紀元前600年〜500年代

前600年頃?
世界規模で大災害があったとされている。
前600年
ペルシア国王。アケメネス朝の創始者/キュロス2世が生まれる。(-前529年)
都市国家スパルタにおいて、先代の王アナクシダモスの子アルキダモスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。
前599年
斉の君主であった恵公が亡くなる。
前598年
中国春秋時代の晋の政治家/趙武が生まれる。(-前541年) 晋と楚が河南省鄭県の必において激突し、楚の大勝利に終わる。(必の戦い「必+おおざとへん」)
晋において、趙朔をはじめとする一族が、一族のひとりである趙穿が霊公を殺した罪を問われ、司寇の屠岸賈によって、皆殺しにされる。 ただ独り、趙荘姫だけが公室から降嫁していたために、命を助けられた。趙荘姫は後宮に戻ったが、このとき、すでに趙武を身篭っていた。
斉において、桓公の孫にあたる姜無野が、頃公(けいこう)として君主を継承する。 頃公は、この時より6年の間は莒を攻めた事以外にはこれといって大きな事は行わなかった。
前597年
新バビロニア王朝ネブカドネザル2世が、パレスティナにかろうじて存続していたユダ王国を属国とする。 この流れから、エルサレムにも侵攻。ヨヤキン王を首都バビロンに連行した。(第一回バビロン捕囚)
前595年
哲学者/アナクシマンドロスが生まれる。(-前546年)
エジプト第26王朝ウアフエムイブラー・ネカウ2世(ネコ2世)が死去。 エジプト第26王朝ネフェルイブラー・プサムテク2世(プサメティコス2世)が王位を継承。
新バビロニア王朝ネブカドネザル2世がエルサレムから東へと侵攻を開始。 エラムを攻撃し、かつて全オリエントを征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。
シャーキャ国のゴータマ=シッダールタが29歳にて出家した。
伝承では、シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志したと言われている。 ラーフラが産まれて間もない頃、深夜にシッダールタは王城を抜け出した。
ゴータマ=シッダールタは、当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れる。
ヴィンビサーラ王は、ゴータマ=シッダールタの出家の志を翻して浄飯王(シュッドーダナ王)の命に従順しカピラ城に帰るよう勧めた。 当時ゴータマ=シッダールタの出身部族である釈迦族は大国コーサラ国によって征服されていた。 そしてマガダ国とコーサラ国は競合関係にあったため、ヴィンビサーラ王はコーサラの内部撹乱を目的としてゴータマ=シッダールタに対し出家を思いとどまるように説得し、戦象を提供して支援することを申し出たといわれる。
しかし、ゴータマ=シッダールタはこの申し出を拒絶した。
また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。 シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。 この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。 そしてウルヴェーラーの林へ入ると、父のシュッドーダナは、シッダールタの警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。 この後にゴータマ=シッダールタは、6年間の苦行を行う事となる。
前594年
エジプト第26王朝プサムテク2世が、ヘロドトスの伝えるヌビア遠征をおこなう。 彼は新バビロニアとの戦いは避けていたと考えられる。
前???年
ゴータマ=シッダールタが、あらゆる苦行をおこなう。 呼吸をしばらく止める修行、太陽の直射日光を浴びる修行、座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動など、厳しい修行を行った。 減食によって食欲を抑制する断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした。断食行為は心身を極度に消耗するのみであり、シッダールタの身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となっていた。 しかし、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた。 その際、五人の沙門はシッダールタを堕落者と誹り、彼をおいてワーラーナシーのサールナートへ去った。
前592年
晋から斉に使者が送られる。 その使者の正使は、次卿の郤克という者で、正卿の士会に次ぐ実力者であった。 この郤克は障害を持っており歩き方がおかしく、容貌も怪異であった。 この事を仄聞した頃公は、母の蕭同叔子にこの事を伝えると、見たい、と蕭同叔子は言い出した。 郤克が実際来た際、几帳ごしにその様子を見ていた蕭同叔子は大笑いしてしまい、郤克は当然激怒した。 この事が原因で晋との関係は険悪になった。
その後、苗賁皇の取りはからいで両国は一度は和睦したが、郤克の怒りは消えなかった。
前591年
中国春秋時代の楚の王。春秋五覇の1人/荘王が死去。
前???年
魯が各国に対して、変節外交を展開する。
この外交は、楚・斉の怒りを買うところとなった。 だが、斉が密かに楚と通じている事も魯に知られる事になり、魯を通じて晋もこの事を知り、斉に対して怒りを覚えた。
前590年
メディア王朝キュアクサレス王がウラルトゥの古都トゥシュパを攻略。 ウラルトゥ王国は滅亡する。メディア王朝はメソポタミア以北の山岳地帯の支配を固めた。 当時アナトリア半島ではリディア王国が興隆し、交易によるその富はオリエントに鳴り響いていた。 キュアクサレスは西方に遠征し、リディアと衝突した。 戦いは5年に及んだが決着はつかなかった。 ヘロドトスによれば、この戦争の発端はリディア王アリュアッテスがスキタイ人を匿い、キュアクサレスの引き渡し要求を拒絶したことによるのだという。
都市国家スパルタにおいて、先代の王エウリュクラティデスの子であるレオンが、アーギス朝の王位を継いだ。 レオンの時代、スパルタは他の戦争では勝利を得たが、エウリュクラティデスの時代から続いていたテゲアとの戦争では苦戦を強いられていた。この戦争はアナクサンドリデスの時代になってようやく優位に立てた。
前???年
斉において、頃公の子である姜環が、魯の公女の顔懿姫を娶る。 しかし子が生まれなかったので、後に顔懿姫の姪である、鬷声姫が太子光を産んだ。
前589年
エジプト第26王朝ネフェルイブラー・プサムテク2世(プサメティコス2世)が死去。
エジプト第26王朝ハアイブラー・ウアフイブラー(アプリエス )が王位を継承。 アプリエス王は、エルサレムに侵入、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こした。アプリエス王は、エルサレムに侵入、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こした。
ゴータマ=シッダールタが、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入った、この後に悟りに達して仏陀となった(成道)。
ゴータマ=シッダールタ、銀河と太陽と月と地球がひとつの光で結ばれる日において、菩提樹の木の下でアセンションに到達し、アセンデッド=マスターとなる。次元を超越し、物理世界のカルマを理解する。
※ ※ ※
(※「月と地球がひとつの光で結ばれる日」に関しては、グレゴリオ暦においては、5月中旬〜下旬の満月の日がこれにあたる。チベットでは、これにあたる日にウエサク峡谷にて聖なる儀式を執り行い、これを「ウエサク祭」という。
日本仏教では、「大悟し、如来と成る。縁起の法を説き、次に四諦八正道の実践(初転法輪)を説く。」と伝えられている。(この時点で、阿羅漢という修行の段階は満了した、という説)
当時インドでは、この到達点を「ニルヴァーナ(涅槃)」と呼び、ゴータマ=シッダールタは後において「涅槃の王」と呼ばれた。
同時に、当時は尊き者の本名を言葉にする事を禁じた習慣があった(神の名を口にしてはならない、という習慣と同じ)ため、ゴータマ=シッダールタから「シャーキャ国の偉大な尊者」という敬称で呼ばれるようになった。
当時はどのように呼ばれていたかは不明だが、おそらくは「覚者」「尊者」「聖者」という敬称をされていたように思われる。
後世において、中国/玄奘三蔵の翻訳により、「釈迦(シャーキャ)族の偉大な尊者」というところから「釈尊」とされる。これが定着し、一般では「釈迦」と言われるようになった。
ちなみに、よく誤解されている事として、ゴータマ=シッダールタ生前のこの当時において仏教は成立していない。 同様に今のところ、ゴータマ=シッダールタの生前の記録はほぼ残されていない。各地に伝承がある程度である。 また、仏教における「経典」(俗に言う「お経」)とは、ゴータマ=シッダールタ入滅後、その弟子たち400余名がゴータマ=シッダールタが説いていた事を記憶を頼りに文書化・編纂した物である。 悟りの内容を語り伝えるべきか悩んだ理由もここにある。記録に残す事が新たな因果を生む事(後世の多くの人々が、この悟りを求めるがために犠牲となる事)も理解していた可能性がある。
※ ※ ※
この後、7日目までゴータマ=シッダールタはそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。 8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。 22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。 その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。 ゴータマ=シッダールタは到達後、次の段階へ進むつもりであったが、創造神ブラフマー(共同創造主の化身のひとつ。仏教成立後に取り込まれ「梵天」と称される)とヴェーダの主神インドラ(世界の中心にあるとされる須弥仙の主。故にこの物理世界と第4次元密度の王(天帝)とされる。仏教成立後、釈尊の「釈」が付加され、「帝釈天」と称される)が顕れ、「ニルヴァーナに至った法を人々に伝えよ」と、ゴータマ=シッダールタに命じたため、ゴータマ=シッダールタは人々に説いて巡る事となる。 3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五人の沙門に説こうと座を立った。ゴータマ=シッダールタは彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。 ワーラーナシーのサールナートに着くと、ゴータマ=シッダールタは五人の沙門に対して、法の方法論、四諦と八正道をを説いた(初転法輪)。 五人はは、当初はシッダールタは苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちに悟りを得て比丘(五比丘)となった。 法を説き終えて、ゴータマ=シッダールタは「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。
