紀元前700年〜600年代

前700年
都市国家スパルタにおいて、先代の王アルカメネスの子ポリュドロスが、アーギス朝の王位を継いだ。
彼は第一次メッセニア戦争の初期に統治し、共同統治者のテオポンポスと共にその戦争を戦い、勝利した。このためにポリュドロスは大きな名声を博したが、誰に対しても粗暴な振る舞いをせず、無礼な口も聞かず、裁判にあたっても公正な王であったために民衆からの人気もあった。ポリュドロスは貴族のポレマルコスによって殺され、ポリュドロスの死後、人々は彼の妻から牛と引き換えに彼の館を買い取った。パウサニアスによれば、歴代の王の中でもポリュドロスは特に尊敬されており、役職に付いた人は印章を押す際にはポリュドロスの像を押印したという。 また、スパルタはポリュドロスの治世の間にクロトンとロクリスに殖民都市を建設した。
前697年
5月、厲公が蔡に出奔。
6月、昭公は祭仲に迎えられ、ふたたび位に就いた。
前696年(アスス暦21年)
事実上のアススノコヨミが始まる。
中国春秋時代の晋の君主。春秋五覇の一人/文公が生まれる。(-前628年)
周の桓王の子である姫佗が、荘王として即位。
前695年
鄭の昭公は即位する以前、大夫の高渠弥が卿になることに反対したことがあったため、即位後になって高渠弥から殺されないかを心配していた。
10月、案の定、昭公は高渠弥と狩りに出かけた際に高渠弥から射殺された。
昭公の死後、高渠弥は厲公を迎えてふたたび鄭君に就かせようとしたが、祭仲が反対したため、昭公の弟である公子亹(び)を立てて鄭君とした。
前694年
アッシリア王センナケリブの息子である長兄アッシュール・ナディン・シュミが、エラムとの戦い(フンバンタラ朝との戦)で行方不明になったため後継問題が発生。 ナキアの尽力によって後継者に指名されたが、これを心良く思わなかった他の兄達と対立した。 彼自身が残した碑文によれば、兄達によって盛んに讒言がなされたために身の危険を感じ、首都を脱出して身を隠した。 この時恐らく現在のアナトリア南東部付近まで亡命した(追放説あり)。
王族の周公黒肩が荘王を弑し、その弟の儀叔克(姫克)を擁立する計画が露見した。
荘王は大夫辛伯に命じ、そのため黒肩は殺害され、儀叔克は南燕(現在の河南省延津)に逃れた。
荘王は側室の姚氏が産んだ姫頹(弭叔頽)を溺愛し、太子の姫胡斉(釐王)を疎んじた。
以降、姫胡斉と弭叔頽は対立していた。
(しかし、孫の恵王の代に弭叔頽は自ら周王と称した)。
前690年
エジプト第25王朝ジェドカウラー・シャバタカが死去。
エジプト第25王朝ネフェルテムクラー・タハルカが王位を継承。
前687年
ギュゲスが、リュディア王として即位。(-前652年)
マナセが、ユダ王国の王として即位。(-前643年)
前685年(アスス暦33年)
アマノコヤネがミカサ(三笠)にて神上がりする(亡くなる)。
アマノコヤネの遺体は、この時、現在の京都市左京区大原野南春日町にあるオシホ(小塩山)に葬られた。後になってアマノコヤネの継子であるオシクモにより、ヒラオカ(現、大阪府東大阪市出雲井町枚岡)に移葬された。
中国/斉の桓公、管仲を宰相に迎える。
中国/斉の桓公、周王より伯位を賜り最初の覇者となる。
メッセニアはスパルタに征服され、メッセニア人はヘイロータイの身分に落とされた。これによってスパルタはギリシアのポリスの中では例外的に広い領土を有することになった。しかし、約40年間にわたってスパルタの支配に耐えかねたメッセニア人は、スパルタに対して反乱を起こし、他のポリスも両陣営に加わってペロポネソス半島中を巻き込んだ戦争となった。
第二次メッセニア戦争が勃発する。
また、二人の王が戦争にかかりっきりになってしまったため、スパルタでは監督官の制度が生まれた。
前684年
第二次メッセニア戦争において、猪塚の戦いでアナクサンドロスは反乱の指導者アリストメネス率いる軍と矛を交えた。この時アナクサンドロスは(おそらく右翼で)最強部隊の親衛隊を指揮していたが、アリストメネスの部隊に敗走させられ、他の部隊も総崩れになり敗れる事となった。
前683年(アスス暦35年)
ナガスネ(長脛彦)が、ミカサヤシロ(現在の春日神社)に納めていたヨツギフミを盗み写す。
第二次メッセニア戦争においてアナクサンドロスは、スパルタ近郊にまで進出してきたアリストメネスを帰路で襲ったものの返り討ちに遭うなどアリストメネスには度々辛酸を舐めさせられる。
前682年(アスス暦36年)
タタラヰソススヒメが生まれる。
第二次メッセニア戦争においてアナクサンドロスが、敵方のアリストクラテス2世を買収し、大掘割の戦いで勝利した。
この戦いで決定的な勝利を得たスパルタはメッセニア人をヘイラ山への篭城まで追い込み、やがて戦争に勝利する事となる。
周の荘王が死去。
前681年(アスス暦37年)
ナガスネのヨツギフミの盗み写し事件により、国内が騒然となる。
オシクモ、右の臣(右大臣)クシミカタマと共にナガスネを撃ち、奈良盆地に追い返す。
アッシリア王センナケリブが他の兄達によって暗殺される。 エセルハドンが、アッシリア王として即位。(-前669年)
在位中にエジプトを征服する。
父王エサルハドンの時代からアッシュールバニパルの時代にかけて、生贄の動物から内臓を取り出してその状態によって未来を占う内臓占いが多数行われた。 この占いに関する文書が数百点残されており、しかも王が重大局面に差し掛かった時その吉凶を占った記録であるために当時の政治情勢を知る上で重要な史料となる。
