紀元前1400年〜1200年代

前1400年頃?
中国殷王朝の遷都。
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殷王朝以前は、夏(カ)と言われている。夏(カ)はヒト以外の皇帝が世を統治していた。
●盤古 /// 天地創造神とされる。
●伏羲 /// 姓は風。包犠。人頭蛇身の神。東夷の首長となった。
●女?(ジョカ) /// 人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。
●神農 /// 炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。 太陽神・農業神・医学(漢方)神であり、また降雨をつかさどった。 元祖黄帝が、それまでの神(半獣半人の姿をしている)を打ち倒し、人間の皇帝として立ち上がった。 実質的に、皇帝の規律が始まったのは、ここからである。
●黄帝 /// 中華(夏)において、初めての皇帝。 姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に成長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤をイg鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐のツ?ェ山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを発明したとされる。
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モイトゥラの戦いが起こる。 トゥアハ・デ・ダナーン(ダーナ神族)がアイルランドへの移民(フィル・ボルグ)をハーリングの試合で破り、さらに戦闘でも破ったとする記述が見られる。
アカイア人の侵入によりミノア文明が滅ぶ。
ミタンニのキックリ、最古の馬匹学の書(ヒッタイト帝国首都ハットゥシャ(現ボアズカレ)で出土)を著す。
エジプトでガラス窯業が起こる。
前1390年
カッシート王クリガルズ1世が「ドゥル・クリガルズのジッグラト」を建設。
前???年
メンケペルウラー・トトメス4世が、ヒッタイトの危機に対抗するため、ミタンニをはじめとする諸国との間に同盟を締結。シリア方面の情勢を安定させる成果を挙げる。
前1386年
エジプト第18王朝を統治していた、メンケペルウラー・トトメス4世が死去。
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が継承して、エジプト第18王朝を統治。
アメン神を崇敬すること篤く、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設している。 このほか、同地に広大な自身の葬祭殿も建設している。 葬祭殿は後に後代の王たちによって破壊されたが、メムノンの巨像と呼ばれる彼の坐像は破壊されずに残り、現在でも形をとどめている。
前1384年
殷の般庚が安陽に遷都する。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世と女性神官ティイが結婚する。
ティイは第一王妃となる。
前1380年
シリアの山岳地域にアブディ・アシルタを王とするアムル王国が建国される。
前???年
神官アイと妻テイの間に、ネフェルティティが生まれる。
古代エジプト三大美女の一人と言われる。
前1373年
3月27日、甲骨文から殷の盤庚の治世中の支配地域において、月食があった事が確認されている。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世がネフェルティティに妻の位を与えた。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、ミタンニ王トゥシュラッタの娘タドゥキパを妻とする。
前1362年
アメンヘテプ3世と第一王妃ティイの間に、アメンヘテプ4世が生まれる。
前1360年頃
ヒッタイト王国がミタンニ王国を滅ぼす。
この頃、アッシリア帝国が独立する。アッシリアは、メソポタミアのバビロニアより上流の地方で、バビロニアとは異なった民族で、セム人系の民族である。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、滅亡したミタンニ王国/最後の王シュッタルナ2世の娘ギルヒパに、妻の位を与えた。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、実の娘スィトアムンに妻の位を与えた。
前???年
ネブマートラー・アメンヘテプ3世が、実の娘イシトに妻の位を与えた。
前???年
アメンヘテプ4世が、父の妻であったネフェルティティを王妃として迎えた。
アメンヘテプ4世妻であったネフェルティティの間に、長女メリトアテンが生まれた(?)。
前1350年
アメンヘテプ4世(アクエンアテン)が、共同王となる。
前???年
アメンヘテプ4世妻であったネフェルティティの間に、次女メケトアテンが生まれた(?)。
前1349年
エジプト第18王朝を統治していた、ネブマートラー・アメンヘテプ3世が死去。