※ ※ ※
ここでいう阿羅漢とは、アーガマ(阿含経)にもある四向四果に掲載された「修行」という意味合い、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢という4つの段階で内容が示されている。 阿羅漢は、もう修行をおこなう必要がない最高位の段階と訳されている。ただし四向四果に関しても、宗派によって意訳が異なる。 最も深い思想としては、修行という意味合いが「魂」の修練の度合いの単位としている考え方であり、幾万の輪廻転生を経た修行の過程によって、もう転生をする必要がなく、自ずと「涅槃」に至る段階である。 この場合、現世の修行の過程で、自らの過去世を理解する工程を経て到達する事で大成する事になる。この理論は華厳経のなかで掲載されている。
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ゴータマ=シッダールタは、この世界の有様を様々な地で伝えた。 また、ニルヴァーナに至るための業だけでなく、それを補佐する知識(この物理次元に存在する様々な生物の事や、この太陽系のような生物が存在する、似たような太陽系が、他にもたくさん存在している事、等)も必要に応じて伝えた。
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その内容では、現在の科学でも解明に至っていない物が多々ある。例えば、この世界の生者を示す四生(胎生、卵生、湿性、化生)などは、胎生・卵生の2種は確認ができているが、湿性・化生の2種は確認できていない。 「湿性」をカビや菌類とする説があるが、こちらは明らかに間違いである。なぜなら菌類は基本的に受精によって生まれるものなので「卵生」である。細胞分裂による生殖も基本的には「卵生」であると思われる。 また、「湿性」は怨霊や悪霊の類ではないか、という説もあるが、こちらも死生の定義が不明のままである。 「化生」はもともとある「物」から生まれた存在という意味あいであり、日本では俗にいう「妖怪」の類がこれに該当するように思われるが、現代ではこれを観測した事例は存在しない。 物理世界において「視覚」として認識できない限り、これを存在していると定義できない、という現代の科学の認識では、四生のすべてを明解にする事はできないものと考えられる。
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ある者はシッダールタに言われた通りの事を行ってニルヴァーナに至り、またある者はシッダールタの弟子となった。 こうして後、55年先の入滅まで説き広めた。この時、ゴータマ=シッダールタは、シッダールタ(釈尊)を含め、7人いたと言われている。
中国(周)において、鞍の戦いが起こる。
斉は機先を制して三軍を起こし、魯に侵攻した。 一軍は魯を救おうとした衛を退けたが、魯を攻めている二軍の侵攻は芳しくなった。斉軍は魯に留まり、晋軍が出てくるのを待った。 この時、楚軍が北上して斉軍と共に晋軍を伐つ手はずになっていたが、連絡の使者を勤めていた巫臣が任務を放棄して鄭に居座ってしまったために、連絡が途切れて協力体制が崩れ、斉軍だけで晋軍と相対せねばならなくなった。
6月18日、斉軍は華不注山に布陣。 その後、晋軍も斉軍も鞍に布陣して開戦した(そのため通常は鞍の戦いと呼ばれる。華不注山の戦いと呼ぶこともある)。 最初は斉軍が元帥の郤克に重傷を負わせるほど優勢であったが、郤克の必死の逆襲で逆転し、斉軍は遂に潰走を始めた。その最中に大臣の高固が戦死した。 頃公も晋軍に追われ、華不注山を3周して逃げ回ったという。頃公の車右は、頃公と立つ位置を代わり、頃公の兵車が晋軍の司馬の韓厥に捕まった時、自分が君主だと言って頃公の代わりに捕らわれ、頃公を逃がした。 頃公は無事、首都臨淄に帰り着いたが、この戦役は紛れもなく斉の大敗であった。
その後の和平交渉で、郤克は蕭同叔子を人質によこす事と、晋軍が再び斉に攻め易くするために田畑の畝を東向きに揃えるように要求するが、使者の国佐の頑張りで何とか晋との講和に漕ぎ着ける事はできた。 しかし、国力の低下と諸国に対する威光は減退した。
前588年
ゴータマ=シッダールタは、ワーラーナシーやカピラヴァストゥに教えを説いて巡った。ワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらがこれに賛同した。 その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の神通力を目の当たりにして、求道者としての道を改めた。 その神通力とは、池の上に立ち、炎身となって姿を消したというものである。この池は、後にサヘート・マヘートと伝わる。 当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、この信徒ごと吸収した事から、ゴータマ=シッダールタの下に集まった者は、1000人を超える大きな勢力になった。
斉の頃公が、晋に謝罪に出かけた。
その時、晋の郤克は「殞名の礼」(捕虜となった君主が受ける対応)をしたが、斉の頃公は怒らず謝罪した。 この様子を見た晋の苗賁皇は、「郤子は勇気はあるが礼を知らず、その功を誇って国君を辱めた。彼の一族はどれだけ続くだろうか」と言って郤克を痛烈に非難した。
前587年
中国春秋時代の晋の君主/悼公が生まれる。(-前559年)
斉の頃公が、斉に帰国する。
頃公は戦後復興に力を注いだ。 動植物園を公室だけのものにする事をやめ、税を軽減し、孤児を救済し、病人を慰問して、蔵を開き困窮している民を救おうとした。その上、諸侯を厚く礼遇した。 このために、頃公は亡くなるその時まで、民から信望が厚く、諸侯に斉が侵攻される事はなかった。 頃公は見事に斉を復興させた。
新バビロニア王朝ネブカドネザル2世がエルサレムとユダ王国の再びの反乱にたいして、エルサレムを包囲する方法で侵攻し、今度はエルサレムを滅ぼす。 ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させ、エルサレムやユダの人々は捕囚にされる。 ユダの捕囚民の大部はバビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(『エゼキエル書』による)。 この地域はかつてアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは減少した人口を補うためであったと考えられる。
一方で職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ主としてネブカドネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事することになった。 『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達はこのバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。 これに対しエレミヤとエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。 ネブカドネザル2世は、ラキシュやアゼカを含め、ユダの他の都市も征服し、今度は属州として吸収した。 その間得た多くの捕虜は首都バビロンへ連行された(第二回バビロン捕囚)。このことは旧約聖書、『列王記』下24:8-25:5にも記されている。 同じく旧約聖書中の『ダニエル書』は彼によってバビロンへ連行されたユダヤ人たちの物語として残されたものである。ゴータマ=シッダールタは、マガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして
「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」
と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。
前586年
新バビロニア王朝ネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼす。 この時、ネブカドネザル2世はエルサレム神殿を破壊する。 ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。 すぐに故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻と消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は現地の文化の著しい影響を受ける事となった。 ネブカドネザル2世はこの後、フェニキアのテュロスにも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。ゴータマ=シッダールタが、ラージャグリハで涅槃の悟りを説いて巡った。マガダ国の王ビンビサーラも涅槃の悟りに帰依し、ビンビサーラは竹林精舎(道場:後の寺院)をゴータマ=シッダールタに寄進した。また、ゴータマ=シッダールタが長く止住し説法したグリドラクータ(霊鷲山、耆闍崛山)の山上を通る石段も、彼自身がゴータマ=シッダールタの説法を拝するために造ったという。その道路がビンビサーラ道という名で今日まで残されている。
このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが賛同した。
周の定王が崩御する。
前585年
メディア王朝とリディア王朝がハリュス川で交戦する。 この最中において、ミレトスの人タレスが予言した日食が発生して突然夜になり、両軍は戦をやめた。 バビロニアのナボニドゥスの仲介で両国は講和し、ハリュス川を両国の国境とすること、メディア王キュアクサレスの息子アステュアゲスとリディア王アリュアッテスの娘アリュエニスとの婚姻が定められた。
ゴータマ=シッダールタの下には、多くの求道者が集まった。 主にはラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんとゴータマ=シッダールタによる涅槃の悟りに帰依した。 人々の集まりは、徐々に大きな集団としての動きへと変化していった。 このようにして支持者や賛同者は徐々に増加し、ここに社会的集団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。 これといった記録はないが、修行のために必要な訓練場=道場や、安居(あんご:集団で修行をおこなう場所や建築物。集団生活においての簡易住居の機能も備えていた)なども設置されていった事が推測される。 その規範となったのは、それぞれの宗教宗派団体から帰依してきた者たちである。 これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。