周王朝において、荘王の子である姫胡斉が釐王(りおう)として即位。
前680年(アスス暦38年)
オシクモがヒラオカ(枚岡)にて神上がりする(亡くなる)。
オシクモの継子はアマノタネコ。
詩人/タソスのアルキオコスが生まれる。(-前609年)
前679年
晋の武公が晋を滅亡させる。
その後、武公は宝器を釐王に献上した。釐王は武公を晋国君主に封じ諸侯に列している。
前677年
周王朝において釐王が死去。
前676年
周王朝において釐王の子である姫閬が、恵王として即位する。
田地で野獣を飼育するなど国人の不満を引き起こした。
前675年
都市国家スパルタにおいて、先代の王アルカメネスの孫ゼウクシデモスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。ゼウクシデモスの父はアルキダモスだが、彼はテオポンポスの存命中に死んだため、ゼウクシデモスに王位が回ってきた。ゼウクシデモスの治世について史料の沈黙のために詳細は分かっていない。
周王朝において、恵王に不満を持った周の民の中から、秋、辺伯・石速・詹父・子禽・祝跪の五人の大夫(いわゆる貴族の事)が叛乱を起こし、燕と衛の軍を連合し恵王を討った。
恵王は温(現在の河南省温県南部)に逃れ、鄭の厲公は櫟地(現在の禹州市)で恵王を迎えた。
王が不在になった周において、かつて釐王と対立した弭叔頹(姫頹)が王に即位。(惠王の叔父にあたる)
前674年
アッシリア王エサルハドンの紀元前674年の悪魔払い儀礼の文書には、同じカシュタリタという名を持つ別人物が登場する。 この悪魔払いは将来アッシリアがカシュタリタという人物により災厄をもたらされるというエサルハドンの悪夢に対して行われたものであった。 (このカシュタリタをフラオルテスと同定することは可能)
前673年
鄭が遠縁の虢と協力して、周の弭叔頹を誅殺し、恵王を復位させる。
その後、鄭は恩賞として虎牢(現在の河南省滎陽汜水鎮)以東の地を与えられ、同様に虢に対しても領地が下賜された。
前???年
周の惠王は、前妻の死後において、後妻(恵后)との間に生まれた姫帯(叔帯、甘昭公)を寵愛した。一方、前妻との間に生まれた子である太子の姫鄭は、王位継承が異母弟にいくのではないかと恐れる事となる。
前671年
アッシリア帝国エサルハドン王によりエジプトが支配される。
アッシリア帝国はオリエント地域全体を支配する大帝国になった。
前670年
都市サイス知事であったアンメリス(後のネコ1世)が、アッシリアの王アッシュールバニパルによってサイスに封じられた。 アンメリス(後のネコ1世)は、封じられながらも、サイスの都市を統治。
前669年(アスス暦49年)
タケヒト、アビラヒメを娶りタギシミミを産む。
アッシリア帝国にて、アッシュールバニパル王が即位する。 "大征服王"といわれるアッシュール=バニパルの時には、史上空前の世界帝国となった。 彼はニネヴェに壮大な王宮を営んだが、その宮殿の浮彫は有名である。 アッシリアの歴代の王は猛獣狩りを非常に好み、当時シリアからメソポタミア北部に多くいたライオン狩りが盛んに行われ、その様子が浮彫に描かれている。 王はまた世界最初の図書館を建てた。1850年から行われたニネヴェの発掘によって、2万点以上の粘土板文書(楔形文字)が発見されアッシリア学成立の基礎となった。
アンメリスが、古都セベニトス(Sebennytos)に近い現代のベーベイト・エル=ハガー(Behbeit el-Hagar)にあたるペルヘビト(PerHebyt)にあったオシリス3神(ホルス、イシス、ネフティス)の神殿に、「イシスの神官、ヘビトの愛妾、偉大な首領...イウプトの息子、アカノシュ」が広大な土地を献納する。
前668年(アスス暦50年)
ツミハヤヱコトシロヌシが神上がりする(亡くなる)。
アッシリア帝国において、アッシュールバニパルが王として即位。 アッシュールバニパル王は、アッシュールバニパル王は文書収集に熱中した王として知られており、メソポタミア北部のニネヴェのクユンジクの丘に、巨大な図書館を建設する。 彼はアッシリア全土に書記を派遣し神話・医学・宗教・言語などの学術書、果てには商業証書や一般人の手紙までを集めさせた。全国の蔵書家に文書の供出を命じ、複写させた(しかも原本の返却をしなかった)。
前667年(アスス暦51年)
カンナミカ(10月3日)、アミコ(タケヒト)出征する。
アキノクニ、キノミヤ(地御前)に年を越す。
アッシュールバニパル王がエジプト遠征にて、エジプト第25王朝メンフィスを、再び陥落させた。 これにより、エジプト第25王朝ネフェルテムクラー・タハルカが行方不明となる。
アッシュールバニパル王は、下エジプトを支配下に置いた。
ギリシアのメガラ人により植民市ビュザンティオン(現イスタンブール)が建設される。
周の恵王が、斉の桓公に伯の位を賜う。
前666年(アスス暦52年)
ヤヨイ(三月)、キビタカシマに至り、マツリ治めて三年在す。
マガダ国シシュナーガ朝の王カーカヴァルナ(カーラーショーカ)が死去。
前665年
デイオケスの息子フラオルテスが、リディアに軍を進めていたが、突然の日食のためハリュス川の前で足止めされた。 (このタイミングでメディア王朝デイオケスが死去した?)