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)が継承して、エジプト第18王朝を統治。
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、父の妻であったネフェルティティを共同王ネフェルネフェルアテンとして、共同統治を行なった。 ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、父の妻であったタドゥキパも、キヤ王妃として迎えた。 ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、長女メリトアテンに妻の位を与え、共同統治者とした。 ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世とネフェルティティの間に、三女アンケセンパーテンが生まれる。
エジプトのテーベの神官であるネブアメンの墓が作られる(墓の壁画は大英博物館その他が所蔵)。 トルコ南部のウルブルン岬で交易船が沈没する。この沈没船の船体は1982年に発見され、現時点では世界最古の沈没船とされている。 ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がミタンニの都ワシュカンニを攻撃。
ミタンニは敗走し、その途中でトゥシュラッタ王は息子の一人に殺される。この混乱でヒッタイトはアルタタマ2世を、アッシリアはシュッタルナ3世をミタンニの新王に擁立し対立。
ヒッタイトがアッシリアに勝利しミタンニの新王シャッティワザを擁立し条約を締結。この条約にはインド・アーリア系のヴェーダの神ミトラ・ヴァルナ・インドラの神名が記録されている。
前???年
スメンクカーラーが、共同王となる。 アクエンアテン王の弟であるのか、息子であるのか、記録が削除されているため、系譜では確定できず。 名の由来は「「生あるものはラー神の出現」というもの。 メンフィスを本拠地にアメン神官団とアクエンアテンとの意見の調整を行っていたと考えられている。 スメンクカーラーがアメンヘテプ4世の長女メリトアテンを妻に迎える。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、エニシャーシ国(現レバノン)の統治者であるサティヤの娘を妻とした。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、次女メケトアテンに妻の位を与え、共同統治者とした。
前1345年
この頃、アメン(アモン、テーベの町の守護神)を祭る神官勢力は、王を抑えるほどの強い勢力になっており、アメンホテプ4世はこれを嫌っていた。 そこで、一般的な推論として、宗教的権力を王権と一本化することを狙い、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ(イクナトン)宗教改革が行われる。 アメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アテンの一神崇拝を導入。 太陽神アテンは、太陽そのままの姿の神であり、太陽円盤と言われている。 アテン神に捧げる新都アケトアテン(現アマルナ)を建設。王朝発祥の地テーベを放棄し、アケトアテンに遷都した。 従来の多くの神々の崇拝を禁じて、神々の像を破壊し、唯一神アテンへの信仰に切り替えた。 この事からも、世界最初の一神教といわれる。 ただし、著名な宗教学者のエリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を評し、「実際には二神教であった」としている。 というのも彼の宗教ではアテンのみならず、伝統的なエジプト宗教と同じく王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされたからである。 アメンホテプ4世自身がアテンを称える詩を執筆している等、単なる政治的理由だけでは説明のつかない事も多い。 アメンホテプ4世は、イクナトンと改名し、民衆に対しても、現人神として崇拝させた。
アメンホテプ4世の像は、妻ネフェルティティの姿も含め、高貴な姿として、 後頭部が長く指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然であるなどマルファン症候群の特徴的な症状を持つような姿で造られている。
ヨーロッパで、ウルネンフェルト文化が起こる。
前1344年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、三女アンケセンパーテンに妻の位を与え、共同統治者とした。
前1342年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と実妹(若い方の貴婦人)との間に、トゥトアンクアテン(ツタンカーメン王)が生まれる。 生まれつき爪先が変形しており、左足の人差し指の一部がなく左足の骨の一部も壊死していて、足が不自由だった。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、カッシート朝バビロン王ブルナ・ブリアシュ2世の娘を妻とした。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、四女ネフェルネフェルアテン・タシェリトが生まれる。後のファラオ・ネフェルネフェルアテン。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が、同父同母の姉妹(実の妹)を妻にした。
