紀元前900年〜800年代

前900年頃
周王朝において、共王の子である姫囏が即位し、懿王(いおう)となる。懿王の代は、王室の衰微が顕著になり、中国の北方の民からしばし攻撃を受けていた。中国の民は、この北方の民を「玁狁(けんいん)」と呼んだ。 鎬京を都とした。
周の姫辟方(後の孝王)に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので斎(の古語)の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったという。しかし実際にあったことなのかは不明。伝説上では斎(の古語)姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。 上記の西戎そのものであれば南蛮の楚が帝の子孫の姓、犀(の古語)を名乗っており、呉は周王と同じ姫姓、越は夏王と同じ姓を名乗っている事から考えると斎姓では創作した伝説としては重みに欠ける。現時点では、伝説を証明も否定もできない。
都市国家スパルタにおいて、アーギス1世の子エケストラトスが王位を継ぎ、アーギス朝の王となる。 ケストラトスは次代王レオボテスの父である。彼の治世にスパルタは「キュヌリアからの盗賊がスパルタ人と同族のアルゴス人の住むアルゴリス地方に被害を与え、キュヌリアさえもアルゴリス地方に侵入している」という口実の下でアルゴスとの境界に位置するキュヌリアを征服し、壮年男子を追い出した。
前900年
メキシコ湾岸、オルメカ文明の中心がサン・ロレンソの破壊により、ラ・ベンタに移る。
前900年
ペルー北部のアンデス高地に、チャビン文化が栄える。ペルー中部ワリにある、チャビン・デ・ワンタル遺跡は、宗教や政治の中心地となった。紀元前200年頃まで続く。
前892年
周王朝において懿王が死去したため、穆王の子である姫辟方が即位し、孝王(こうおう)となる。引き続き鎬京を都とした。
前891年
トゥクルティ・ニヌルタ2世が、アッシリア王として即位。( - 883年)
前890年
都市国家スパルタにおいて、先王ソオスの子エウリュポンが、エウリュポン朝の王位を継ぐ。
エウリュポンは王権の独裁的な点を緩めたため人々から高い評価を得たが、プルタルコスはこのために民衆が大胆になり、リュクルゴスの改革まで不法と無秩序がスパルタを覆ったと指摘した。
現に、エウリュポンは喧嘩を止めようとした時に刺されて死ぬ事となる。
この事業により、これまでは彼の祖父で王朝の開祖であったプロクレスにちなんでプロクレダイ(プロクレス家)と呼ばれていた彼の家は、この時からエウリュポンティダイ(エウリュポン家)と呼ばれるようになった。
エジプト第22王朝ヘカケペルラー=セテプエンラー・シェションク2世が共同王となる。 エジプト第22王朝ヘカケペルラー=セテプエンラー・シェションク2世が死去。
前889年
エジプト第22王朝セケムケペルラー=セテプエンラー・オソルコン1世(オソルトン)が死去。 エジプト第22王朝において、ウセルマートラー=セテプエンラー・タケロト1世が王位を継承する。
前886年
周王朝において、懿王の子である姫燮が即位し、夷王(いおう)となる。引き続き、鎬京を都とした。
前883年
アッシュールナツィルパル2世が、アッシリア王として即位。( - 859年)
前874年
エジプト第22王朝ウセルマートラー=セテプエンラー・タケロト1世が死去。 エジプト第22王朝において、ウセルマートラー=セテプエンアメン・オソルコン2世が王位を継承する。
前870年
エジプト第22王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・オソルコン2世の治世が4年目。 またテーベに漂う独立の機運が強まり、ハルシエセが王を名乗り、共同王ヘジケペルラー=セテプエンアメン・ハルシエセとなった。 この時点においては、両者の王の関係が複雑になっていくが、対立は起こらなかった。
都市国家スパルタにおいて、先代の王エケストラトスの子レオボテスがアーギス朝の王位を継ぐ。
パウサニアスによれば、彼の治世にスパルタは、ペロポネソス地方東北部にあるアルゴス(女神アテナの加護により、代々女王が王位を継ぐ都市国家)が本来ならスパルタ領のキュヌリアを自領とし、さらにペリオイコイをスパルタから離反させようとしているとして戦争を仕掛けたが、引き分けに終わった。ヘロドトスは、レオボテスは後見人であった伝説的立法者リュクルゴスの甥であると述べており、リュクルゴスは甥の後見人になるとすぐに法律をことごとく改革し、厳重に違反者を取り締まった。