フラオルテスがメディア王朝の王位を継承する。
即位後すぐにアッシリアに対して遠征を行い、これを服属させた。
都市国家スパルタにおいて、先代の王ポリュドロスのエウリュクラテスが、アーギス朝の王位を継いだ。
エウリュクラテスは第一次メッセニア戦争と第二次メッセニア戦争の間の時期にスパルタを支配した。
マガダ国シシュナーガ朝の王としてクセマダーマンが即位。
前664年
エジプト第25王朝での王不在のままというところから、エジプト第25王朝バカラー・タヌトアメンが王位を継承。 アッシリア帝国に対する逆襲を開始。これに伴い、アッシュールバニパル王が2度目の遠征を行い、上エジプトの首都テーベを陥没させた。 アッシュールバニパル王は、サイスの統治を任されていたネコ1世に、エジプトの管理を任せる。
前663年(アスス暦55年)
キサラギ(二月)、早波立つミツミサキ(大阪)に至る。
カウチクサカ、アウエモロのヤカタにミイクサ整う。チヌのヤマキでヰツセ薨る。ナグサのトベが拒むのをツミ(誅)する。 ウガチムラのウガヌシを召す。 クニミガオカにイクサ立て。
ネツキ(十一月)、ユミハリ、シギヒコを召す。 ナガスネをニギハヤヒが討つ。
都市サイスを統治していたネコ(アンメリス)1世が、エジプト第25王朝バカラー・タヌトアメンによって殺される。 この出来事から、ネコ(アンメリス)1世と妻イステマベトの間に生まれた、息子プサメティコス1世(プサムテク1世)が王を継承。 しかし、サイスを侵略された彼らは、アッシリアへと亡命する事になる。
前662年(アスス暦56年)
ツチクモを皆誅す。 タネコとモノヌシにクニミ(国見)をさしむ。 アメトミをしてカシハラに宮造り。
アッシュールバニパル王が、エラムの王テウマンと戦ってこれを破り、エラムを属国とした。
しかしエラムはなおも反アッシリア的であり続けた。
前661年(アスス暦57年)
タタラヰソススヒメを后にとウサツヒコが申す。 タタラヰソススヒメを后とす。
メノフソカ(10月20日)、オホミワを祭る。
神武天皇元年(前660年、アスス暦58年)
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『古事記』では、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)と記す。
「日本書紀」によると本名は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)とも佐野尊(さののみこと)ともいい、尊号を神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)という。天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男。 神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、その同母兄(いろせ)五瀬(いつせ)命と二柱、高千穂(たかちほ)宮に坐しまして議(はか)りて云(の)りたまひらく、「何地(いずこ)に坐(ま)さば、平らけく天の下(あめのした)の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東(ひんがし)に行かむ。」とのりたまひて、すなわち日向(ひむか)より発(た)たして筑紫に幸行(い)でましき。(『古事記』)。これは、『古事記』のいわゆる神武東征のはじめの部分である。45歳のとき九州の日向国を発って4年後河内国に入り大和国を拠点とするナガスネヒコと衝突、一時撤退し熊野などを経由したのち大和国に入りナガスネヒコを降して大和国を征服に橿原宮で即位したとされている。
先代旧事本紀巻6には「ウガヤフキアエズが生まれる。次に武位起命。大和国造祖。」とある。 「武位起命」とは、タケヒト(カンヤマトイハハレヒコ)を指す。 この年を紀元元年(ここで言う"紀元"とは「皇紀」の事)とした。 紀元前585年(神武天皇76年)3月11日)。127歳で没したとされる。 日本を支える連(むらじ)が正式にいつ立ったのかは、正確にはまだ定かではないが、この時すでに興っていた可能性もある。
候補として挙げられるのは継ぎの四連(むらじ)
「物部氏」・「曽我氏」・ 「中臣氏」政事を実際に執務執行する連。
「齋部氏」祀事を執務執行する連。
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柏原宮にて、初代スヘラギ(天皇:スメラギもしくはスメラミコト)カンヤマトイハハレヒコが即位(神武天皇)。 左大臣にアマノタネコが就任。
1月1日にウマシマチトクサタカラ(十種御宝)を奉る。 11月、アツキワスキ(大嘗祭)のカミマツリ。
神武天皇二年(前659年、アスス暦59年)
ハルヒソカ(春1月10日)、定功行賞をなす。
前???年
リュディアの王ギュゲスが、キンメリア人の侵入に対して援軍を要請。
アッシリア帝国は、これを助けてリュディアに兵を送った。
