の邯鄲を包囲する。この時、趙は斉に救いを求めた。 威王は重臣たちを召して趙を救うべきかどうかを諮った。 宰相の鄒忌は反対したが、段干朋は「義として援けるのが良いし、魏が邯鄲を取ってしまうと斉に不利です。魏が趙を討った時に魏の後ろからこれを討てば良いでしょう。」と説いた。 威王はこれを採用し、孫臏の軍略によりこれを打ち破った。後に「囲魏救趙」と呼ばれる策である。 鄒忌と田忌が対立。そこに公孫閈という人物が現れ、鄒忌に対して「侯におかれては、どうして王(威王)のために魏を伐つことを計略なさらないのですか。戦に勝てば侯の功績となり、負けたり、進撃もせず討ち死にしなくても、田忌を誅すことはできましょう」と説いた。 鄒忌はこの策を受け入れて威王に説き、威王もこれを受け入れて、田忌に魏を討たせた。田忌は三度魏と戦い、三度とも勝利した。鄒忌は、そのことを公孫閈に告げた。 公孫閈は次の手として、使いに黄金十金を持たせ市中の占い師にこう占わせた。 使いは、「私は田忌の家のものだが、主人が申されるに『わしは、三度戦って三度勝ち、名声は天下万民を轟かせた。ついては大事(反乱)を決行したいと思うが、吉か凶か』と言われた。これをみてもらいたい」と告げる。 鄒忌は、占いをしに行った使いがすぐに出てきたところを即逮捕し、使いと占い師にことのあらましを威王の前で証言させた。身の危険を感じた田忌は楚へと逃亡した。
前355年
紀元前357年において始まった同盟市戦争は同盟市の勝利におわり、第二回海上同盟は崩壊。
前354年
田斉の威王は謎かけが好きで、側近とも謎かけで会話していたが、自分の出した謎がすぐに解けたりすると怒り、手が付けられない有様だった。 しかしある時、淳于髠という者が威王にこのように謎かけをした。 「わが国には大鳥がいて、王庭にとどまっておりますが、この3年間鳴くことも飛ぶこともしません。この大鳥はなんでしょうか」 これに対して威王は 「この大鳥は、飛ばねばそれきりだがひとたび飛べば天上まで飛び上がるだろう。また、鳴かなければそれきりだが、ひとたび鳴けば人々を驚かすだろう」 と返答した。 この後、この謎かけの後、威王は即墨(現在の山東省即墨)の大夫(地方長官)を呼び出し、 「わしは、汝が即墨の大夫をしている間、側近がやかましく汝を謗るので人をやって調べさせた。田野は開かれ、人々は豊かな暮らしができ、政務は滞りなく行われ、他国からの侵略をよく防いでるとのことだった。汝は、わしの側近にへつらわず、政務をこなした証である。」 と言い、即墨の大夫は、万戸の邑(領地)に封ぜられた。 次に威王は、阿の大夫を呼び出して、 「わしは、汝が阿の大夫をしている間、側近がやかましく汝を賞賛するので人をやって調べさせた。田野は開かれず、人々は貧しく、趙や衛がわが国を侵しても援軍を送らなかったとのことだ。汝は、わしの側近に賄賂を贈り、名声を高めんとしたのだろう」 と言い、阿の大夫は煮殺され、賄賂を受け取った側近も同様に処刑された。 このことを境に、威王は人が変わったように政務に励むようになり、72人の大夫を呼び出して功績のあるものは褒章し、怠けていたものは処刑した。 また淳于髠を稷下の学士の長的存在とし、積極的に援助をして隆盛させた。
前353年
斉と趙の連合軍が孫賓の計略により魏と宋と衛の連合軍を破る(桂陵の戦い)。
前???年
マガダ国ナンダ朝ブータパーラ王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるラーストラパーラが即位。
前347年 プラトンが死去。
アリストテレスが故郷のマケドニアに帰国してアレクサンドロス3世の家庭教師になった。
この事は、後の歴史に大きな影響を与えた。
前346年
第三次神聖戦争が勃発するも隣保同盟が勝利し、マケドニア王国のフィリッポス2世の影響力が強化された。
前343年
戦国時代の政治家であり、詩人でもある屈原が生まれる。( - 前278年)
エジプトが、アケネメス朝ペルシアのアルタクセルクセス3世によって征服される。
この時、属州となり、エジプトの王位はアルタクセルクセス3世に継承され、ファラオとなった。
この時に興った王朝は、エジプト第31王朝と定義されている。
前342年
韓の南梁が魏に伐たれる。 その後、韓は斉に救いを求める。 これに対して、威王の子である田辟彊が重臣たちを召して会議を行った。 田辟彊は「すぐ救うか、ゆるゆる救うか、どちらが好都合だろう」と問う。張丏は「ゆるゆる救えば、韓は挫けて魏に降りましょう。すぐ救うに越したことはありません」と言ったが、田忌は「それはいけません。そもそも、韓・魏両軍が疲れぬうちに救いに出れば、こちらが韓にかわって魏に攻められ、逆に韓に指図を仰ぐことになるでしょう。そのうえ、由来、魏には、韓を破ろうという宿志があります。韓は、滅びるとみれば、かならず東のかた斉に訴えてまいりましょう。そこで、密かに韓と親交を結び、そしてゆるゆる魏の疲れに乗ずる、というようになされば、お国は重みを加え、利を得られ、お名は尊ばれることとなりましょう。」と答えた。 田辟彊は「なるほど」と納得し、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。韓は、斉はこっちのものと一人合点し、5度戦ったが5度とも敗れ、斉に訴えてきた。そこで斉は軍旅を催して魏を討ち、馬陵で散々に打ち破った。 魏は敗れ、韓は弱まり、韓・魏の国君は田嬰のとりもちで、北面して田辟彊に朝貢した。