(名前は判別できず、「若い方の貴婦人」と仮名が付けられている)
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、五女ネフェルネフェルレが生まれる。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と妻ネフェルティティの間に、六女セテペンレが生まれる。
前???年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世と三女アンケセンパーテンの間に、子供が生まれる。
前???年
神官イウヤの息子アイがアメン大神官となる。
前1336年
エジプト第18王朝を統治していた、ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が退位する。
共同王アンクケペルウラー・スメンクカーラーが即位。
前1335年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世の四女ネフェルネフェルアテン・タシェリトが、共同王ネフェルネフェルアテンとして、エジプト第18王朝を統治。
前1334年
共同王アンクケペルウラー・スメンクカーラーが死去。
ネブケペルウラー・トゥトアンクアテン(ツタンカーメン)王が共同王として即位。
トゥトアンクアテンは、歩くのに杖をついていた虚弱な王であったとされている。
トゥトアンクアメン王が、アンケセンパーテンを妻として迎える。
前1333年
ネフェルケペルウラー・アメンヘテプ4世が死去。 ネフェルネフェルアテン(メリトアテン)が退位したか死去。トゥトアンクアテンが王位を奪う。 アテン神の信仰から、アメン神の信仰に戻る。 ネブケペルウラー・トゥトアンクアテン(ツタンカーメン)王が継承して、エジプト第18王朝を統治。 伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。 首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻した。 アンケセンパーテンも、アテン神からアメン神の信仰に変え、名前をアンケセナーメンと改名した。 王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。
前???年
ヌビアで反乱が起こるが、ネブケペルウラー・トゥトアンクアメンがこれを鎮圧。
前1330年頃
ミタンニの支配下にあったアッシリア王アッシュール・ウバリト1世が独立(中アッシリア時代)。
前???年
エジプト第18王朝、ヒッタイトとの戦いに勝利する
前1327年
アメン神官であった、アメンホテプ3世の息子アイが共同王となる。
前1325年
アイ王がトゥトアンクアメンを暗殺(?)。(未確定)
エジプト第18王朝を統治していた、ネブケペルウラー・トゥトアンクアメンが死去。 死因は、腐骨や内反足、マラリア(熱帯熱型)が重なっていた状態で、大腿骨の骨折があった。この骨折から数日で死亡した可能性が高いと言われている。 トゥトアンクアメンは王家の谷に葬られた。 ツタンカーメンは王家の谷の陵墓に埋葬される。その陵墓は1922年のハワード・カーター発掘までほとんど盗掘をされていなかった。 2009年のエジプトチームの再調査では、骨のDNAサンプルからケーラー病を患っていたことが判明 ケペルケペルウラー・アイが継承して、エジプト第18王朝を統治。 ケペルケペルウラー・アイは、アンケセナーメンを妻に迎えようとする。 アンケセナーメンはアイとの結婚を嫌い、ヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世にその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。 シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で暗殺された。 この暗殺の背後には、ケペルケペルウラー・アイが動いていたという説もある。
ケペルケペルウラー・アイがアンケセナーメンと結婚。
前1324年
ケペルケペルウラー・アイが後継者として、同郷の貴族で軍司令官のナクトミンを使命。
前1323年
エジプト第18王朝を統治していた、ケペルケペルウラー・アイが死去。
軍司令官のナクトミンがケペルケペルウラー・アイにかわって、王位を継承する。この時点ではまだ王に即位していない。
前1321年
王女ムトノメジットと結婚していた将軍ホルエムヘブが王の後継者であるナクトミンを打倒する。