周の定王の子である姫夷が、王位を継承し、簡王(かんおう)として即位。
この時、晋、楚、秦、宋、鄭が相互に戦火を交え、その攻撃により楚が滅亡寸前の状態となる。
前584年
メディア王朝キュアクサレス王が死去。 キュアクサレスの息子アステュアゲスが王位を継承する。
前???年
キャーキャ国カピラヴァストウのシュッドーダナ王が死去する。
経典によれば、ゴータマ=シッダールタは諸国を巡って伝道を行った。
故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。
釈迦が成道後初めてカピラヴァストゥに帰って説法すると、摩訶波闍波提の子である孫陀羅難陀や諸々の王子、そしてラーフラ(羅睺羅)までもが出家してしまった。シュッドーダナ王はこれを悲しんで、仏に「以後は父母の許可なくして出家するのを得ざる制度を設けてくれ」と要請すると、ゴータマ=シッダールタはこれを受け入れたという。
また、ダンマパダによると、ゴータマ=シッダールタが成道して初めて帰城したある時に、ニグローダゴーパ園で説法したが、それが終ると大衆はみな去り、一人も仏を要請する者はおらず、浄飯王(シュッドーダナ王)も「ゴータマは我が子なれば、云わずとも我が家に来るべし」として、別に要請せずに去り、食事を用意した。
ゴータマ=シッダールタは翌日に城に入り、実家に行乞するとシュッドーダナ王はこれを聞き知り、急いでゴータマのもとへ行き「我が子よ、何故に我を恥ずかしめるのだ」と責めた。ゴータマ=シッダールタは「否、これは父を恥かしめているのではないのです。これは我が家系の定めなのです」と言った。
シュッドーダナ王は「我が家系に乞食の定めはないぞ」というと、ゴータマ=シッダールタは「我が家系とは王系をいっているのではなく、諸仏の家系を言っているのです」と言い、種々の説法をした。すると浄飯王(シュッドーダナ王)はこれを聞いて預流果に入ったという。
ゴータマ=シッダールタは巡業の道中において、父王シュッドーダナの病の報せを知る。
浄飯王般涅槃経には、浄飯王(シュッドーダナ王)が病み、ゴータマに見(まみ)えんことを欲すると、ゴータマ=シッダールタはナンダ、ラーフラ、アーナンダを率いて来て見舞ったとある。 また王の臨終の際には、ゴータマ=シッダールタはその床に座し、白い傘の下で静かに寝て応果を得たという。浄飯王(シュッドーダナ王)は死して四天王がその棺を担いだとある。
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ここで言う四天王とは、毘盧勒叉善神(増長天)、提頭頼宅善神(持国天)、毘盧博叉(ビルヴァクシャ)善神(広目天)、吠室羅摩拏(ヴェシラマヌ)善神(多聞天)の事。当時は、デーヴァ神軍(バラモン教の神々)に相対した代々のア=スラの王(鬼神)たちであったが、仏教に帰依し、守護するようになった。 ゴータマ=シッダールタはまたコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。
前583年
趙武の家系は、大叔父の趙同・趙括兄弟が趙荘姫や欒書との対立が元で攻め滅ぼされる等、趙衰以来断絶に等しい状態にあった。 しかし、病に倒れた景公を韓厥が説得したため、成人した趙武が景公に拝謁して、趙家再興を許された。
『史記』によれば、趙武は韓厥や欒書とともに屠岸賈を攻め殺した。 復讐を成し遂げ、韓厥・欒書・智罃・士燮・荀庚(中行庚)から祝辞を受けたが、直後に程嬰が「地下で趙荘子(趙朔)と公孫杵臼に報告したい」と自害すると号泣した。 そして、彼のために3年間喪に服し、また、趙家の廟に彼を祀った。
『春秋左氏伝』によれば、趙朔の妻の荘姫が、趙朔のおじの趙嬰斉と私通し、趙嬰斉は斉に追放された。 荘姫はそれを恨んで「趙氏が乱を起こそうとしている」と景公に讒言したため、趙一族はみな殺しにされた。 ただ趙朔の子の趙武のみは荘姫に育てられ、のちに韓厥の進言によって趙氏の後継者とされた、と記されている。
前582年
哲学者/サモスのピュタゴラスが生まれる。(-前496年)
メディア王朝内にて、アステュアゲスが王であるにも関わらず、アルバケスが王に推挙された。
前581年/綏靖(すいぜい)天皇の御代
欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある) 異称を、神渟名川耳尊 (かむぬなかわみみのみこと)とされている。いわゆる欠史八代の1人で、神武天皇を父とする三兄弟の末皇子である綏靖天皇は、2人の弟を殺し皇位を奪おうという野心を持った異母兄で長兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)の謀を事前に知る。 そして、すぐ上の兄である神八井耳命(かみやいみみのみこと)は、先手をうって手研耳命を殺そうした。その際武器を持って先に部屋に入ったにもかかわらず恐れをなして長兄を殺す事ができなかった神八井耳命に代わって手を下したのが綏靖天皇であった。神八井耳命はこれを恥じ弟の方が皇位にふさわしいと述べてその地位を譲る。 「私はあなたの兄ではあるが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところが、あなたは武勇にすぐれ、自ら敵を誅した。あなたが天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はあなたの助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」(『日本書紀』記)とあるが、これがつまり、多臣(おおのおみ)の始祖とある。葛城高丘に皇居を定め、母の妹である五十鈴依媛命を娶って皇后とした。 綏靖33年(紀元前549) 5月10日崩御。
中国/春秋時代の晋の君主/景公が死去。
斉において、頃公の子である姜環が、君主を継承し、霊公(れいこう)として即位。
前???年
斉の霊公の下に晏嬰(あんえい)が仕える。
この時、町の女性の間で男装をすることが流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出した。 しかし、もともとこの流行は霊公の妃から始まったのであり、霊公は相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まらなかった。 そこで晏嬰は「君のやっている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。 宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります。」と諫言し、その通りにすると流行は収まった。 このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変化して故事成語の「羊頭狗肉」になる。
前???年
ナボポラッサル王が着手していた「エ・テメン・アン・キ」が、ネブカドネザル2世の代にて完成する。
エ・テメン・アン・キは、バビロンのマルドゥク神殿(エサギラ)の中心部に築かれていた。 バビロンのマルドゥク神殿とジッグラトは大幅な改修が行われ規模が拡張された他、街は三重の城壁で囲われるとともにユーフラテス川に橋を通して市域が対岸にも拡張された。 巨大な宮殿を建設し宮殿に通じる大通りを作り(行列道路)、有名なイシュタル門も建設された。 これは彩色レンガを用いて青を基調にした装飾性豊かな門であり、現在ベルリンのペルガモン博物館で復元展示されているほか、イラクでもレプリカが建設されているなど、古代バビロニアを象徴する建造物の一つとなっている。 ネブカドネザル2世はこれらの建築に使われたレンガなどに自分の名前を刻印させており、バビロン市の整備に情熱を燃やした彼の名を現代に留めている。
前578年
アジャータシャトルが父王ヴィンビサーラを幽閉する。さらに、アジャータシャトルは父王ヴィンビサーラの権力を奪う、獄中にて餓死させたと言う。
マガダ国シシュナーガ朝の王ヴィンビサーラ (ビンビサーラ)が死去。
※ ※ ※
後世において「観無量寿経」で、この出来事が王舎城の悲劇を舞台として編纂されている。 まず、大乗涅槃経の中では、このような逸話が記載されている。 ヴィンビサーラが鹿狩りに出かけた時、一頭も狩ることがなかったところで仙人に出くわした。 しかし、その仙人が鹿を追い払ったのだと思い込み、臣下をして殺そうとした。 その仙人が死ぬ間際に「生まれ変わってあなたを怨んで殺す」と言った。この仙人がアジャータシャトルであるという。
また善導の『観経疏』には、子供が無く年老いたビンビサーラが「裏山の仙人が3年後に死んで、夫人にみごもり王子となる」という占師の言葉を受けた。 しかし、ヴィンビサーラは3年を待ちきれずに仙人を殺して生ませ、仙人が死ぬ間際に呪ってやると言い残した、という記述がある。
涅槃経以外の経典では仙人の殺害に関する記述はない。これは涅槃経と他の多くの経典の記述とが混同されたものだと考えられる。
後にビンビサーラは、釈迦仏により光明によって照らされ、阿那含果を得たといわれる。
前577年
マガダ国シシュナーガ朝の王としてアジャータシャトル (アジャータサットゥ)が即位。
前575年
晋と楚が焉陵(河南省焉陵)にて激突し、晋が勝利した。(焉陵の戦い;焉+おおさとへん)
都市国家スパルタにおいて、先代の王アルキダモスの子アガシクレスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。 アガシクレスの時代、スパルタは第二次メッセニア戦争をはじめとした戦争では勝利を得たが、先代から続いていたテゲアとの戦争では苦戦を強いられていた。この戦争はアガシクレスの共同統治者レオンの子アナクサンドリデスの時代になってようやく優位に立てた。
ゴータマ=シッダールタがコーサラ国へ移動。
コーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。
前573年
晋において、趙武が悼公から新軍の将に任命される。
前572年
周において、簡王が崩御する。
晋の悼公が斉に挙兵して、斉を討伐した。 霊公は公子光(後の荘公)を人質として差し出して和議を結んだ。
前571年
周において、簡王の子である姫泄心が王位を継承し、霊王(れいおう)として即位する。
子を沢山成したとされている。 兄弟順として太子姫晋、姫佞夫、姫貴(景王)、姫還、姫姑、姫溌、姫弱、姫鬷、姫延、姫定、姫稠、姫趙車などが大勢いた。 しかし、多くの子息は、戦乱に巻き込まれて殺害された。また、太子が早世したため、同母弟の姫貴が太子となり、その後を継いだとされている。
斉において、莱(らい)攻略戦が行われる。莱は斉が建国される以前から、先住していた民。晏嬰の父である晏弱による莱攻略戦に陳無宇が従軍。 莱都陥落後に宗廟にあった莱公室の祭器を、霊公の元に届ける大役を担う。
前570年
エジプト第26王朝ハアイブラー・ウアフイブラー(アプリエス)が死去。
エジプト第26王朝クネムイブラー・イアフメス2世(アマシス)が王位を継承。
前563年
斉の霊公が、公子光を太子に定めた。 公族である大夫の高厚が太子の傅役となり、太子に進言して太子は諸侯と会合して、鍾離で盟約を果たした。