アケネメス朝ペルシアのアルタクセルクセス3世がエジプト全土を征服。 この報せは、ギリシアにも伝わり、マケドニア王ピリッポス2世(アレクサンドロス3世(大王)の父)もアケメネス朝との協調を模索していた。
アレクサンドロス、「家庭教師」としてアテナイから招かれたマケドニア人の学者アリストテレスから学ぶ。
都ペラから離れた「ミエザの学園」では、アレクサンドロスと多くの学友たちがいた。
前341年
アケメネス朝ペルシアが、エジプトを再征服。
斉が孫?の計略により魏を破る(馬陵の戦い)。
前338年
アケネメス朝ペルシアのアルタクセルクセス3世が息子たちをふくめ、宦官で大臣のバゴアスにより毒殺される。 この時、アルタクセルクセス3世の一子アルセスのみが生き残った。 アルタクセルクセス3世はペルセポリスの墓所に葬られた。 バゴアスに擁立された息子のアルセスが帝位を継いだが、アルセスもまたバゴアスに毒殺された。 バゴアスによって、アルセスが帝位に擁立されアルセス王となるが、内政の実権は完全にバゴアスに握られた。 アレクサンドロスが一軍の将として父に従ってギリシアの南部に出兵する。 カイロネイアの戦いでマケドニアがアテナイ・テーベのギリシャ連合軍を破り、マケドニアの覇権が成立した。 この戦いは、コリントス同盟が結成のきっかけにもなった。 これにより、ギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることになる。
戦国時代の秦の政治家/商鞅が死去。
前337年
マケドニアを盟主とするコリントス同盟が結成される。
前???年
マガダ国ナンダ朝ラーストラパーラ王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるゴヴィサーナカが即位。
前336年
アケネメス朝ペルシアにおいて、アルセス王がバゴアスを除こうとしたが、却ってバゴアスにより王子ともども毒殺された。 帝位をめぐりアケメネス家の生き残りであるダレイオス3世とバゴアスの間で対立が起こる。 バゴアスが毒殺され、ダレイオス3世がアケネメス朝ペルシアの帝位を継いだ。 フィリッポス2世が暗殺される。一時的にヘラス同盟は混乱に陥ったが、アレクサンドロス3世が権力を掌握。 アレクサンドロス3世は王位を継承。アレクサンダー大王と呼ばれるようになる。 アレクサンダー大王は、ギリシアの諸ポリスを制圧し、マケドニア大帝国を建設する。 ヘレニズム文化が起こる ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、 時代区分としてマケドニアの王アレクサンドロス大王(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。 また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。 この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。 当時、ユダヤ人の最大のコミュニティはエジプトの大都市アレクサンドリア(イスカンダル)にあった。
前334年
楚が越を滅ぼす。 アレクサンドロス3世は、ペルシア戦争以来の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に乗り出した(アレキサンダーの東征)。 小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。 この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投げ槍でしとめた。 この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。 カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東へ進軍する。
前333年
アンティオキアの北西イッソスにおいてダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万とアレクサンドロス3世の軍が遭遇。 イッソスの戦いでアレクサンドロス3世が、ペルシア王ダレイオス3世の軍に勝利。 アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。 このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否。 アレクサンドロス3世はさらに進軍を続ける。