ジェセルケペルウラー・ホルエムヘブが継承して、エジプト第18王朝を統治。 また、軍人出身者を神官に任命し、王朝中期以来ファラオの権力を脅かしていたアメン神官団を統制下に置くことでファラオの権力を回復した。 ホルエムヘブは、自らをアメンホテプ3世の後継者として位置づけ、アクエンアテン以降四代の王の存在を抹殺した。 これら諸王の業績を自らのものとしているが、アマルナ諸王特にアクエンアテンの評判が悪かったためか、当時は特に非難を受けることもなかった。 関係が良好であったアイの事跡をも抹消している理由は不明であるが、ナクトミンを重用したことに対する反感と、簒奪者としての汚名から友人であった彼を守るためと二つの理由が考えられる(彼はナクトミンの記念碑及び彫像も破壊している)。 即位後はすでに高齢であった事から、子には恵まれなかった。
前1312年
ヒッタイト王ムルシリ2世の治世9年頃の日食が記録されている。
前1310年
エジプト「死者の書」の代表作『フネフェルのパピルス』が作られる。
前???年
エジプト第18王朝ホルエムヘブが、国中でイスラエル人が勢力を増すのを恐れ、イスラエル人の女性から産まれた男子を殺せという勅命を発した。 勅命をを受けた助産婦の1人はプアといい、もう1人がシフラだった。 ところが、王に命じられたにも関わらず、2人はその通りにはせず、たとえ男の子が誕生しても生かしたままにしておいた。
事実を知った王は彼女たちを呼びつけると「なぜ男の子を生かしているのか?」と問いただした。
シフラたちは機転をきかし、「イスラエル人の女性はエジプト人とは違ってとても丈夫で、助産婦が行く前に子供を産んでしまうのです」といって、その場を切り抜けた。
イスラエルの人々は王の意に反して数を増やし、さらに強力になった。2人の助産婦はその働きが神に認められ、彼女たち自身も子宝に恵まれた。 エジプト王(ホルエムヘブ)は今度は全国民に向け、イスラエル人から産まれた男子は川に放り込めという勅命を発した。 この勅命が発せられた直後に、 レビ族アムラムと妻ヨケベドの間に男子(後のモーセ)が生まれる。
彼女はしばらくは赤子を隠して育てた。
が、3カ月もたつともはや隠しきれなかったので、一計を案じ、瀝青とピッチで防水加工したパピルスの篭に赤子を入れてナイル川の葦の間に置いた。 赤子の姉のミリアムは心配で遠くから篭の様子を見ていた。 そこへエジプト王妃(ホルエムヘブの妻)が水浴びに来て赤子を見つける。 彼女は優しい心の持ち主だったのか、ふびんに思って泣いている赤子を抱き上げた。 ミリアムはすぐにも飛んで行き、「その子に乳を飲ませるイスラエル人の女を連れてきましょう」と申し出た。 こうして、赤子はエジプト王妃の庇護の元に母ヨケベドに育てられた。 少年になると王妃の下へ連れて行かれた。
王妃の養子となり、モーセと名付けられた。
前1302年
ラムセス2世が生まれる ラムセス2世とモーセの年齢は近かったためか、同じように育てられた。
前1300年頃
黄河文明の繁栄。 中国では最古の漢字、甲骨文字が使用される。 殷の盤庚が黄河南岸の亳(殷)に遷都。
アーリア人が一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出していく。
アーリア人は司祭階級のブラフミン(バラモン)と、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。 が、近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚。
この頃から、インドでヴェーダ(讃歌)が編纂される。おもに語り継がれた伝承から、デーヴァの神々を賛称した内容にてまとめられていった。 この時、既に梵語(サンクスリット)が発達していたと思われるが、紀元後3世紀にも最編纂されたため、この時代にすでに、4つのヴェーダが存在していたのかさえ、正確な内容は伝わってはいない。 が、現在のヒンドゥー教のように、3身即一の主神(ブラフマー/ヴィシュヌ/シヴァ)を重んじたものではなかった事が伺える。もしも、この時代にすでに4つのヴェーダが成立していたと考えるならば、神話が実話であった時代は、さらに古い時代まで遡る事ができる、と考えられる。
アッシリア帝国がバビロンを占領。 エジプトでは、フェニキア人がアルファベットを創始させる。 カナン文明(フェニキアが海の文明であるならば、カナンは山/商業)で、モレク神崇拝のための生け贄の儀式が始まる。(〜A.D.400年頃まで)
アッシリア王アダド・ニラリ1世がミタンニ王(ハニガルバドの君主)ワシャサッタを破り首都タイデを占領。
黒海東南にグルジア人によるコルキス王国が成立する。コルキスはギリシア神話ではプリクソスの金羊毛伝説や、イアソンのアルゴナウタイ伝説の舞台であった。
中央ヨーロッパは後期青銅器時代(ウルネンフェルト文化(骨壺墓地文化)〜紀元前700年頃)。
後期ミケーネ文明(後期ヘラディック期III)。ミケーネ遺跡の「獅子門」が建設される。アルカディコ橋(カザルマ橋)が建設される。ミケーネの「「戦士のクラーテル」の邸宅」出土の「戦士のクラーテル(英語版)」が作られる。
日本/京都、月輪寺の伝承:この頃、日良(インド)、善界(中国)、現日本の太郎房という3名の天狗が「仏」の命を受けて、日本(の山背国)の地に訪れる。そして以後、人々を守護する事となった。この天狗たちが愛宕権現となった。