前562年
新バビロニア王朝ネブカドネザル2世が死去。
新バビロニア王朝は、息子のアメル・マルドゥク(エビル・メロダク)が王位を継承した。
前???年
斉の霊公が、側室に宋から仲子と戎子を娶る。 この時より霊公は、戎子を寵愛するようになる。
後に仲子が公子牙を産んだ。後において、仲子は戎子に公子牙を託した。 また霊公は、魯の宰相叔孫僑如(魯の公族)の娘である穆孟姫も娶っている。 穆孟姫は公子杵臼(後の景公)を産んだ。
前560年
クロイソス、リュディアの王に即位。
中国春秋時代の楚の王/共王が死去。
晋において、趙武が韓厥の子の韓起の推挙を受けて、上軍の将へと昇格した。 しかし趙武は、栄華を極めた趙一族が一度は瓦解したことを教訓として、徳を積み、常に温和な風貌を保ち、自ら一歩退く姿勢をとり続けた。
聖書の記録によると、ユダの王ヨヤキンを37年間の捕囚の後に、アメル・マルドゥクがヨヤキン王を出獄させた。 この事がきっかけなのかは不明だが、父(ネブカドネザル2世)への反逆への懲罰として投獄されたという説がある。 アメル・マルドゥクはネルガル・シャレゼルの企みにより謀殺される。 ネルガル・シャレゼルが王位を継承した。 彼は従来よりカルデア王朝の王とされているが、彼がカルデア人なのか、バビロン生まれなのかはわからない。 なぜなら彼はナボポラッサル及びその子孫と血縁関係にはないからである。 彼の名前は、ネブカドネザル2世の高官の一人として、聖書に記されている(エレミヤ書第39章第13節) 都市国家スパルタにおいて、先代の王レオンの子であるアナクサンドリデスが、アーギス朝の王位を継いだ。 アナクサンドリデスには一人目の妻(彼の姉妹の娘)との間にドリエウス、レオニダス、クレオンブロトス、そして二人目の妻との間にクレオメネス1世がいた。アナクサンドリデスは一人目の妻との間に長い間子宝に恵まれず、監督官に妻を離別し、再婚するようにと提案された。しかし、彼が妻との離婚を拒絶したため、監督官は長老会と相談し、離婚せずに二人目の妻を娶ることを提案し、アナクサンドリデスはそれを容れた。その後、彼は二人目の妻との間にクレオメネスを得たが、それと時を同じくして最初の妻は妊娠し、前述の三人の息子を授かった。息子たちのうち、クレオメネスが長男であったことから、王位を継いだ。 また、アナクサンドリデスとアリストンが王位にあった時にスパルタはこれまで負け続けであったテゲアとの戦争に優位に立つことができた。
前559年
ペルシア王国第7代の王として、キュロス2世が即位。アケネメス王朝の成立以後では初代国王。
前557年
新バビロニア王朝ネルガル・シャレゼルが、西方遠征をおこなう。
前556年
旧約聖書に記されたイスラエルの 12部族のうち、10部族がサンバション川の向こう側へと送られた。 失われた10部族。
新バビロニア王朝ネルガル・シャレゼルが死去。
ネルガル・シャレゼルの息子ラバシ・マルドゥクが王位を継承するが、即位後わずか9ヶ月で暗殺された。 一般的に、ラバシ・マルドゥクはカルデア王朝の王として位置づけられている。 おそらくはネルガル・シャレゼル(ネリグリッサル)とその妻(ネブカドネザルの娘)の間に生まれた子と推測される。 ナボニドゥスが王位に就く。ナボニドゥスの出自は記録に残されていない。
ナボニドゥスの母アッダ・グッピは、おそらくハランにある月神シンの神殿と関係があるが、彼女の碑文の中でも彼女の家の経歴を語らない。 即位後のバビロニアは混乱の状態にあったが、ナボニドゥス王が事態を収めた。 特に勢力を増していた神官達に対抗するために神殿の人事に介入し、監督官を派遣してこれの統制を図った。 また月神シンを祭る神殿を多数建造したが、マルドゥクを主神とするバビロニア人の反応は悪かったようである。 ナボニドゥスはバビロンの過去に興味を持ち、古代の建築物を発掘し、彼の考古学上の発見を博物館に展示した。 彼はメソポタミアの太陽神シャマシュの神殿、戦いの女神アヌニトゥの神殿(ともにシッパルにある)の埋もれた基礎や、ハランにある月神ナラム・シンの聖所など、史上初の発掘を指揮しただけでなく、それらをかつての状態に修復することすらやってのけた。 彼はまた、ナラム・シンの神殿を発掘する中でその年代を特定することを試み、考古学的遺跡の年代推定をした最初の人物でもある。 彼の年代推定は1500年ほどずれているが、当時の年代推定技術にすれば、かなり良い水準であった。 最も古い記述では、彼は王家の変人として表現されている。 ナボニドゥスはおそらく、他の全ての神々に優先して月神シンを崇拝し、ハランにあるシンの神殿に特別な奉納を払った。 その神殿は彼の母が神官であったところで、このように彼はバビロニアの主神マルドゥクを軽んじた。 これらの宗教改革が生み出した緊張により、彼はその治世の初期の頃に首都を去り、アラビアにある砂漠のオアシス、テイマ(都市)へと逃れた。
前555年
晋は荀偃(中行偃)に命じて、斉を討伐させた。
斉の霊公は迎え撃ったが大敗した。
その際に晏嬰はまだ戦えるにもかかわらず霊公が逃亡しようとしたので、これを必死で引き止めたが、霊公は聞き容れなかった。 そのとき晏嬰は「あなたも勇気がないのですね。まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」と諌めた。 その際、霊公の袖を晏嬰が引きちぎってしまい、霊公がその無礼に怒って剣に手をかけたが、晏嬰は「私を斬り捨てる勇気を持って敵と戦って下さい。」と言う。 霊公はこれを聞かずに「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ。」と首都臨淄へ逃げ帰った。
晋は進撃して斉の臨菑を攻撃したが、その住民は固く守備して晋の軍勢を寄せ付けなかった。 そこで、荀偃は外城のみ焼き払って引き揚げた。
前554年
斉において、霊公の側室である戎子が、公子牙を太子に定めたいと霊公に嘆願した。 霊公はそれを聞き届けたが、公子牙の生母である仲子が「それはよろしくないことです。わが君は光さまを太子にお立てになられて、すでに列侯として加われておいでです。いまここで廃嫡なされると、わが君は後悔なされるでしょう」と諌めた。 しかし、霊公は「私が決めたことだ」といって、太子光を廃嫡して、東方の僻地に移させて、公子牙を新たな太子に定めて、あらためて高厚を傅役(後見役)に命じた。 この時、大夫の崔杼は、東方に移されたもとの太子光を密かに送り迎えて、首都へ連れ戻した。
まもなく、霊公が病床に伏せる。
崔杼は密かに戎子を誅殺した。
斉の霊公が死去。
斉において、頃公の子である姜光が、君主を継承し、荘公(そうこう)として即位。 荘公は異母弟である公子牙を句瀆の丘で捕らえた。秋8月に崔杼は公子牙の傅役であった高厚を殺害した。
荘公の治世では、斉は隆盛し、政治的には安定していた。 「蟷螂の斧」の逸話があるのも、この頃に生まれたとされている。
※ ※ ※
ある日、荘公は馬車で狩りに出かけた。道に一匹の虫がいて、前足をふりあげ、馬車の車輪に向かってきた。 荘公は「これは、何という虫か」と御者に尋ねた。 御者は「これは、蟷螂(とうろう。カマキリ)という者ですが、自分の力のほどを考えず、進むことのみ知って、退くことを知りませぬ」。 荘公はそれを聞いて「これがもし人間なら、天下の武勇の者であるだろう」と言い、わざわざ車の向きを変えさせ、道のカマキリをよけて通った。
※ ※ ※
この逸話が元となり、命を投げ出して仕える主君を知ったとばかり、天下の勇者が続々と荘公のもとに集まった。
一方で、荘公自身は贅沢を好み、諫言を嫌った。
晋の卿の欒盈(中国語版)が反乱を起こして敗れ、斉へ亡命してきたときは、これを歓迎して復讐に手を貸そうとして晏嬰に諫言された。 それゆえ荘公は晏嬰を退けた。
前553年
『日本書紀』によれば、懿徳天皇が誕生。
新バビロニア王朝ナボニドゥス王が、シリアへ遠征をおこなう。
前552年
新バビロニア王朝ナボニドゥス王が砂漠のオアシスの都市テイマに遠征をおこなう。 以後10年前後にわたってそこに残留した。 長期間本国を留守にしていたためその間の国内統治は皇太子ベルシャザルに一任された。 ただしベルシャザルはバビロニア王を名乗る事は許されず、神殿への奉納はナボニドゥスの名で行われ、祭礼に関しても独断で行う権限を持たないなど、ナボニドゥスの影響力はかなりの程度確保された。 なぜナボニドゥスが、それほど長きにわたってテイマに滞在したのか、その理由は明らかではない。彼がそこに行った理由は明らかである。 テイマは重要なオアシスで、そこからは経済的な利益を生み出すアラビアの通商路を押さえることができた。 彼よりもはるか以前、アッシリア帝国が同じことを試みたことがある。 しかしながら、なぜナボニドゥスがそれほど長く滞在し、そしてなぜバビロンに戻ったのか、その理由・目的は未解明の謎として残る。 彼が月神シンへ傾斜し、それに抵抗・反対したバビロンにいても落ち着かなかったからだという理由が提案されてきた。 ナボニドゥスの帰還については、キュロスの脅威の増大や、ナボニドゥスと息子ベルシャザルとの意見の食い違いが目立つようになってきたことが関係しているかもしれない。 テイマへの滞在中、ナボニドゥスは手の込んだ建築物をテイマに建設した。 最近の発掘により、その多くが明らかになりつつある。
アケネメス朝ペルシアが、メディアに反乱を起こす。
前551年
儒教の創始者/孔子が生まれる。(-前479年)
晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が士匄(范匄)との権力争いに敗れて、斉へ亡命する。 荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、晏嬰は反対したが受け入れられなかった。 荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった晏嬰は職を辞して田舎にひきこもり、畑を耕して日を送る。
前550年
メディア王に恨みを抱いていたメディアの将軍ハルパゴスの裏切りもあり、キュロス2世が、メディアの首都エクバタナを攻略してメディア王アステュアゲスを打倒し、祖父の国であるメディアを滅ぼした。この時をもって、統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされる。キュロスはエクバタナを制圧するとメディア領土全域の制圧に乗り出しこれを支配。
ペルシアにアケメネス朝成立。 ダレイオスが、バクトリアでサトラップだったヒュスタスペスの長子として生まれた。
都市国家スパルタにおいて、先代の王アガシクレスの子アリストンが、エウリュポン朝の王位を継いだ。 前々からスパルタはテゲアと戦争を続けていたが、アリストンとその共同統治者アナクサンドリデス2世の代になってからテゲアに対して優位に立つことができた。 アリストンは二度結婚したが子は生まれなかった。二人目の妻の時、彼は友人のアゲトスの美人で有名な妻を得たいと思った。そこで彼はアゲトスに自分の持ち物で何でも望みのものを一つ与えるから、同じように自分にも望みのものを一つくれと提案した。アリストンには妻がいたのでまさか自分の妻を要求するとは思ってもいなかったアゲトスは承諾し、契約を交わした。アリストンはアゲトスに彼の欲するものを与えた後、アゲトスに彼の妻を要求した。アゲトスは拒んだが、契約をした手前拒みきれずに妻を奪われた。こうしてアリストンは二人目の妻を離縁して、アゲトスの妻を娶った。その間に生まれたのが次の王となるデマラトスである。