前656年
アッシリア帝国アッシュールバニパル王が、エジプト第25王朝バカラー・タヌトアメンを倒す。エジプト第25王朝が滅亡。 このヌビアの地の管理者に、亡命したプサメティコス1世に任せる。 プサメティコス1世がヌビアに赴任してすぐ、彼は他の下エジプトの支配者達と対立し、侮辱を受けた上に沼沢地帯へと追いやられた。 彼らへの報復を望んだプサメティコス1世は、その方法を求めてプトの町のレートーの宣託所に使者をやったところ、「青銅の男子らが海より出現する時、報復は遂げられん。」と言う神託が下った。 プサメティコス1世は「青銅の人間」が自分を助けに来ると言うこの予言を不信の念を持って受け止めたが、間もなくイオニア系ギリシア人とカリア人の一隊が、略奪目的の遠征中にエジプトに漂着するという事件が起きた。 彼らは上陸地点でやはり略奪を働いたが、青銅製の武具で武装していた。 このような武装を見たことがなかったエジプト人は、沼沢地帯のプサメティコス1世の下で、「青銅の人間が現れて平野を荒らしております。」と報告し、これを聞いたプサメティコス1世は神託が実現したことを悟り、ギリシア人とカリア人達に莫大な報酬を約束して自軍に引き入れた。 そして彼らの助けを得て、下エジプトの他の支配者達を撃破し、これを統一することに成功した。 このプサメティコス1世と下エジプトの支配者達との戦いは、アッシリアの宗主権下において行われたものであり、反アッシリア勢力の統制という面も持ち合わせていた。 リュディアの王ギュゲスが、プサメティコス1世と結託し、アッシリア帝国に敵対する姿勢を見せ始める。
プサメティコス1世がサイス朝を樹立する。これにより、エジプト第26王朝が起こる。
アッシリア帝国は、この時すでにエジプトの支配を喪失していく事になる。 ギリシア人とカリア人達はその後恩賞を受け取り、ナイル川のペルシウム支流の「陣屋」に居住させられた。 また、ナパタを中心としたヌビア人の王国は存続し、やがてその中心をより南方のメロエへと移し、メロエ王国へと続いていく。
カーシー国でジナとなったパーサが山中で没する。ただし、亡くなったとは記録されていない。アセンデッド・マスターとしての覚醒者となった可能性がある。
前655年
サイスを拠点とするエジプト第26王朝プサメティコス1世が、上エジプトのテーベに対しても自らの権威を承認させることに成功した。 第25王朝時代よりテーベの長官の地位にあったメンチュエムハトは、プサムテク1世の娘ニトクリスが、将来「アメンの聖妻」の地位に着くことを受け入れたことが端的にそれを示している。
前654年
エジプト第26王朝プサメティコス1世が、エジプト全土における支配を確立し、新王国の行政制度を手本とした内政改革に取り掛かった。 しかしその称号は古王国風のものが採用され、意識的に「過去の栄光」が追求された。 こうした支配者の傾向は美術品にも強く影響し、古王国や中王国風の様式を手本とした復古的な美術様式が形成された。 こうした動きは「サイス・ルネサンス」と呼ばれ、この時期に作成された彫像やレリーフの中には、時に現代の学者が古王国時代に作成されたものか第26王朝時代のものか、判別に困難を感ずるほどのものもある。
前653年
オリエントにおけるアッシリアの勢力が縮小に転じる。
これを機に、エジプト第26王朝プサメティコス1世は、アッシリア政権下から離脱した。
エジプト第26王朝は、さらにシリア方面への勢力拡大を図った。
前652年
かねてよりバビロニア王たる自分の従属的地位に不満を持っていた兄シャマシュ・シュム・ウキンが、父エサルハドンとの誓約に従う振りを見せていたものの、この機に反旗を翻した。 アッシリアに反感を持つエラムや海の国の首長ナブー・ベール・シュマティ等の支援を受けての動きだった。 しかし、アッシュールバニパル王も自薦にこれを察知しており、バビロン市へ向けての根回しをおこなう。この時の、バビロン市へ向けて彼が発した手紙の写しが現存している。
周の恵王が崩御。
恵王の子である太子姫鄭は、襄王は恵王崩御の喪を伏せた。そして、同時に斉に使者を送り、その支援を得て襄王(じょうおう)として即位。
前651年
アッシュールバニパルが、南部バビロニアの諸都市に内部工作をかけて、兄シャマシュ・シュム・ウキンから離反させる事に成功。
前650年
アッシュールバニパルが、バビロニアの大半の都市を制圧。
兄シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンに篭城。
前649年
周の前王である惠王と後妻(恵后)との間に生まれた叔帯(姫帯)が、戎・翟と謀って襄王を攻撃する。襄王は叔帯を誅殺しようとしたが、叔帯は斉に逃げた。斉の桓公は管仲に周と戎を和解させ、隰朋(しゅほう)に晋と戎を和解させた。
前648年
シャマシュ・シュム・ウキンが篭城していたバビロンがアッシュールバニパル軍によって陥落する。
シャマシュ・シュム・ウキンが炎上する宮殿の中で死亡。