前???年
周王朝において、夷王の子である姫胡が即位し、厲王(れいおう)となる。引き続き、鎬京を都とした。
厲王の在位期間は佞臣・栄夷公を重用し、賢臣であった周公、召公等の諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落した。
前860年
エジプト第22王朝において、共同王ヘジケペルラー=セテプエンアメン・ハルシエセが死去。 ハルシエセが死亡すると、オソルコン2世はすかさずアメン大司祭職に自分の息子ニムロトを就けてテーベに対する統制を回復した。 しかしこの後も南方のアメン大司祭職を巡る問題は第22王朝の政治的統一に影を落とし続ける。
都市国家スパルタにおいて、先代の王エウリュポンの子プリュタニスがエウリュポン朝の王位を継ぐ。
プルタルコスによれば、「詩人のシモニデスは、プリュタニスはエウノモスと立法者リュクルゴスの父である」としているようであると述べているが、その一方でヘロドトスは「プリュタニスはエウリュポンの子でポリュデクテスの父である」としており、またパウサニアスは「プリュタニスはエウリュポンの子で、エウノモスの父である」としている。このようにプリュタニスの親子関係は錯綜している。
プリュタニスの治世の下で、スパルタはキュヌリアと戦い、またアルゴスとの関係が悪化した。
前858年
シャルマネセル3世が、アッシリア王として即位。( - 824年)
前850年
エジプト第22王朝ウセルマートラー=セテプエンアメン・オソルコン2世が死去。 エジプト第22王朝において、ヘジケペルラー=セテプエンラー・タケロト2世が王位を継承する。
前842年
周王朝の朝政の腐敗に民衆の不満が募り、民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生。
事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、周公と召公が代わって朝政を見る共和制が施行された。
『史記』の年表はこの年より始まる。
『竹書紀年』によれば、諸侯に推戴された共伯の和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされ、それに由来して共和制とされている。
前840年
都市国家スパルタにおいて、先王レオボテスの子ドリュッソスがアーギス朝の王位を継いだ。後にドリュッソスはスパルタとアルゴスとの戦いの最中に戦死した。
前830年頃
ギリシャでスパルタ教育法が制定される。
都市国家スパルタにおいて、ポリュデクテスがエウリュポン朝の王位を継ぐ。
多くの記述によれば、ポリュデクテスはエウノモスの子で、立法者リュクルゴスの兄弟であり、カリラオスの父である。
しかしヘロドトスとパウサニアスは他の歴史家たちとは違い、彼をエウノモスの父であるとしている。
ポリュデクテスの治世下のスパルタは平和であり、次代の王にはエウノモスが就いた。
前828年
厲王が薨去。周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。
また、宣王の世に厲王の末子である姫友は鄭に封じられ、鄭の桓公となる。
前825年
エジプト第22王朝ヘジケペルラー=セテプエンラー・タケロト2世が死去。 後継者に指名されていたのは長男のアメン大司祭オソルコンであったが、弟のシェションク3世の陰謀によってその地位を追われ上エジプトに逃亡。 エジプト第22王朝において、ウセルマートラー=セテプエンラー・シェションク3世が王位を継承する。
前823年
シャムシ・アダド5世が、アッシリア王として即位。( - 811年)
前820年
都市国家スパルタにおいて、先代の王ドリュッソスの子アゲシラオスがアーギス朝の王位を継いだ。 パウサニアスによれば、アゲシラオス1世の治世は短かったが、リュクルゴスの立法と同時代であったと述べている。
前818年
シェションク3世の王子ペディバステトが下エジプトのレオントポリスで王位を主張し、第22王朝とは別の王家を開いた。 これにより、エジプト第23王朝となる。 ペディバステトは、ウセルマートラー=セテプエンアメン・ペディバステト王と名乗った。
前814年頃
フェニキア人によってカルタゴが建設される。 詩人/ホメロスが生まれたとされている。『イーリアス』および『オデュッセイア』の伝統的作者。
前807年
中国西周時代の晋の君主/文侯が生まれる。(-前746年)
前806年
姫友が鄭を建国。初代君主の桓公となる。