前???年
マガダ国ナンダ朝ゴヴィサーナカ王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるダーシャシッダハカが即位。 この頃、ナンダ朝はインドの主要十六国のなだで最も支配権を有する強国でった。 ただし、王族がシュードラ出身であった事から、バラモン教の一部の層からは忌避された。
前332年
アレクサンドロス3世は南へと進軍する。シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎された。 マケドニアの進軍に抵抗したフェニキアは、ティールで対立する。ティール包囲戦が起こる。 さらに、ガザでも抵抗する。ガザ包囲戦が起こる。 アケネメス朝ペルシアに支配されていたエジプトが、マケドニアの進軍によって解放されたため、アレクサンドロス3世はファラオとして認められた。 これにより、エジプトで革命が起こる。 アレクサンドロス3世は「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。 アレクサンドロス3世は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。 この当時、アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託ともされた。 エジプト末期王朝は滅び、プトレマイオス朝が起こる。 アレクサンドロス3世はナイルデルタの西端に都市を建設する。これが後世において、のアレキサンドリアの起源となる。 エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロス3世は、ペルシア王国への遠征を再開する。 アリストテレスが死去。 ギリシャ北部テッサロニキの東約64キロの地点にてアリストテレスのお墓が発見される。 ギリシャ人考古学者のコンスタンティノス・シスマニディス氏によれば、アリストテレスはギリシャ東部エウボイア島(現エビア島)のカルキスで死亡したことが分かっている。この数年後に遺灰が集められ、生まれ故郷のスタギラに運ばれた。アリストテレスを英雄としてたたえるため、この地に祭壇などが建設されたという。
前331年
アレクサンドロス3世が率いる47,000の軍は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍と対立。 ガウガメラの戦いがおこり、マケドニア軍がペルシア軍に勝利した。 ダレイオス3世はカスピ海東岸に敗走する。 ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍が、バビロンやスーサの主要都市を略奪。 スーサからペルセポリスに向かう途中、ウクシオンという部族の居住する地位を通る時に貢物を要求され、これをきっかけとしてウクシオンの戦いが起こる。この時においても、マケドニア軍が勝利した。 マケドニア軍は、ペルシス門の戦いでアリオバルザネスの伏兵を破ると、ペルセポリスに入城。ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払ったとされている。 ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。 ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオス3世を追って進軍を続ける。 アレクサンドロス3世が、都市ペルセポリスを破壊する。 スパルタが、マケドニア主導のヘラス同盟(コリント同盟)に加わらず、後にアギス3世が反マケドニアの兵を起こすが、メガロポリスの戦いで敗れた。
前330年頃
数学者エウクレイデスが生まれる。( - 前275年頃)
アケネメス朝ペルシアのダレイオス3世が、王族で側近であったベッソスによって暗殺される。 アレクサンドロス3世が、ダレイオス3世の遺骸を丁重に葬る。 ベッソスがアケネメス朝ペルシアのアルタクセルクセス王を自称し、マケドニア軍に抗戦する。 アレクサンドロス3世はベッソスの不義不忠を糾弾、ベッソスを攻めた。 ベッソスが、アケネメス朝ペルシアの豪族スピタメネスとオクシュアルテスに捕えられ、アレクサンドロス3世に引き渡される。 アレクサンドロス3世が、エクバタナでベッソスを公開処刑する。 アレクサンドロス3世は、中央アジア方面へ侵攻する。
前329年