アッシュールバニパルはバビロニアに傀儡王カンダラヌを立ててこれを支配する。 海の国の首長ナブー・ベール・シュマティはなおアッシリアに敵対し、大いにこれを苛立たせたが到底アッシリア軍を跳ね返すには到らず海の国から逃亡。
前647年
海の国の首長ナブー・ベール・シュマティがエラムに亡命し、エラムもアッシリア反乱に加わる。
第二次エラム遠征がおこる。
アッシュールバニパル率いるアッシリア軍は、大規模な勝利を収め、エラムの首都スサを占領し、徹底的に破壊した。(スサの戦い) エラムは国自体は存続するも、先進国としての力を失った。
ナブー・ベール・シュマティが、従者によって暗殺され、彼の死体は塩漬けにされてニネヴェに送られた。 これにより、アッシリア帝国の影響力は、インド/デカン高原までに広がった。
多くの王がアッシリアに貢納を行い、そういった王の中には未だ小国であったアンシャン(後にアケメネス朝ペルシア)王キュロス1世もいた。
前646年
マガダ国シシュナーガ朝の王クセマダーマンが死去。
前645年
中国/春秋時代の斉の政治家/管仲が死去。
同じくして、斉の政治家/鮑叔もまた同時代に死去。
都市国家スパルタにおいて、先代の王ゼウクシデモスの子アナクシダモスが、エウリュポン朝の王位を継いだ。
アナクシダモスはアギス朝の王アナクサンドロスと同時代の王であり、アナクサンドロスと共に第二次メッセニア戦争を戦った。
マガダ国シシュナーガ朝の王としてクシャトラウジャスが即位。
前643年
中国春秋時代の斉の君主。
春秋五覇の一人/桓公が死去。
前641年
ヨシヤが、ユダ王国の王として即位。(-前609年)
前640年
叙情詩人/シケリアのステシコロスが生まれる。(-前555年)
ユダ王国の王としてヨシヤが即位。当時8歳であった。
都市国家スパルタにおいて、先代の王エウリュクラテスの子であるアナクサンドロスが、アーギス朝の王位を継いだ。
周において、襄王と対立した叔帯が周に復帰。
前639年
古代アテナイの政治家/ソロンが生まれる。(-前559年)
ソロンは、ギリシャ七賢人の一人。
鄭が滑を征伐。これにおいて、周の襄王は游孫伯・伯犕を遣わして、滑の地を献上するよう請うたが、鄭は二人を捕えてしまう。襄王は怒って、鄭を征伐しようと考える。
前638年
宋の襄公と楚の成王が泓水(現:河南省柘城)にて激突し、楚が大勝する(泓水の戦い)。
前637年
中国春秋時代の宋の君主。春秋五覇の一人/襄公が死去。周の襄王が鄭に進軍する。文官の富辰が諫めたが、襄王は聞かなかっか。結果として襄王は翟軍を率いて鄭を征伐した。 周の襄王が、翟人の娘(翟后)を娶る。
前636年
重耳、亡命19年の後即位し、晋の文公となる。(3番目の覇者)
周の襄王が翟后を退けた。(原因は不明)
翟后は怒り、恵后の子の叔帯を立てようと考えた。恵后と翟后・叔帯は内応し、戎・翟を迎え入れて襄王を放逐し、叔帯を天子に即位させた。 襄王は鄭に出奔し、汜に住まわせた。
前635年
哲学者/ミレトスのタレスが生まれる。(-前555年)
汜において、周の襄王が晋に救援を求めた。晋の文公がこれに応じて、戎・翟を放逐して叔帯を誅殺する。襄王は周王朝にて復位。襄王は晋の文公に伯の位と河内の地を与えた。
前634年
エジプト第26王朝プサメティコス1世が、アシュドドを陥落させる。
スキタイ人(ウクライナを中心に活動をしていたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家)がシリア地方に侵入。
争いを回避するため、プサメティコス1世は懐柔による交渉を行った。
前633年
フラオルテスはアッシリアに対して戦争を起こしたが、敗北してアッシュールバニパルに殺害された。
フラオルテスの死後、アッシリアと同盟していたスキタイ人がメディア王国を属国とした。
アッシリア帝国が、アッシュールバニパル王の治世末期頃から急速に弱体化。
イラン高原を中心としたメディア王国が叙々に増勢した。
前632年
文公が率いる晋と楚が城濮(現:山東省西部の濮県の南)にて激突し、晋が大勝する(城濮の戦い)。
ユダ王国ヨシヤ王が、ユダヤ教徒にとっての神ヤーウェを求め始める。
前628年
中国春秋時代の晋の君主。春秋五覇の一人/文公が死去。
ユダ王国ヨシヤ王が、規範的ヤハウェ信仰以外の宗教信者の崇拝崇敬する像を偶像と侮蔑して取り除き始めた。 長じてユダヤ教の改革を通した国家の再建を志し、規範的ヤハウェ信仰以外の宗教の信者を弾圧した。 その神々の像を偶像と侮蔑して破壊するなど、ヤハウェ信仰国家としてのユダ王国の路線を再確立し、申命記改革と呼ばれる大規模な改革を行った。 このことから旧約聖書の中では優れた王として描かれる。祭司ヒルキヤが改革を助けた。 ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシヤは、規範的ヤハウェ信仰への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。 これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。 