ヘロドトスによれば、デマラトスの名前にはこのような由来がある。 デマラトスが生まれる前、名望に優れたアリストンのために国民が彼に子ができるようにと祈願し、そこからアリストンの子はデーモス(国民、国家)とアラー(祈願)の合成でデマラトスと名づけられたという。しかし、月数を数えたアリストンは初めはデマラトスをわが子とは認めなかった。後にアリストンが意見を翻したこともあり、その時は誰もその事を気には留めずに話自体は流れたが、これは後のデマラトス廃位の根拠となった。
前549年
マハーヴィーラが生まれる。
4月12日、マガダ国(現ビハール州)のヴァイシャーリーのクンダプラにあったクシャトリヤの一氏族の族長シッダールタとトゥリシャラー(ヴァイシャーリー王の妹)の間に、ヴァルダマーナ(後のマハーヴィーラ)が生まれる。
トゥリシャラーがヴァルダマーナを産む前談には、様々な伝承が残されている。
古代インドでは、ヴァルダマーナの出生は「救世主の誕生」という枠組みのなかに位置づけられる。 最後の救世主となるべき彼は、パーサ(パールシュヴァ)によるニガンタ派の教えとその創設による共同体の道徳的完全さを復興しようと決意して、転生の手段で地上にくだった。 ヴァルダマーナは、あるバラモンの妻デヴァーナンダに受肉した。 しかし、神々は将来の救世主たるにふさわしい人物として天上の聖なる乳に彼を浸し、救世主はクシャトリヤの家に生まれなければならないとして胎児をマガダ国の王女である母親(トゥリシャラー)の体内へ移送した。 2人の母(デヴァーナンダとトゥリシャラー)は、偉大な人物の到来を予告する14とも16ともいわれる一連の夢によって、救世主・転輪聖王の誕生を告げられる。 その生誕の夜空に巨大な光が輝いたとされている。
※ ※ ※
4月12日はマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)の誕生日であり、マハヴィール・ジャヤンティ(Mahavir Jayanti)と呼ばれ、世界中のジャイナ教徒のなかで最も重要な宗教上の休日として祝われる。この休日は、祈り、装飾、パレードおよび祭典で有名である。
前548年/安寧天皇の御代
欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある) 安寧天皇は綏靖天皇の一人息子で兄弟姉妹はいない。母は事代主神の娘五十鈴依媛である。 綏靖25年に立太子、同33年で即位。安寧02年に大和国葛城の片塩浮穴宮に遷都し同03年に事城主神の孫で鴨王の娘の渟名底仲媛命を皇后とする。在位39年で没したといわれている。 余談であるが、第三代天皇、安寧の隠し子物語というものがある。 話は第七代天皇、孝霊の御代に飛ぶ。 孝霊の三番目と四番目の后、ハヘイロネとハヘイロドの姉妹が、ある日、こう言い出した。 「実は、私たちのおじいちゃんは安寧天皇の隠し子なの。だから、私たちは安寧天皇の曾孫なのよ」 孝霊は、これは聞き捨てならないと側近を呼びつけて、「あの姉妹の言っていることは本当なのか」と真偽を問うた。 「実は、以前から姫たちはそのように仰せでしたが、確かなことは......」 側近の調べたところでは、ハヘイロネ、ハヘイロド姉妹の祖父は、羊飼の少年ならぬ 「イノシシ飼」。その妻も、ごく普通の里の女。とても、皇子とは思えないということだった。 「しかし、あの目は本気だったぞ。あの姉妹がそうと信じるだけの何かがあるんじゃないのか」 側近は「おおそれながら」とこう答えた。 「安寧帝には、トコネツヒコノミコトと、オオヤマトヒコスキトモノミコトの二柱があらせられましたが、今一人、里の娘に産ませた子がいたとの噂がありまして。よく狩りに行くふりをして、その娘のもとに通われていたと......。しかし、まさかそんな名もなき里の娘などと......」 孝霊は笑ってこう答えた。 「なにを言うか。わしがあの姉妹をみそめたのも、狩りに行った先でのことだ。安寧帝は、きっとわしと好みが同じだったのだろう。よし、あの姉妹の言うことを信じてやろう」 孝霊はさっそく書記を呼び、ハヘイロネ、ハヘイロド姉妹の祖父、シキツヒコの名を皇族の系譜図に加えるように命じた。 古事記は安寧の皇子を三人と記している。ところが、日本書紀は第三子シキツヒコを、「皇子」ではなく二人の皇子の「弟」とのみ記している。 日本書紀の編纂者はこう記載することで、「曾おじいちゃん自慢」を正史に残すことへの抗議の意を示したのだろうか。 中国/斉の崔杼が荘公光を殺し、弟の杵臼(景公)を擁立した。
晋において、六卿の一人である士匄(范匄)が亡くなる。 これにより、趙武が正卿・中軍の将に昇格した。 趙武は次卿の韓起や相談役の羊舌肸(叔向)とともに、南の大国である楚との講和を目指した。
斉において荘公が、美女として評判の高かった崔杼の妻と密通した。
怒った崔杼は、自邸に荘公をおびき寄せた。 荘公が館を訪ねたとき、手下を集め荘公を弑した。
荘公が崔杼に殺されたとき、これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。 もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになるが、晏嬰は 「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の私事のためならば近臣以外はお供する理由はない。」 と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
崔杼の配下は晏嬰も捕え殺そうとしたが、崔杼は人民に人気がある晏嬰を殺すのはまずいと考え、これを止めさせた。 また、蟷螂の斧の逸話で荘公の下に集った勇士たちも崔杼の館にかけつけ、決死の突撃で数多く亡くなった。
バビロニア王朝とアケメネス朝との戦いが始まる。 これは、キュロス2世がアルベラ地方へ侵攻した事によって発生した。
前547年
アケネメス朝ペルシアのキュロス2世が、小アジア西部のリュディア王国に侵攻。不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた軍団を率いて攻め込む。
この時、ギリシアの古い植民都市でもあった都市国家イオニアは、アナトリア半島で繁栄したリュディア王国と経済的な繋がりが深く、これに支配されていた。このため、アケメネス朝のリュディア侵攻に対して、ペルシア王キュロス2世からリュディアより離反するよう勧告されていたが、ミレトスを除くイオニアの諸都市はこれに耳を貸さなかった。
アケネメス朝ペルシアとリュディア王国が対立する。プテリアの戦いでは引き分けたが、10月のテュンブラの戦いではリュディア王クロイソスを破り、続いて首都サルディス攻囲戦でリュディアを征服した。
ヘロドトスによればその時キュロス2世はクロイソスを火刑に処そうとしたが、クロイソスがアポロンに嘆願すると突如雨が降って火を消したため、キュロスはクロイソスの命を助けた。その後、クロイソスはキュロスに参謀的な役割で仕えた。
リュディア侵略の後、キュロスはイオニアへの侵攻を優先しなかったが、リュディア人パクテュエスの反乱にプリエネステとマグネシアが加わったため、ペルシア軍はこれを攻撃、イオニア地方を征服した。さらにハルパゴスに命じてカリア、リュキア、イオニアのギリシア人ポリスといったアナトリア西端のエーゲ海沿岸地方を恭順させた。以後、ペルシアはイオニアの各都市国家に僭主を置いて内政に干渉したが、それほど過酷な支配は行わなかった。衰退していたミレトスなどはむしろ繁栄を取り戻し、イオニアの華と讃えられた。
斉の君主である荘公の横死にともない、子である姜杵臼が、崔杼と慶封によって擁立され、景公(けいこう)として即位。
陳無宇が父の陳須無と共に、景公の後見人として威勢を蓄えていく。 崔杼は慶封と共に景公を擁立した事で、政権を握る事となった。 崔杼は慶封と共に国内を掌握し、反対者が出ないように大夫・士(貴族の階級)たちを集め、「崔・慶に組しないものはこれを殺す」と宣言し、斉の人民に絶大な人気があった晏嬰をもこれに従わせようとするも、晏嬰はこれを断った。 しかし、崔杼は結局晏嬰を殺害することはしなかった。
前546年
中国春秋時代の斉の政治家/崔杼が死去。
崔杼は、景公を傀儡として慶封と共に政治を行ったが、家庭内で前妻の子と後妻の連れ子とが対立し、そこに慶封が権力の独占を狙い介入して内紛が起きる。 一族は相闘して全滅し、一人残された崔杼は自害した。
7月、晋において趙武が、弭兵の会を催し、楚や斉、鄭、宋等の周辺諸国との講和を実現させた。 趙武は晋の名宰相と世に称えられた。
前545年
ゴータマ=シッダールタが入滅する1年前の記録は、阿含経典に克明に記録されている。 詳細は、漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録による。 雨期の頃、舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。ゴータマ=シッダールタ最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、伝道はラージャグリハから開始されることになった。 このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。 プラセーナジットの王ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。 ゴータマ=シッダールタは、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。 しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ これを持って、ゴータマ=シッダールタの故国シャーキャ国が滅亡する。 ゴータマ=シッダールタはカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。 シャーキャ国は亡くなったが、カピラヴァストゥの多くの民は、ゴータマ=シッダールタに帰依し、行動をともにした。 ゴータマ=シッダールタは多くの弟子を従え、ラージャグリハから出発した。 アンバラッティカ(巴: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。 ここでゴータマ=シッダールタは破戒の損失と持戒の利益とを説いた。 ゴータマ=シッダールタはこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次にゴータマ=シッダールタは、ナーディカ村を訪れた。 ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。 次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。 やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで雨期を過ごすことになる。 すなわちゴータマ=シッダールタはここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、ゴータマ=シッダールタは死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。 この時、アーナンダはゴータマ=シッダールタの病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。 これについてゴータマ=シッダールタは、「自灯明・法灯明」の教えと四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。