アケネメス朝ペルシアの豪族スピタメネスが反乱を起こす。 中央アジアのゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシス灌漑農耕民族のソグド人を率いて、マケドニア軍にゲリラ戦を展開した。 現在のタジキスタン北部ホジェンドにあったキュロポリスにて、マケドニア軍とソグド人が対立。キュロポリス包囲が起こる。 シルダリヤ川 (ラテン語名: ヤクサルテス川) 河畔に住んでいたスキタイ軍とマケドニア軍が対立。ヤクサルテス川の戦いが起こる。
前328年
アケネメス朝ペルシアの豪族スピタメネスとマケドニアの将軍クラテロスとの戦いで、スピタメネスは致命的な敗北を喫し、スピタメネスの勢力は大きく減退。 スキタイ民の王が「アレクサンドロス大王の命令は何でも受け入れるので、どうかお許しください」と懇願したとされている。 この頃、クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始める。 12月にガバイの戦いでアレクサンドロスの将軍のコイノスに敗れる。 アレクサンドロス3世の追撃から逃亡を繰り返したが、最後は逃走に疲れた妻によって暗殺されたとも、味方によって暗殺されたとも言われている。 最終的には、アレクサンドロス3世の元に首が差し出された。
前???年
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるダーシャシッダハカが死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるカイヴァルタが即位。
前327年
バクトリアの北部のソグティアナ(サマルカンド近郊)にある要塞ソグディアナにて、マケドニア軍によるソグディアナ攻防戦が展開される。 この後に、アレクサンドロス3世はバクトリアの王女ロクサネに一目惚れし結婚した。 アレクサンドロス3世が、ペルシア王国を征服。 アレクサンドロス3世は、次にインドへの遠征を開始。 スワート渓谷でコフェン戦争が起こる。
前326年
マケドニア軍がバクトリアからインダス川の途中にあるアオルノスという都市で、城攻めを展開する。 アオルノスの岩の攻略の後、アレクサンドロス3世は祭壇を築き、知恵と勝利の女神(アテーナー)に捧げる。 この戦いによってアレクサンドロス3世は自由にパンジャーブ地方に進出することが出来るようになる。 5月、アレクサンドロス3世は、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを倒す。 その後も周辺の諸部族を平定しながら進軍し、インドにおいて最も勇猛なカタイオイ人も制圧。 更にインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことする。 11月、アレクサンドロス3世はマケドニア軍を率いて、ヒュドラオテス川(ラーヴィー川)を南下し、ジャート族系のマッロイ人と対立。マッロイ戦役がおこる。 アレクサンドロス3世はマッロイ人を制圧。
前325年
マケドニア軍は、さらにインダス川を南下してパタラ(タッター)に到着する。 現パキスタンバローチスターン州にあったとされているゲドロシア砂漠を通過し、おなじく現イラン/ケルマーン州にあったとされているカルマニアに向かう。
前324年
アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍は、カルマニアからスーサに帰還。 スーサの合同結婚式において、マケドニアの将軍セレウコス1世とアケネメス朝ペルシアの豪族スピタメネスの娘アパメーが結婚。 この夫婦は後にセレウコス朝の統治者となるアンティオコス1世を授かった。当時のいくつかの都市は、アパメーの名前にちなんで、アパメアと名付けられている。 アレクサンドロス3世は、マケドニア帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることを確定する。 ペルシア人とマケドニア人の融和を進めるために、行政面においてはペルシア人を積極的に登用した。 アレクサンドロス3世がペルシア帝国の後継者を宣告する。ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していく。 しかし、この事が、マケドニア人の反発を招く。
前323年