多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、バビロニアやエジプト、ギリシャの神々を押し付けられた。 またユダ王国やイスラエル王国もモアブなどの属国にヤハウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。 ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴いユダ王国の独立を回復したが、アッシリアやエジプト、フェニキア人諸国家、バビロニアなどと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。 しかし、ユダ王国への侵略者である強大国とその宗教への世俗的宗教的対抗意識から来た面はあるものの、他宗教の神像、聖像を偶像と侮蔑して破壊するなどの行為は、ユダ王国内部の、非ユダヤ教系マイノリティーへの弾圧・迫害(人権侵害)であった。
前627年
アッシリア帝国アッシュールバニパル王が死去。
死後王位継承を巡ってアッシリアの政局は混乱に陥った。
アッシュール・エティル・イラニが王位についたが、短期間に王位が交代、まもなくアッシリア自体も滅亡する事になる。なお記録の減少についてはアッシュールバニパルが首都を遷したためであるとする説もある。
前625年
バビロニア総督ナボポラッサルが、アッシリア帝国に反旗を翻して独自の王国を築いた。
新バビロニア王朝(カルデア王朝)が成立。内乱続きのアッシリアと12年にわたって争った。
新バビロニアの支配階級はセム系のカルデア人だったが、被支配民は古い伝統をもつバビロニア人であった。 ギリシャで貨幣の鋳造が行われる。貨幣経済の始まりである。
一方、スキタイ人がメディア王国に君臨している最中において、フラオルテスの息子キュアクサレスが王位を継承した。 キュアクサレスはスキタイ支配下でメディアの支配を安定させ、また根本的な軍制改革を行い、歩兵隊、弓兵隊を分け、スキタイの機動的な騎馬戦術を採用した。 さらにこの時代のメディアの遺物が示すように、スキタイの美術要素も取り入れたと思われる。 キュアクサレスはオルーミーイェ湖地方まで支配を拡大し、スキタイ人の警戒心を呼び起こした。 決戦でキュアクサレスはスキタイ軍を撃破し、メディア王朝の全権を取り戻した。 さらにスキタイの勢力をマンナエ地方まで後退させた。
都市国家スパルタにおいて、エウリュポン朝の王アナクシダモスが亡くなる。これより紀元前600年までの25年間、エウリュポン朝の王が不在となり、アーギス朝がこれを支える。
前624年
哲学者、/タレスが生まれる。(-前546年)
タレスは、日食を予言した哲学者で有名。
ゴータマ=シッダールタ(仏陀釈尊)が生まれる。
シャーキャ国(釈迦国:現在のネパール国)カピラヴァストゥを首都として国家を形成していた、釈迦族の王シュッドーダナとマーヤ妃の間に、にゴータマ=シッダールタが生まれる(前486年、前480年、前380年と諸説あり)。 釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。 母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中に、ルンビニで子を産んだ。
この子の誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と、「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説がある。 マーヤーはこの子を出産した7日後に産褥熱で死んだ。この子はシッダールタと名付けられた。 シャーキャの都カピラヴァストゥにて、シッダールタはマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた。 シッダールタはシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。
前621年
中国春秋時代の秦の君主。春秋五覇の一人/穆公が死去。
中国春秋時代の晋の君主。文公の子/襄公が死去。
前620年
寓話作家/アイソポスが生まれる。(-前560年)
周の襄王が崩御する。襄王の子である姫壬臣が王位を継承する。
前618年
襄王の子である姫壬臣は、父王の葬儀を執り行いたいところだが、周王室の財政は貧窮を極めており、父王の葬儀が行えないほどであった。姫壬臣は一族の毛伯衛を藩屏である魯に派遣して財政援助を請い、魯の文公の支援により襄王の葬儀を行うことができた。
姫壬臣が頃王(けいおう)として即位。
前616年
エジプト第26王朝プサメティコス1世が、窮地に立たされたアッシリア帝国を救うべく、シリアへ出兵して新バビロニア軍と干戈を交えた。 しかし大勢は変わらず、間もなくメディアと新バビロニアの連合軍によってアッシリアの首都ニネヴェが陥落。 アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世がハランへと逃れた。