周において、霊王が崩御する。
斉の政治家/慶封が死去。
崔杼を倒して政治の実権を握った慶封を、陳須無が鮑国(鮑文子・鮑叔の曾孫)たちと手を組んで討伐する計画を立てる。 陳無宇は慶封の莱での狩猟に同行するが、母の病気を口実に都の臨淄へと戻り、父達と共に慶氏一門を討伐、慶封を斉から追放することに成功する。
慶封討伐後、公室では、陳無宇、鮑氏、高氏、欒氏らは景公を手に入れて正当を主張しようとしたが、晏嬰は彼らの戦いを私闘として景公を守り通した。 景公は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により田氏一門の司馬穰苴を抜擢した。 陳無宇は、景公に働きかけて晏嬰(晏平仲)を卿の一員として入閣させて、人心の安定を図った。
この後に、斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第2の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどと言われている。 しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるものであったとされている。
前544年
儒学者。孔門十哲の一人/冉伯牛が生まれる。
一説によると仏陀が入滅した年とされ、東南アジア諸国で使われている仏暦はこの年か、翌年の紀元前543年を元年として起算している。一説によると仏陀が入滅した年とされ、東南アジア諸国で使われている仏暦はこの年か、翌年の紀元前543年を元年として起算している。
雨期も終わってゴータマ=シッダールタは、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。 永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた。
托鉢を終わってゴータマ=シッダールタは、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。 ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。 ゴータマ=シッダールタ、入滅する。
ゴータマ=シッダールタは、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。 カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラ(現在のベナレスから北150Kmの場所)に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこでしずかに亡くなった。 80歳没。仏教ではこの死を入滅、ゴータマ=シッダールタの入滅を仏滅と言う。 腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。 釈迦入滅の図によれば、たくさんの生ある者が、シッダールタの周囲に集まってこれを見届ける。 シッダールタが入滅したのは、奇しくも現在の「ウエサクの祈りの日」に街頭する。つまり、ウエサクの祈りの日に生まれ、ウエサクの祈りの日に入滅した。
※ ※ ※
尚、「大安」などで日数から算出する「六曜」でいわれる「仏滅」とは何の関連性もない。 六曜の「仏滅」とは、「仏が滅ぶ」と記述するが、本来は「物滅(モノが滅ぶ)」と定義されていたものである。 奈良時代、大和では、政治的権力争のただ中にあり、特に物部氏が最もr大きな勢力をほこっていた。 しかし、日本へ仏教が伝来した後、物部氏の政治方針に不満を感じていた連氏たちが決起し、日本で仏教を「国家宗教」として定めて神道を廃絶する動きを作った。これをきっかけに二者が対立する事になった。 結果的に、神道側を支持していた物部氏は、暗殺事件をきっかけに仏教を擁立した曽我氏によって敗北する事となり、日本の神社の多くは壊され、寺院が建立された。 しかし、曽我氏が政治的権力を掌握すると、今度は、曽我氏にたいして不満を持つものが増えてきた。そして暗殺事件が発生。これ以降は、仏教と神道の対立関係は、天智天皇と天武天皇の2者が継承する事になる。 4次元域では、あらゆる土地神/妖怪が、仏教の護法神たちに滅ぼされる事となった。この際、仏教擁立側の者たちが「モノ(神や物部氏といった存在)が滅ぶ」という呪をかけた言葉が「物滅」であった。 この呪は、後の人たちに、非常に大きな影響をもたらす事になるが、神道擁立側もまた、この呪を返すべく「物滅」を「仏滅」とした。 したがって、人の埋葬の際に「仏滅」を忌むそもそもの理由は、「仏が滅ぶ」のではなく、「モノ(亡くなった人自身:精神や魂)が滅ぶ」事を嫌ったためである。 後世、日本仏教の拡大とともに、亡くなったモノが滅ぶ「物滅」は、亡くなった人=仏と解釈され、前回とは違った意味で「仏滅」となった。 これ故に、本来のゴータマ=シッダールタの入滅とは、何の関連性もないという事である。
※ ※ ※
ゴータマ=シッダールタの入滅後、その遺骸はクシナガラの地のマッラ族の手によって火葬された。 当時、ゴータマ=シッダールタに帰依していた八大国の王たちは、ゴータマ=シッダールタの遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。 そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。
その八大国は、クシナガラのマッラ族、マガダ国のアジャータシャトル王、ベーシャーリーのリッチャビ族、カピラヴァストゥのシャーキャ族、アッラカッパのプリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータデーバのバラモン、バーヴァーのマッラ族であった。
第1回目の「結集」が行われる。
弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。伝承によると、ブッダ入滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外に500人の比丘(阿羅漢)達(すなわち、五百羅漢)が集まり、最初の結集が開かれたという(五百結集または王舎城結集)。このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ経(経典)と律(戒律)の編集責任者となった。マガダ国の王アジャータシャトル(阿闍世王)が大檀越としてこれを外護(げご)したといわれる。また、文殊菩薩は十大弟子とも親しく、この結集に参加したとの伝承がある。
この時に編纂され完成したのが「阿含経(アーガマ)」である。 監訳された経典の冒頭に「如覚我聞」という記載があるのは、500人の比丘が「私はこのように師の教えを聞いた」と告げた事がそのまま記載されている。 この時、はじめて仏教(Buddisum)が成立する事となる。
「仏教」という言葉の当て字は「人に非ずの教え」と記載する。 本来は「成仏道」つまり「人を超えた存在と成る道」の意味であったが、これが生来の意味を失い略されて現在の「仏教」として定着した。 仏像が造られるきっかけとなったのも、「成仏道」の意味が失われた時期に相応している。
ゴータマ=シッダールタは開祖「釈尊」あるいは「釈迦」とされた。(いずれも「釈迦族の尊者」の意味)
マガダ国シシュナーガ朝の王アジャータシャトル(アジャータサットゥ)が死去
マガダ国シシュナーガ朝の王としてダルシャカが即位。
周において、霊王の子である姫晋が早世したため、弟の姫貴が王位を継承し、景王(けいおう)として即位する。
父の霊王と同じく子沢山であったとされている。おもに姫朝、太子の姫寿、姫猛、姫匄などがいた。
前543年
儒学者。孔門十哲の一人/子路が生まれる。(-前481年)
前542年
新バビロニア王朝ナボニドゥス王がバビロニアへ帰還する。
ナボニドゥスがバビロンに戻ると、ベルシャザルと大勢の行政官たちは、ただちに解任された。
前541年
晋の趙武は、自身の身体の衰えからもう先がないことを悟った。
12月1日に祖先の合祭をおこなってしばらくしたの12月7日に死去。
趙家を再興させ、楚や周辺諸国との講和という大業を成したことから、諡号「献文」を諡され、趙文子と呼ばれることになった。
前540年
哲学者/パルメニデスが生まれる。
アケネメス朝ペルシアのキュロス2世が、エラム王国の首都スサを陥落させ、エラム王国は滅亡した。
イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後もアケメネス朝時代においても受け継がれた。 紀元前3000年頃からアケネメス朝ペルシアの時代までエラム語は、行政語としても使用され続けた。
前539年
新バビロニア王朝、アケメネス朝ペルシアによって滅ばされる。
ペルシャ帝国(アケメネス朝)がオリエント全域を支配。
※ ※ ※
バビロニアの陥落については異なる記述が残っている。 キュロス2世の円筒形碑文によれば、バビロンの住民はキュロス2世のために門を開き、解放者として歓迎した、としている。 この円筒形碑文には、すでに次代の王となるカンビュセス2世の名前も刻まれていた。 イザヤ書第40章〜第55章では、ペルシア軍がバビロニアの女性たちと神像を略奪するであろうと預言している。
ヘロドトスはキュロス2世がバビロニア人を街の外で打ち負かし、その後、包囲戦が始まったとしている。 包囲戦が長引くと、キュロス2世はユーフラテス川を迂回させ、部隊が河床から街の中へ侵入できるようにした。 ベロッソス(紀元前3世紀の著述家)は、キュロス2世がバビロニア軍を打ち破ったのだが、このとき、ナボニドゥスは近くのボルシッパへ逃れたのであろうと主張している。 ナボニドゥスはそこに隠れ、その間にキュロス2世がバビロンを占領し、その外壁を破壊した。 キュロス2世がボルシッパに向かうと、ナボニドゥスはすぐに投降した。
ナボニドゥスの年代誌によれば、情報量は限られるが非常に信頼できると考えられている。
※ ※ ※
9月、キュロス2世がメソポタミア南部への進軍を試みたとき、オピス付近でバビロニア軍に遭遇。 アケメネス朝の侵攻を受け、オピスでのオピスの戦いでナボニドゥスは敗北した。 それに続く戦闘で、ペルシア軍は彼らに勝利した。続いて、付近の都市シッパルが投降した。