アレクサンドロス3世がバビロンに帰還する。 アラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れる事となる。「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言して亡くなった。 アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)が死去。 後継者を選出すべくバビロンで会議がおこなわれる。 後継者の候補としてはこのとき王妃ロクサネが身ごもっていた赤子と側妾バルシネが生んだ庶子ヘラクレスの2子であった。 将軍ネアルコスがヘラクレスを推したが、賛同者は現れなかった。 次に将軍メレアグロスが、マケドニアのピリッポス2世の子であり、アレクサンドロス3世の異母兄であるアリダイオスを推薦した。一方で大貴族ペルディッカスはロクサネの出産を待つべきだと主張。 エウメネスの仲裁により、まず、アリダイオスをフィリッポス3世として即位させ、ペルディッカスが後見人としてロクサネの子が男子であるならば彼を共同統治者とする、という決定がなされる。 この会議のあと、将軍メレアグロスは反乱を画策。一方で、ロクサネが男子を出産した。アレクサンドロス4世となる。 これにより、ピリッポス3世(精神疾患のあったとされている)と、アレクサンドロス3世の実子であるアレクサンドロス4世が共同統治者となる。 将軍らは領内各地に太守として封じられることとなった。 二人の新王のうちフィリッポス3世は精神に障害があり、アレクサンドロス4世は未だ幼少であったためペルディッカスが後見人という立場から事実上の最高権力者の座に就いた。 将軍メレアグロスとペルディッカスが対立し、これをきっかけに後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発。 紀元前283年までの長期間の戦争へと発展した。
前???年
蘇秦が、斉に赴いて張儀と共に鬼谷に師事し、縦横の術を学んだ。 その後、数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族に嘲笑されたとある。
前322年
ギリシアにて、アレクサンドロス3世の死を契機に、アテナイなどで反マケドニアを掲げる反乱が発生。鎮圧に向かったマケドニアのアンティパトロスが敗北。 敗走したアンティパトロスは、テッサリア地方のラミアに篭城。これによりラミア戦争が起こる。 救援に渡海したレオンナトス戦死の犠牲をともないラミアの解囲に成功。 アンティパトロスは小アジアにいたクラテロスにも救援を求め、これに応じたクラテロスは途中アテネの艦隊を撃破する。 アンティパトロスとクラテロスはクランノンの戦いでギリシア軍を撃退した。 アンティパトロスはアテネに入城し、反マケドニア派を粛清・追放する。 マケドニアの最高権力の地位にあるペルディッカスは、権力の絶対安定をもとめ、アンティパトロスとの連携を画策した。 そのため、将軍アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を取り付けた。 これを知ったアレクサンドロス3世の母であるオリュンピアスが、自分の娘にしてアレクサンドロス3世の妹クレオパトラとの結婚をペルディッカスに勧めた。 ペルディッカスはニカイアと結婚した後に即座に離婚し、次にクレオパトラと結婚することを計画した。 この計画を知ったアンティパトロスは激怒し、僚将のクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスとの対決する。
前321年
マケドニアのペルディッカスはアンティパトロス派のうち、エジプトの太守プトレマイオスの打倒を目指し、両王を奉じてエジプトに遠征を開始した。
その一方で、小アジア地域(カッパドキアとパフラゴニア地方)の太守エウメネスに、アンティパトロス派から攻撃に警戒を呼びかけた。 アンティパトロスもまた自軍はエジプトに出撃しつつ、小アジア地域にクラテロスの軍勢をさしむけた。 ペルディッカスはナイル川で進撃を足止めされ、自軍の裏切りにあい、かつてのアレクサンドロス3世の将軍セレウコスに暗殺される。 ペルディッカスが死去したため、シリアの都市トリパラディソスで、マケドニアの今後を決める会議が執り行われる。 アンティパトロスが主導のもと、それぞれの地位と領地再編がおこなわれる一方で「ペルディッカス派はマケドニア王国の敵として討伐する」という事が決定した。 アンティパトロスはアレクサンドロス大王の親族を、マケドニア本国に戻した。 軍の最高司令には、アンティゴノスが就任した。 一方で、小アジア地域ではエウメネスがクラテロスを迎え撃ち、勝利した。
カウディウムの屈辱、共和政ローマがサムニウム人に敗北、屈辱的な和議を結ぶ。
周の顕王が崩御する。
前320年
マケドニアにおいて、アンティゴノスがオルキュニアの戦いにおいて、エウメネスを討伐する。
敗走したエウメネスは、カッパドキアとリュカオニアの境界地帯にあるノラ砦に籠城した。アンティゴノスは会談の場を設けるが破綻したため、アンティゴノスはノラ砦を完全に封鎖した。その後、アンティゴノスは別のペルディッカス派の残党討伐に向かった。
周において、顕王の子である姫定が、慎靚王(しんせいおう)として即位する。
田斉の威王が死去。
前???年
マガダ国ナンダ朝カイヴァルタ王が死去。
マガダ国ナンダ朝において、前王マハーパドマの子であるダナ(ダナナンダ)が即位。