天狗は日本において妖怪の類として捉えられているが、ここで表される「天狗」はそうではなく、西洋における翼を持つ3名の天使的存在を示している。そもそも「天狗」とは、訓読みにして「あまつきつね」「あまのいぬ」とされている通り「天の使い」という意味を含んでいる。役小角との対話では、数万の軍を率いて現れたと伝えられている。また伝承の中での「仏」とは神話や宗教における「神」や元来が神格的存在である「天」ではない。「もともと人間であったもの」あるいは「元々人間でありながら人間の領域を超えた者」(仏教でいう「如来」=「アセンデッド・マスター(ascended master)」、インドのベナレス地方における「リシ」や「マハー=コハン」)など、人間よりも上位知的存在と推定される。 そして、この当時より現在に至るまで人々がで栄えていた事をも示している。
前1293年
エジプト第18王朝を統治していた、ジェセルケペルウラー・ホルエムヘブが死去。
遺言によりパ・ラメスがファラオとして即位した。 パ・ラメスは、ホルエムヘブの忠実な腹心で親友であり、ホルエムエブの在位中は軍司令官、宰相の地位にあった。ホルエムヘブの信任は非常に篤かった。 ホムエルヘブの死を以て、第18王朝は終焉した。
パ・ラメスは、メンペフティラー・ラムセス1世として、王朝の統治を開始した。
エジプト第19王朝はじまる。
前1291年
エジプト第19王朝を統治していた、メンペフティラー・ラムセス1世が死去。
息子のセティが王位を継承した。
メンマアトラー・セティ1世が継承して、エジプト第19王朝を統治。
前1279年
ラメセス2世が共同王となる。
前1278年 エジプト第19王朝を統治していた、メンマアトラー・セティ1世が死去。
前1274年
ウセルマアトラー・セテプエンラー・ラメセス2世が継承して、エジプト第19王朝を統治。
カデシュの戦いが起こる。
カデシュの戦いは、紀元前1285年頃にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。 戦いの起きた年代は明確には判明していない。 世界で初めて公式な軍事記録に残された戦いであり、成文化された平和条約が取り交わされた世界初となる戦いであるともいわれている。
エジプトのラムセス2世17歳の時、治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。 ヒッタイト王ムワタリはすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。 進軍途上で二人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。 エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハ、セト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの 4つの軍団に分けられていた。 ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。 再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅かった。 ヒッタイトの2500台の戦車隊が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。 エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。 エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。 戦闘が膠着状態に入り、ムワタリはラムセス2世に停戦を申し入れた。 ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。 ラムセス2世は負けはしなかったが、多くの死傷者を出したことに加え、領土を獲得することもできなかった。 アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。
前???年頃
成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、ヘブライ人を助けようとしたが、はからずもエジプト人を殺害してしまう。 これが発覚し、セティ1世に命を狙われる事となったモーセは、逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。
前???年頃
モーセが、ミディアン人のツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らす。
前???年頃
ある日モーセは、燃える柴のなかから神に語り掛けられ、イスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。
神は、みずからを「わたしはある者」と名乗った。
前1272年?
エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにラムセス2に会い、ヘブライ人退去の許しを求めた。
しかし、ラメセス2世は拒絶し、なかなか許そうとしなかった。
前1272年?
ラムセス2世に1人目の後継者が生まれる。 (ただし、1歳前後で亡くなった?)
前1271年?