10月、シッパルが陥落するとナボニドゥスはバビロンへ逃れた。 また一方で、キュロス2世のそれ以上の進軍を阻止するため、バビロニア軍はユーフラテス川付近に防衛線を築こうとして南へ撤退した。 しかしながら、キュロス2世はバビロニア軍に戦いを挑まなかった。 むしろ、首都の急襲を試みるため、彼は小規模な軍隊をティグリス川沿いに南へ送った。このアイディアはうまくいった。 ペルシア軍の部隊は、気付かれることなくバビロンに到達した。門の付近で小さな抵抗に遭っただけであった。 このようにして彼らはバビロンを占領しただけでなく、ナボニドゥスも捕らえた。 これによりバビロニア軍は基盤を失った状態に置かれ、まもなく投降した。 一方、バビロンを占領したペルシア軍の指揮官ウグバルは、配下の兵士が略奪または都市を害する行為をしないよう、よく気を配った。 彼はバビロンの神殿の儀式が行われ続けるよう、計らうことさえした。それにもかかわらず、キュロス2世が入城するまで約1か月を要した。 バビロニアの官僚や行政組織が政権移行後も残ったので、この期間は都市代表との交渉に費やされたものと推測されている。 これは、新アッシリア王サルゴン2世やアレキサンダー大王がバビロンを占領したときの状況とよく似ている。
※ ※ ※
10月29日、キュロス2世は、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した(バビロン捕囚時代の終結)。 キュロスは、被征服諸民族に対して寛大であったので、後世に理想的な帝王として仰がれ、ユダヤ人を解放して帰国させたことから旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている(イザヤ書45章1節)。
キュロスは新バビロニアのネブカドネザル2世によって略奪されていたエルサレム神殿の什器を返還し、エルサレムに神殿の再建を命じた。 この再建は難航し、紀元前520年ごろに第二神殿が完成した時にはキュロスはすでにこの世を去っていたものの、この恩とキュロス以降も継続された宗教寛容政策により、ユダヤ人はアケメネス朝の統治下においては一度も反乱を起こさなかった。キュロスは子のカンビュセス2世にバビロンの統治を命じ、旧バビロニアの統治機構をそのまま利用して統治を進めた。この時期に、キュロスは宣撫文書としてキュロスの円筒印章を作らせ、ペルシアの統治の正当性を主張させた。
※ ※ ※
ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したことで彼らの評価を得たことやクセノポンその他の評価も高かったことにより、キュロスは理想的な君主の一人として後世に伝えられるようになった。近代に入ると、パフラヴィー朝イランのモハンマド・レザー・パフラヴィーはイラン人の民族意識を高揚させる政策を取り、キュロスはペルシア帝国の建国者として賞揚されるようになった。キュロスの円筒印章を「史上最初の人権宣言」と呼んでさかんに宣伝したのもこの時期のことである。後の1971年にはキュロスのアケメネス朝建国2500年を記念してペルセポリスで盛大なイラン建国二千五百年祭典を開催し、パサルガダエのキュロス2世の墓においても国王の演説が行われた。またこの時にイラン暦の紀元がキュロス即位時(紀元前559年)に変更されてイラン皇帝暦と名を変え、ヒジュラ暦に代わって国家の公式な暦となった。この暦が公式に施行されたのは翌1976年であり、このため西暦1976年は皇帝暦2535年となった。しかし1979年にイラン革命が起こってパフラヴィー朝の王制が廃止されると、このキュロス紀元も廃止された。
※ ※ ※
キュロス2世は、カンビュセス2世の弟バルディア(スメルディス)にペルシア帝国東部の総督を任命する。
前536年
儒学者。孔門十哲の一人/閔子騫が生まれる。(-前487年)
前535年
兵法書『孫子』の著者/ 孫武が生まれる。
前530年
5月、ペルシャ帝国のキュロス2世は、最後の東方遠征を行なうにあたってカンビュセス2世に王位を授けた。 当時作られた数多くの粘土板が、この王位継承とカンビュセスの治世元年、すなわちカンビュセスが「諸国の王」(つまり世界の王)となった年から書き起こされている。
8月、東方遠征先にてキュロス2世が亡くなる。ヘロドトスは著書『ヒストリアイ』の中で、キュロスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したという説を伝えている。しかしすでに一部の統治権を譲渡されていたこともあり、皇太子であるカンビュセス2世への政権移譲は滞りなく行われた。
カンビュセス2世が事実上の王となる。
バビロニアの彼の統治期間を記録した粘土板は、治世第8年目にあたる紀元前522年3月で終わっている。ヘロドトスは彼の在位をキュロス2世の死から始まるものとしており、その期間は紀元前530年から紀元前523年の夏までの7年5か月とした。
キュロスの墓は、王都パサルガダエに築かれた。この陵墓は現在でも残っており、2004年にパサルガダエの都市遺跡の一部として世界遺産に登録された。
アケネメス朝ペルシアはこの時点で、中東アジア一体を支配しており、残る独立国家はエジプト26王朝のみであった。カンビュセス2世がエジプトの制圧を開始。
前???年
ペルシャ帝国カンビュセス2世が、実の妹であるアトッサ(ロクサーナの姉)と結婚。
この結婚は、最近親婚という事になるが、のちにゾロアスター教(紀元前3世紀頃に発生)において、最も徳の高い行為のひとつ(7つの善行の2番目)と定義された。
前527年
アテナイの僭主/ペイシストラトスが死去。
前526年
ナイル川東岸のペルシウムの戦いが起こる。 カンビュセス2世はアラビアの族長たちと同盟を結んで駐屯地に大量の水を届けさせることで、砂漠を通っての進軍に備えた。一方アマシス王はギリシアとの同盟関係を保てば、ペルシアの攻撃にも耐えられるとの希望的観測を抱いていた。
エジプト第26王朝クネムイブラー・イアフメス2世(アマシス)が死去。
エジプト第26王朝アンクカエンラー・プサムテク3世(プサメティコス3世)が王位を継承。
前525年
キュプロスの町と大艦隊を所有していたサモスの僭主ポリュクラテスがペルシア側につき、さらにギリシア軍の指揮官であるハリカルナッソスのファネスが裏切る。 エジプト軍は壊滅し、まもなくメンフィスが陥落。 エジプト第26王朝アンクカエンラー・プサムテク3世(プサメティコス3世)がペルシア軍に捕らえられる。王プサムテク3世は反乱を試みたが処刑された。 エジプト第26王朝がアケメネス朝(ペルシャ帝国)によって滅亡する。
エジプトの碑文によれば、カンビュセス2世は公的にファラオの称号や衣裳を纏うことにした。 カンビュセス2世は、メスティラー(Mesutire)を名乗り、エジプトの王として即位した。
この時点でエジプト第27代新王朝が建国された。
エジプトはキプロス、フェニキアと共にアケメネス朝の第6州を形成し、アリュアンデスがサトラップ(総督)に任命された。総督の居館はメンフィスに置かれた。 カンビュセス2世の治世においては、エジプトの伝統的な神殿群の財源は、かなり減少した。デモティック体でパピルスに書かれた一片の法律は、メンフィス、ヘリオポリス、ウェンケム(Wenkhem アブシール近郊)を除く全てのエジプトの神殿の資産制限を命じている。 カンビュセス2世が、夢のお告げで弟のバルディア(スメルディス:実弟にしてペルシャ帝国東部総督)に王位を奪われるのではないかと疑念を抱き、暗殺を企てる。 最近の研究では、この暗殺は虚偽の報告がなされており、実際にはバルディアが名前を変え、マギにして大神官ガウマタとして暗殺を回避した。 エジプトに続き、カンビュセス2世はクシュ(現在のスーダンの位置に発展した国)の征服を試みた。しかし、カンビュセスの軍隊は砂漠を横断することができず、深刻な敗北を喫して帰還を余儀なくされた。 ナパタの碑文(ベルリン博物館所蔵)では、ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取したと記載されている。 スィーワ・オアシスへの再度の遠征もまた失敗に終わり、カルタゴ攻略計画もフェニキア人が自分たちの親族に対する軍事作戦を拒否したために頓挫した。
悲劇作家/アテナイのアイスキュロスが生まれる。(-前456年)
前522年
アケメネス朝(ペルシャ帝国)のマギにして大神官ガウマタ(バルディア)が謀反を起こし、ペルシャ帝国の王カンビュセス2世が遠征に出ている間に王位を簒奪。(アミルタイオスの反乱) 同じくアケメネス朝内のダレイオスが、大神官ガウマタ(バルディア)を殺害し、王位を簒奪した。 翌朝、ダレイオスは、アケメネス朝の王として即位。 3月、カンビュセス2世は、この反乱を鎮圧するため進軍を試みたが、成功する可能性がほとんどないことを自覚するに及び、自殺する。シリアのエクバタナ(現在のイランハマダーン州)で没した。
この経緯を経て、ダレイオス1世が、実質上のアケメネス朝ペルシアの王となる。
ダレイオス1世は、この後すぐに全帝国で続発した反乱の鎮圧に多くの時間を費やした。この反乱の主たる原因は不明である。しかし、古代ギリシアの軍事史家ポリアエヌスは総督アリュアンデスによる過酷な課税のためであると述べている。ポリアエヌスは更にダレイオス1世がエジプトに親征を行い、聖牛アピスの死に伴う喪中に到着したと書いている。 エジプト人の諸侯が反乱(原因は不明)を起こした時、ダレイオス1世自身がエジプトの王ペティバステト3世であることを宣言し、事態を終息させた。 ダレイオス1世は次のアピスを育てた者には数百タラントの賞金を出す事を宣言することで、自らの信心深さをエジプト人に示して大衆の支持を獲得し、反乱を終結に導いた。
都市国家スパルタにおいて、アーギス朝の王アナクサンドリデスが亡くなる。
前521年
ベヒストゥン碑文によれは、ダレイオスの父はヒュスタスペス(ウィシュタースパ)という人物で、アルサメス(アルシャーマ)の子であったとある。パルティア(アルサケス朝パルティア:現在のイランを中心とした地域)の出自であり、過去のエジプト王朝とのつながりは不明。 ダレイオス1世はカンビュセス2世よりもエジプトの内政に大きな関心を寄せていた。彼はエジプトの法律を成文化したと伝えられており、またスエズでビター湖と紅海を結ぶ運河掘削事業を完成させた。このルートは過酷な砂漠を行く陸路よりも遥かに優れていた。この工事はまた、ダレイオス1世がペルシアで彼の宮殿を建設するためにエジプトの熟練労働者と職人を移住させることを可能とした。これは小規模ながらエジプトからの頭脳流出であった。これら熟練した技能者の喪失によって、この時期からエジプトの建築と芸術における品質低下が生じた。にもかかわらず、ダレイオス1世はカンビュセス2世よりも熱心なエジプトの神殿の後援者であり、エジプトにおける宗教的寛容によって高い評価を得た。 ダレイオス1世の国内統治は評価が高く、アケネメス朝全盛期の王と言われるほどであった。