前319年
古代ギリシア/エペイロス王ピュロスが生まれる。( - 前272年)
アンティゴノスがペルディッカスの弟アルケタスをクレトポリスの戦いで制圧した。アルケタスは自殺する。 その直後、アンティパトロスが病となり職を辞した。この時、後任をポリュペルコンに託した。 この事に対して、アンティパトロスの子であるカッサンドロスは、自分が父の地位を継ぐものと考えていたために、不満を持つ事となった。 アンティパトロスが病で死去。
その後、カッサンドロスはアンティゴノスと手を組み、ポリュペルコンと対立。 ポリュペルコンは劣勢となるが、密かにノラ砦に閉じ込められる事となったエウメネスを支援する。
田斉において、威王の子である田辟彊が継承し、宣王(せんおう)として即位。 父王威王と並び名君とされ、弟の靖郭君田嬰とその子孟嘗君を重用して覇権を握り続け、西方の雄秦と2大大国時代を現出させた。
前???年
蘇秦が、外交によって各国を同盟としてつなぎ、相手を説得する方法を作り出した。 最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。 次に秦に向かい、恵文王(田斉の宣王)に進言したが、受け入れられなかった。 当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。
前???年
宣王(田嬀)の弟に靖郭君がいた。 靖郭君は貌弁をよく待遇した。食客や息子の孟嘗君は諌めたが、「我が家の財を散じても貌弁先生を厚遇するぞ」と激怒し、最上の礼を以って厚遇した。 威王が崩御し宣王が立ったが、宣王は大いに弟の靖郭君を嫌い抜いており、靖郭君もそれがわかっていて封邑薛に去った。 それからしばらくして、貌弁は暇をもらい、宣王に拝謁しに行かせてほしいと言い出した。 靖郭君は貌弁がなにしたいかを理解し、「王はいたって私がお嫌いだ。あなたが行けば、命を落とされるのは必定です」と言うが、貌弁は、「わかっております、是非行かせて下さい」といい、振り切って行ってしまった。 貌弁が宣王に拝謁すると、宣王は「貴君は、我が弟靖郭君のお気に入りで、何事も重用されておるのだろう」と問う。 貌弁はコレに対して、 「確かに私は靖郭君に気に入られておりますが、何事も聞き入れられたということはございません。王が太子の頃このようなことがございました。 私は靖郭君に『太子は不尽の相、頤が大きすぎますし、豕のように盗み見なさいます。このような人物は道に背いたことをするもの。太子を廃されて、あらためて衛姫の嬰児の郊師さまをお立てになるに越したことはございません』と申し上げますと、靖郭君は泣いて『それはできない。私には忍びない』と仰せになりました。 もしこのとき私の言葉を聞きいれておいでになれば、今日のご心配は無かったに違いありません。これがその一つ。 薛にお越しになると、楚の昭陽は、数倍の土地を薛と交換しましょうと申し入れてまいりました。手前は『お受けなされよ』と申し上げますと、靖郭君は『薛はご先代から拝領したもの。今の王にお憎しみを被っておろうと、この私として、ご先代に申し訳が立とうか。しかも、ご先代の霊廟が薛にはある。私として、どうして、楚にご先代の霊廟をやれよう』と仰せられ、これまた手前の言葉を聞きいれようとはなさいませんでした。これがその二つでございます。」と答える。 宣王は大息し、「靖郭君が私を思ってくれていたとは。私は若年で、一向に気づかなかった。一つ私のために、靖郭君を来させるよう、骨を折ってはくれないか」と答え、貌弁は「かしこまりました」と答えた 威王の衣冠をつけ、その剣を帯びて靖郭君は赴き、宣王は郊外まで出迎え、亡き父に生き写しの靖郭君をみて、涙を流した。 靖郭君に宰相になるよう請うたが、靖郭君は辞退した。しかし、結局やむをえず宰相の印を授かった靖郭君であるが、7日ほどして病と称し、辞任しようとした。宣王は許さなかったが、3日目に聞きいれた。 また、宣王はよく学を奨励し、稷下の賑わいは威王の頃同様天下に轟き、有志の士や学者が斉に集まった。 。孟子も厚遇し、その助言で燕を制圧したこともあった。しかし、この燕制圧策は結果的には失敗し、燕に大きな恨みを植えつけることとなった。 靖郭君の死後、孟嘗君を宰相にすえ、斉の国を充実させ、国力を高めた。
前???年
蘇秦が、燕の文公に進言して趙との同盟を成立させた。 更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。 この時、韓の宣恵王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。
前318年
マケドニアにおいて、ポリュペルコンから支援を受ける事となったエウメネスが、ノラ砦を抜け出す事に成功した。 エウメネスは、そのままメソポタミア地方へ向かい軍を再編する。