前615年
バビロニア軍が、アッシリア軍を破り、ティグリス川をさかのぼってアッシリアの諸都市を略奪しながら進撃した。
都市国家スパルタにおいて、先代の王アナクサンドロスの子であるエウリュクラティデスが、アーギス朝の王位を継いだ。
前614年
アッシリア帝国軍が、軍を立て直してバビロニア軍を撃退。 これを破って首都ニネヴェを始めとした中心地帯を制圧する勢いを見せた。 しかし、この動きに反してアッシリア王国の衰退は更に進む。 キュアクサレスは父の遺志を継ぎ、アッシリア討伐に乗り出した。 プラオルテスとは異なり、キュアクサレスは直接アッシリアの都ニネヴェに向かわず、7月12日にディヤーラー川沿いのアッシリアの地方拠点都市タルビシュを攻略し、そこから大攻勢に出るつもりであった。 折よく新バビロニアを建国したナボポラッサルが南方でアッシリアに対する攻勢に出ており、アッシリアの覇権は揺らいでいた。
前613年
バビロニア軍とアッシリア帝国軍が、国境の砦を巡って戦う。アッシリア帝国軍が敗北し退却した。
メディア王朝キュアクサレスはニネヴェを攻略しようとしたが果たせず、アッシリアにはスキタイの援軍が到着した。 メディア軍はニネヴェをあきらめて紀元前9世紀までアッシリアの首都だったアッシュールに矛先を転じてこれを攻略・掠奪した。 ついでキュアクサレスはナボポラッサルとの会見に臨んだ。
バビロニアはメディア、ペルシア、キンメリア、スキタイと同盟を結んだ。 キュアクサレスの娘アミュティスと、ナボポラッサルの皇太子ネブカドネザル2世の結婚式が行われた。 その後、キュアクサレスは、スキタイ人に立ち向かい、これを破った。
周の頃王が崩御。
前612年
アッシリア王は、専制君主として、軍事・政治・宗教を統括し、帝国を州に分け総督を派遣して統治させたが、 強力な軍事力による圧政と重税、被征服民の強制移住、情け容赦のない大殺戮、大略奪を行ったので、被征服民族の反乱に絶えず悩まされた。 アッシュール=バニパルの時代には兄との内紛もあって帝国は衰退化。
5月30日、ニネヴェの戦いが起こる。 メディア軍とバビロニア軍は再度合流する。 新バビロニア連合軍が、アッシュールの神殿を破壊して街を略奪した。 その後バビロニアは再び兵を集め、ニネヴェを包囲するメディア王キュアクサレスの陣に加わった。 3カ月に及んだ攻城戦の末に、
7月28日においてニネヴェが陥落した。 アッシリア王シン・シャル・イシュクンは戦死。 8月において、城壁を突破した連合軍は街を略奪して焼き払った。 こうして、アッシリア帝国の首都ニネヴェが破壊される。 (ナボポラッサルによれば「二ネヴェは完全に破壊され短時間のうちに廃墟になった」という。)
9月7日、メディア軍は凱旋した。 包囲から逃れた弟のアッシュール・ウバリト2世がハッラーン(別名カルラエ、トルコ南部のシャンルウルファ)で即位した。
周の頃王の子である姫班が、王位を継承し、匡王(きょうおう)として即位。
前611年
楚、秦、巴の攻撃で庸が滅亡。
ニネヴェ陥落後も新バビロニア軍によるアッシリアへの軍事行動は続いた。
アッシリア帝国アッシュール・ウバリト2世は、新バビロニア軍に対して、数年間抵抗を続けたが、その最期は定かでない。
前???年
ナボポラッサル王が、エ・テメン・アン・キ(天と地の基礎となる建物)の再建に着手する。
メソポタミア文明の中でも最古の文化を築いたと言われるシュメール人が建設を開始し、何からの要因で工事が中断していた建物。 ナボポラッサル王の代においては、完成する事はなかった。
前610年
哲学者/アナクシマンドロスが生まれる。(-前546年)
エジプト第26王朝ウアフイブラー・プサムテク1世(プサメティコス1世)が死去。 エジプト第26王朝ウアフエムイブラー・ネカウ2世(ネコ2世)が王位を継承。 ネカウ2世が、なおも崩壊していたアッシリア王国の残存勢力を支援し、新興国バビロニアを撃破するため、メソポタミアに遠征した。
前609年
エジプト第26王朝ネカウ2世が、メソポタミアへ向かうその途中では、必然的にパレスチナに位置するユダ王国の領土を通過する必要があった。 実際に領土内に侵入した後、ユダ王であるヨシアに、エジプト軍のユダ領土内での無事な通行を保障するよう要請した。 ユダヤ教聖典の記述を信用するのであれば、ネコはこの時使者を送って、少なくとも外形に表れた文言としては、エジプトは(少なくともこの時点では)ユダ王国を攻める為に軍を起こしたのではなく、ユダ王国に敵意はないので中立を保ってほしいと説明した。 しかし、ヨシアは一方的に領土内に侵入したエジプトの行為自体を侵略として問題視した。 ネコの要請を無視してメギドで戦いを挑み、圧倒的な兵力差の前に完敗し、戦死した(メギドの戦い)。 ヨシヤ王の遺体はエルサレムに運ばれ、ユダヤ王のしきたりに則ってダヴィデ王の墓の隣に埋葬された。 メギドでのヨシアの死後、ヨシアの子ヨアハズが即位したが、ネコ2世によって廃位されている。 ヨシアの敗北により、ユダ王国の完全独立は再び失われ、エジプトの従属国となった。