全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督(サトラップ)を配置した。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達のために「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣した。このように中央集権体制を整備し、エーゲ海からインダス川におよぶ最大版図を統治したことから、アケメネス朝全盛期の王と評価される。彼の時代に新都ペルセポリスが造営されたが、政治的中心はスーサであり続けた。
交通網の整備は、当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサとサルデスを結ぶ「王の道」は有名である。中央集権的な統治体制を整備する一方で、帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍するアラム人やフェニキア人の活動を保護した。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図ったが、その成果は限定的であったとされる。 彼の事跡はベヒストゥーン碑文に記されている。
この碑文は古代ペルシア語・エラム語・アッカド語(後期バビロニア語)によって書かれているが、ベヒストゥーン碑文に記された古代ペルシア楔形文字はペルシアで制定された表音文字であった。これはイギリス人のヘンリー・ローリンソンが解読に成功し、この解読を端緒として、楔形文字(アッカド語楔形文字やシュメール文字など)の解読への道が開けた。 ダレイオス1世が周辺諸国の制圧を開始。トラキア、マケドニア王国を勢力下に置き、パンジャーブ・シンドを征服。
前520年
アケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝のダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手する。
ペルセポリスはクーヒ・ラハマト(慈悲の丘)の山裾に自然の岩盤を利用して建設された。 クセノフォンの記録によればアケメネス朝の王は春3ヶ月間をスサ、夏2ヶ月間をエクバタナ、冬7ヶ月間をバビロンで過ごしたとあり、ペルセポリスは儀式用の都市であったのではないかという説もある。しかし、エラム語の文書が宮殿跡から発見されてからは、少なくとも創建当初にはペルセポリスで実際に行政活動が行われていた事が明白になった。 ペルセポリスの建設は、記録上アルタクセルクセス1世の治世(〜紀元前424年)まで行われていた。そし紀元前331年にアレクサンドロス大王によって破壊される。
都市国家スパルタにおいて、先代の王アナクサンドリデスの長子であるクレオメネスが、アーギス朝の王位を継いだ。
ヘロドトスによれば、クレオメネスの頭脳は正常ではなく、狂気の気があったと記録に残している。 クレオメネスの王位継承に際し、我こそは王位を継ぐものと思っていたドリエウス(彼は1人目の妻の子だった)はクレオメネスの統治下に甘んずることを良しとせず、植民地開拓団の指導者として国を出たが、シケリアでのフェニキア人とエゲスタ人との戦いの最中戦死した。
マガダ国シシュナーガ朝の王ダルシャカが死去。
周において、景王が崩御する。
周において、太子であった姫寿が早世したため、姫猛が王位を継承し、悼王(とうおう)として即位する。
この王位継承権には不満を持った者が多かった事から、異母庶長兄の姫朝をはじめ、その一派に殺害された。
前519年
後のペルシャ王/クセルクセス1世が生まれる。
マガダ国シシュナーガ朝の王としてウダーイン(ウダヤバッダカ)が即位。
周において、悼王の異母兄である姫朝が悼王を殺害した頃、晋による派兵が行われ姫朝を討伐した。
そこで、おなじく景王の子であった姫匄が王位を継承し、敬王(けいおう)として即位する。
晋の討伐から生きながらえた姫朝は、敬王(けいおう)と対立する。
前518年
アケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝のダレイオス1世がガンダーラを征服。さらに、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼ばれる総督を置き、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島嶼をその支配下に置いた。
アケメネス朝ペルシア/エジプト27王朝のダレイオス1世は政治の力点を経済活動に置き、「王の道」を整備するとともに、金貨を鋳造して交易を積極的に推進した。
ヴァルダマーナの両親が亡くなる。この時ヴァルダマーナは、兄から許可を得て全財産を分与し、出家して一切を捨て、ニガンタ派の沙門(sramana)の遊行者となって修行生活に入った。 13か月の瞑想を経てすべての衣服と履き物を捨てて裸形となった。これは、ニガンタ派の伝統から離脱する最初の革新であった。裸のまま「空気をまとって」世俗にかかわる所有物すべてを放棄し、12年間激しい苦行と瞑想にその身を捧げた。
※ ※ ※
上記にあるニガンタ派とは、ジャイナ教ニガンタ派の事であるが、これはジャイナ教が成立以後において、当時のヴァルダマーナが今で言うニガンタ派の思想をもって修行をしていたという解釈として付けられたもの。 この当時、すでにジャイナ教の母体となる思想はいくつか存在していた節がある。 バラモン教(現在のヒンドゥー教)の思想が主流となっていた中に、新しく仏教という新しい革新的な思想概念が生まれたばかりの時代背景のなかで、ジャイナ教の根源となる思想はわずか少数派でありながらも、確立されたメソッドとして伝承されていた。
前516年
周王朝内部において、敬王と衝突していた姫朝が、楚へと逃れる。
前515年
都市国家スパルタにおいて、先代の王アリストンの子デマラトスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。
彼は(ヘロドトスによればクレオメネスへの嫉妬から)共同統治者のクレオメネス1世に対していくつかの妨害を行い、しばしば対立した。
前514年
儒学者。孔門十哲の一人/顔回が生まれる。(-前483年)
前510年/懿徳(いとく)天皇の御代
欠史八代の一人で、実在しないと考えられている。(実在の人物とする説もある) 異称を、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)という。 安寧天皇の第2子。安寧11年に立太子。即位後、軽の曲峡宮に遷都して天豊津媛命を皇后とした。在位34年にして没し、畝傍山南繊沙谿上陵に葬られたという。
僭主ペイシストラトス一族によってアテナイから追放されたアルクメオン家は、ペイシストラトスの子でアテナイの僭主ヒッピアス打倒のための助力をスパルタに要請した。 その際、アルクメオン家(首謀犯はクレイステネス)はデルポイの巫女を買収し、巫女にアルクメオン家を助けるべしとの神託をさせ、それを受けたクレオメネスはその通りにした。
まず、スパルタはアテナイへ将軍アンキモリオスを派遣したが、ヒッピアスの援軍としてやってきたテッサリア騎兵1000騎にアンキモリオスは敗死した。次にクレオメネスは自ら総司令官として出陣した。 テッサリア軍を破り、ペラルギオン砦に篭った僭主の一党を包囲した。当初ヒッピアス派には篭城の備えが十分あり、スパルタ軍には城攻めの意図はなかったが、偶然包囲軍が国外へ逃亡しようとしていたペイシストラトス一族の子女を捕らえたことでヒッピアス派は混乱し、5日以内にアッティカを去るという条件で降伏した。 アテナイを僭主から解放したクレオメネスは大きな名声を得た。
前509年
伝承によれば、ローマで共和制が始まる。(共和政ローマ)
アテナイはアーギス朝の王クレオメネスの助力によって僭主から解放されたが、それ以来力をつけ始めた。これを受け、アテナイの力を殺ぎ、脅威を取り除くためにクレオメネスはアテナイを再び僭主制に戻し、僭主の地位にアテナイの政治家イサゴラスを就けようとしてアッティカに侵攻した。
前508年
アテナイで、イサゴラスとクレイステネスが政権を争い、平民を味方につけたクレイステネスが勝利した。 平民を味方につけたクレイステネスが勝利した。そこでイサゴラスはクレオメネスに助けを求め、軍を率いてやってきたクレオメネスはクレイステネスたちを「穢れ人」(かつて反乱者キュロンたちに生命を助けると言いつつも約束を反故にして彼らを処刑し、その責任をアルクメオン家が問われたことから)として追放すべしと弾劾した。 彼らを追放したクレオメネスはブーレー(en:Boule (ancient Greece):評議会)を廃止してイサゴラス派の300人に政権を委ねようとし、反対したブーレーをアクロポリスに包囲したがアテナイ人による包囲攻撃を受けて失敗したため、クレオメネスはアテナイを去った。
前507年
怒ったクレオメネスは続く年にアテナイに復讐をし、イサゴラスをアテナイの僭主とするためにペロポネソス軍を率いてエレウシスに侵攻した。 クレオメネスの軍はオイノエとヒュシアイを占領したものの、軍うちのコリントス軍が自分たちの行いは正しくはないと考えて引き上げた。 さらに、まさにアテナイ軍と矛を交える直前にエウリュポン朝の王デマラトスが麾下の軍と共に撤退し、クレオメネスの試みを失敗させた。
前506年
儒学者。『孝経』の著者/曾子が生まれる。
ヴァルダマーナが、12年もの苦行と瞑想のなかで、感覚に対する典型的な統制のあり方を示し、また、人間、動植物を含むすべての生物一切に極限と呼べるほどの注意を払い、あらゆる意味でこれらを傷つけないよう努めた。
ヴァルダマーナ42歳の時、リジュクラ川(リジュパーリカー川)の河畔ジュリンビカ(ジャブラカ)村での修行を完成し、2日半にわたる瞑想のあとの夏の夜、ジュリンビカの沙羅樹の下で真理を悟って「全能の力」を獲得し、「ジナ」(Jina、「勝利者」)となった。
ジャイナ教とは、この「ジナの教え」に由来する。ヴァルダマーナは弟子や信奉者によって「偉大な勇者」マハーヴィーラと称されるようになった。
※ ※ ※
ジャイナ教が教団として、ヴァルダマーナの生前中に成立したのか否かは不明。 祖師はマハーヴィーラとなっているが、すでにそれ以前に23人のジナ(ティッタンカラ)がいたと伝えられる。
前505年
周の敬王が姫朝暗殺のため、楚に刺客を送り込み、姫朝を殺害した。
しかし、これに対し周王朝内部で姫朝を支持する勢力が反乱を起こし、敬王は周都を脱出する。
前???年
スパルタ/アーギス朝の王クレイステネスによる巫女の買収が明るみに出、また独裁者から解き放たれて強大となりつつあるアテナイを警戒したクレオメネスは対アテナイ政策を一転した。 彼はヒッピアスと同盟諸国の使節を招いてヒッピアスをアテナイに復権させようと提案したが、コリントスでかつて起った僭主政の惨禍を引き合いに出して僭主政を厳しく批判したコリントス人ソクレスを皮切りに反対意見が続出し、結局計画は中止された。
その後ヒッピアスはペルシアを頼り、これが後の第一次ペルシア戦争の一因となった。
前503年
周王朝内部の反乱で周都を脱出した敬王が、周に戻ってくる。
この時、周は平王より洛邑を都城に定め王城と称していたが、敬王は姫朝の勢力が強い悼王までの都を避け東(漢代の雒陽城、すなわち、現在の漢魏故城の辺り)に遷都した。
これ以降、遷都した新しい都城を成周、旧都を王城と称すようになった。