蘇秦が趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、蘇秦は同盟の約定書を秦に送った。 以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。 蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。
前317年
ポリュペルコンが、カッサンドロス討伐のため、ペロポネソスへと遠征。 この時、フィリッポス3世の后であるエウリュディケ2世がクーデタを起こす。結果として、フィリッポス3世とエウリュディケ2世は、カッサンドロスと手を結んだ。 ポリュペルコンに同行していたオリュンピアスが、この報せを聞き付けマケドニア本国に帰還。 オリュンピアスがマケドニア国内のクーデタを鎮め、フィリッポス3世とエウリュディケ2世をその一派を粛清する。 反マケドニア(メソポタミア)のエウメネス軍と、マケドニアのアンティゴノス軍が衝突し、パラエタケネの戦いが起こる。 双方ともに引き分けとなった。 カッサンドロスがペロポネソスにおいて、ポリュペルコンを迎撃し勝利する。カッサンドロスはマケドニアへ帰還し、ポリュペルコンを孤立させた。
インド北西部でチャンドラグプタが思想家カウティリヤの補佐を得て挙兵した。
ダーシャシッダハカ王が将軍バッサダーラ(Bhadrasala)に鎮圧を命じたが打ち破られ、首都パータリプトラが陥落。 ナンダ朝のダナナンダはチャンドラグプタ1世によって殺害され、ナンダ朝は滅亡する。 マガダ国のチャンドラグプタ1世がマウリヤ朝を建国。王として即位する。 田斉の田地が宋を侵攻する。
前316年
ポリュペルコンがカッサンドロスに降伏。
マケドニアはアレクサンドロス4世が王として、カッサンドロスの保護下にはいる事となる。 アンティゴノスとエウメネスが相まみえ、ガビエネの戦いが起こる。結果としてエウメネスが敗北する。 さらに、エウメネスは自軍の裏切りにあい、アンティゴノスの元に連行され、殺害される。 アンティゴノスは小アジア一帯を制圧し、強大な権力を得た。
蜀で内乱が発生、その後にまた韓が攻めてくる。 秦の恵文王は、対応を決めかねたので、張儀と司馬錯に意見を述べさせた。張儀は、「征蜀に利益はない。韓を討った上でそのまま周を脅迫し、天下に号令をかけるべきである。」と主張した。これに対し、司馬錯は、「秦はまだ弱いので、先ずは広大な蜀を手に入れて国力の増強を図るべきである。」と主張し、併せて周を脅迫することの不利益を述べた。恵文王は、司馬錯の意見を採用し、司馬錯が蜀を攻め滅ぼした。これにより、秦は、国土が広がり、また楚に対しては背後をとる形になって優位に立った。なお、論争に敗れた張儀も、後の対楚外交においてこの地理的優位を交渉材料として用いていることから、決して征蜀の意義を後々まで否定し続けたわけではないと思われる。 秦が蜀を滅ぼす。
前315年
マケドニアにおいて、アンティゴノスと他のマケドニアの後継者たちとの対立が激化する。 バビロンのセレウコスが、アンティゴノスを恐れてエジプトに逃亡する。プトレマイオスがセレウコスを匿った。 アンティゴノスはギリシアへ帰国するにために船を得る事、そしてセレウコス討伐のため、シリアへ侵攻した。 これにより、アンティゴノスとプトレマイオスの間で対立が起こる。
周の慎靚王が崩御する。
前314年
プトレマイオス朝に逃亡したセレウコスが、カッサンドロスの支配するギリシアに上陸しエーゲ海の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。
一方プトレマイオスはシリアに進攻、ガザの戦いでアンティゴノスの子である、デメトリオス軍を破った。 この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙した。
マガダ国ナンダ朝ダーシャシッダハカ王が退位。
周において、顕王の子である姫延が、赧王(たんおう)として即位する。 当時、周王室の権威が届いていたのはわずか洛陽周辺域のみ。王室内でも西周君(桓公掲:貞定王の末子を始祖とする派)と東周君(恵公班:西周威公の末子を始祖とする)で派閥が生まれていた。 赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。 田斉の田地は、燕が宰相子之と公子職の内乱状態であることを聞きつけ、それに便乗して燕を攻め、燕王噲を討ち取り、子之を追放し、燕の領土を得る。
前313年
プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰する。
前312年
セレウコス朝シリアが開かれる。 古代ローマでローマ街道の建設を開始。
前311年
アンティゴノスはセレウコス以外のディアドコイ(後継者)と講和し、セレウコスを攻撃する。
バビロニア戦争がおこる。