エジプト第26王朝ネカウ2世が、パレスチナを通過してハランのアッシュール・ウバリト2世と合流。 ナボポラッサル王が率いる新バビロニア連合軍と衝突するが、戦いに敗北して退却を余儀なくされ、アッシリア帝国が完全に滅亡する。 4帝国時代を迎える(70年間)。
イラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、小アジアのリディア、エジプト第26王朝。
前608年
エジプト・アッシリア同盟軍はユーフラテス川を渡ってハッラーンを包囲したが、ハッラーンは陥落し、奪還は果たせなかった。 アッシリアの救出に失敗したネコ2世はシリア地方で覇権を確立するべく策動したが、アッシリアを破った新バビロニア王ナボポラッサルは息子のネブカドネザル2世に命じてシリアのエジプト軍を攻撃した。 エジプトと新バビロニアのシリアにおける戦いは数年間続いた。
シャーキャ国(シャーキャ族)のゴータマ=シッダールタが母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子ラーフラをもうけた。
前607年
中国春秋時代の晋の君主。襄公の子/霊公が死去。
バビロン捕囚が起こる。 ユダヤ戦争などで捕虜になった古代ユダヤ人が、ペルシャによって解放された後に一部がインドに移住して「ユダヤ教」を広めた可能性。
前606年
マガダ国シシュナーガ朝の王クシャトラウジャスが死去。
楚の荘王が大軍を率いて陸渾の戎を討ち、洛水に達した。定王が王孫満を派遣してねぎらわせると、荘王は周の九鼎の軽重を訊ねた。王孫満は天命がまだ革まっていないとして、回答を拒否したので、荘王はあきらめて楚軍を撤兵させた。
前605年
カルケミシュの戦いが起こる。
カルケミシュ(現在のトルコ・シリア国境)で起こった、エジプト王国・アッシリア帝国亡命政権の同盟軍と、新バビロニア王国、メディア王国、スキタイの連合軍の間の戦い。 新バビロニア軍を率いていたのはナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世だった。 カルケミシュで激突した両軍だったが、エジプト・アッシリア軍は新バビロニア軍に撃破された。 ネブカドネザルは川を渡り、カルケミシュに布陣したエジプト軍に向かっていった。 彼らは互いに戦い、エジプト軍は逃げて行った。王は敵を打ち負かし、完膚なきまでに叩きのめした。 バビロニア軍の剣先が届かないほど素早く戦場から逃げ去ったエジプト軍も、ハマトでバビロニア軍に敗れ、故郷に逃げ延びた者は一人もいなかった。 これを以て、ネブカドネザル王はハマトの地を征服した。 カルケミシュの戦いについての記述は旧約聖書の第2巻やエレミヤ書にも残されている。 アッシリア帝国はこの敗戦で独立国家としては姿を消し、撤退したエジプト王国は古代オリエント世界で大国として再び浮上することはなかった。 エジプト軍は決定的な敗北を蒙り、ネコ2世のシリア政策は完全に頓挫した。 ネブカドネザル2世が余勢を駆ってエジプトにまで進軍してきた時にはこれを撃退することに成功したものの、以後シリア地方での軍事活動を行うことはできなかった。 新バビロニア王朝にて、ナボポラッサル王が急死。 ネブカドネザル2世が急遽バビロンに帰還する。
マガダ国シシュナーガ朝の王としてヴィンビサーラ(ビンビサーラ)が即位。ヴィンビサーラ王は、国内改革に邁進し、首都ラージャグリハ(王舎城)の造営を続けるとともに増大した国力を持って東隣のアンガ国を征服し、「八万の村落を支配した」。 また、コーサラ国の王族の女性を正妃として迎えた際に持参金としてその支配下にあったカーシー国の一部分を征服するなどして、東インドに強力な勢力を形成した。
前604年
新バビロニア王朝にて、ネブカドネザル2世即位。 侵入してきたエジプト軍を大破してシリアを奪い、ユダ王国を滅ぼして「バビロン捕囚」を行い、フェニキア人の都市ティルスを滅ぼし、また首都バビロンに壮大な宮殿を建造し、経済的にも繁栄し、その繁栄は「バビロンの栄華」と呼ばれ、空中庭園やバベルの塔が造られ、新バビロニアはオリエント第一の強国となった。 アッシリア滅亡後のオリエント世界で勢威を振るったのはエジプト、新バビロニア、メディア、そしてアナトリア半島のリュディアという四つの大国であった。 エジプトにとって他の三ヵ国のうち最も憂慮すべき相手は国境を隣接する新バビロニアであり、ネコ2世が敗北した後もシリアを巡る戦いが繰り返されることになる。
前601年
エジプト第26王朝ネカウ2世が、シリア地方とパレスチナへの介入を再開する。 これにより、ユダ王国が反乱し、シリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがる。 新バビロニア王朝ネブカドネザル2世が、エジプト第26王朝ネカウ2世と衝突するが、ネブカドネザル2世はエジプトに大敗する。