セレウコスが、アンティゴノス側のニカノルをティグリス河畔で奇襲し大勝し、その後もアンティゴノスによるバビロン制圧を頓挫させた。
秦の将軍司馬錯が、楚を討ち、商・於を取った。 戦国時代の秦の君主・初代王/恵文王が死去。
前310年
マケドニアにおいて、カッサンドロスがアレクサンドロス4世とその母ロクサネを暗殺。
ペロポネソスで零落していたポリュペルコンが、アンティゴノスの支援を受けてアレクサンドロス3世の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指す。
蜀の国相陳荘が謀反を起こして蜀侯通を殺したので、秦の将軍司馬錯は、甘茂・張儀と共にこれを鎮圧した。
前309年
マケドニアにおいて、カッサンドロスが、ポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、マケドニアの移動中に、アレクサンドロス3世の子ヘラクレスとその母を殺させた。 これにより、かつてのマケドニアの王族の系譜は完全に絶たれる事となる。
マケドニアにおいて、カッサンドロスがポリュペルコンを処刑する。
戦国時代の縦横家、政治家/ 張儀が死去。
前308年
マケドニアにおいて、アンティゴノスがセレウコスとバビロンにて対峙している間に、プトレマイオスがキプロス島からギリシアへと進出し、勢力を拡大させる。
前307年
アンティゴノスがプトレマイオスの勢力拡大を防ぐために、デメトリオスをギリシアに送り込む。
秦が韓の宜陽を攻撃する。周の赧王はこれに応じて宜陽を救援するために出兵。
前306年
マケドニアにおいて、プトレマイオスとデメトリオスの間で、サラミス海戦が起こる。デメトリオスが勝利を収め、プトレマイオスはエジプトへ撤退した。
この報告を受けたアンティゴノスは、カッサンドロスを裏切り、自身がマケドニア王である事を宣言した。また、デメトリオスを共同統治者とする。
アンティゴノスは、プトレマイオス討伐のためにエジプトへ進軍するも、プトレマイオスの迎撃にあい敗戦。
前305年
プトレマイオスがエジプトの王位に就く事を宣言する。
プトレマイオス朝エジプトが開かれる。
カッサンドロスがアンティゴノスに対立して、自らこそがマケドニア王であると宣言する。セレウコスや、リュシマコスもまたそれぞれ地域の太守から王を宣言する。
アンティゴノスの息子であるデメトリオス1世が、海軍を有する商業国家ロドス島とプトレマイオスが結託する事を恐れ、ロドス島に侵攻を開始。
ロドス包囲戦が展開される。
前304年
ロドス包囲戦において、デメトリオスは様々な策を用いてロドス島の攻略に望むが、陥落する事はできず、結果として講和条約を結ぶ事で終結した。 ロドス島は、アンティゴノス朝マケドニアとプトレマイオス朝エジプトの間で、つねに中立で有り続ける事となる。
前303年
ロドス講和条約において、東地中海の制海権を勝ち取ったアンティゴノスとデメトリオス1世が、ギリシア(マケドニア属)のカッサンドロスに対して侵攻する。
デメトリオス1世は、ギリシアにおいてカッサンドロスを追い詰める事に成功する。
前302年
アンティゴノスが、自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成。 カッサンドロスはアンティゴノス勢に講話を求めるが、アンティゴノスはカッサンドロスに無条件降伏を求めた。 カッサンドロスはプトレマイオス、セレウコス、リュシマコスに救援をもとめ、反アンティゴノス連合軍が結成される。
前???年
合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。 故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。 蘇秦は、合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。 その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。
前301年
西アジア一帯において、アンティゴノスと連合軍が対立し、イプソスの戦いが起こる。 この戦いによりアンティゴノスが戦死、デメトリオス1世は夜残の兵とともに敗走。 広大な領地を有していたマケドニア王国は、反アンティゴノス連合軍によって、国を分割した。 セレウコスが、シリア、バビロニア、イラン高原、小アジア東部を支配するセレウコス朝を建国。 プトレマイオスは、エジプトに新たな領地としてキプロスを加える。 リュシマコスは、トラキアと小アジア西部を領地としてリュシマコス朝を献供した。 のこるマケドニア本土は引き続き、アンティパトロス朝を維持し、カッサンドロスが収める事となった。
田斉の君主、宣王が死去。 田斉の田地が、秦と共に楚を討つ。 蜀侯惲が謀反を起こしたので、秦の将軍司馬錯がこれを鎮圧した。