神は、ラメセス2世を含めたエジプト王朝に対して10の災いを起こす事を、モーセに伝えた。
モーセは、ラメセス2世に再び会い、神の宣告を伝えた。
しかし、それでもラメセス2世は、考えを変える事はなかった。
前???年(前1271年)
エジプトで10の災いが発生し、多くの死者が出る。
ナイル河の水が血(の色)に変わった。 (7:14-25)
都市中に大量の蛙が発生した。 (8:1-15)
都市中にぶよが発生した。(8:16-19)
都市中に虻が発生した。 (8:20-32)
都市中に疫病を流行した。(9:1-7)
それは、腫れ物を生じさせた。(9:8-12)
エジプトに大量の雹を降った。(9:13-35)
エジプトを大量の蝗が襲った。(10:1-20)
暗闇でエジプトを覆われた。(10:21-29)
エジプト中で長子だけが死亡する事件が発生した。(11章、12:29-33)
この時、ラメセス2世の第1皇子も死去する。 モーゼが、ラメセス2世の迫害に苦しむイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した。 (出エジプト記)(有力説の一つ)
※ ※ ※
10の災いおよび海が2つに割れるという大規模な現象は、近年まで架空のものと思われてきた。 これは、過去に科学的な調査が行われ、発生する事自体が不可能との決断が示されてきためである。 しかし、2000年にはいってこれらの災いはすべて自然現象として発生した。 また、それによって原因がかなり正確なところまで解明された事から、現在ではモーセの記録にあった事は実在性が高い事が判明している。
前???年
約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす。
前1271年?
ラムセス2世に2人目の後継者カエムワセトが生まれる。
前1271年
ラムセス2世30歳の時に、にメルエンプタハが生まれる。
前???年
モーゼが十戒を授かる。 民数記13章21節〜によると、イスラエルにてアナックに関わる文面が見つかる。 32節:"そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。" 33節:"わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。"
前???年
モーセとイスラエルの民一行は、神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着く。実際の距離にしてだいたい約600kmの距離であるため、移動には1週間はかかっていないものと思われる。 この地の先住民であったカナン人やペリシテ人(いずれもフェニキア系民族と考えられる)を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。
ペリシテ人から見れば、イスラエルの民が侵略してきたとも見える。(この地には、セレスという都市があった。) この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。
前1269年
ラムセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世、史上知られている最古の平和条約に調印。
前1263年
アッシリア王シャルマネセル1世がミタンニ王シャトゥアラ2世を撃破し領土を完全に併合。
前???年
ユダヤの民のヌンに息子ホシェアが生まれる。 ヌンの子ホシェアはモーセによってヨシュアと呼ばれるようになる。
前1250年頃
メソアメリカ・オルメカのサン・ロレンソの繁栄始まる。
エラム王ウンタシュ・ナピリシャによりチョガ・ザンビール遺跡のジッグラトが建設される。
ギリシア・エーゲ海周辺で巨大地震。ティリンスの宮殿を含め各地の宮殿が大破する。
ギリシアのミケーネのアトレウスの宝庫が建設される。これはこの時代の蜂窩状墳墓(円形墳墓(トロス))の代表例。
伝承では「建国者」であるテセウスがアテナイ王に即位する。
エジプト「死者の書」の代表作『アニのパピルス』が作られる。
前1244年
ラムセス2世によるアブ・シンベル神殿が完成する(着工は紀元前1264年頃)。
前1240年
ヒッタイトの王トゥドハリヤ4世が即位。この王の治世にヤズルカヤの祭祀遺跡やエフラトゥン・プナルの水辺祭祀遺跡が築かれる。
前1237年
ニフリヤの戦いで、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がヒッタイトの王トゥドハリヤ4世に勝利。
前1235年
アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がカッシートの王カシュティリアシュ4世を捕縛しバビロニアを征服。 この戦いがもととなり『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』が編纂される。
前1233年
ラムセス2世の息子である2人目の後継者カエムワセトが亡くなる。
前1232年
ラムセス2世3人目の後継者として、メルエンプタハが選ばれる。
前1230年
メソアメリカ・オルメカのサン・ロレンソの繁栄始まる(チチャーラス相〜紀元前1150年頃まで)。
前???年
ヨシュアはカレブたちと共に、モーセに命じられて自分たちの目指す約束の地であるカナン(パレスチナ)を偵察する。 ヨシュアとカレブはカナン(パレスチナ)のすばらしさを伝えるが、それ以外の者たちはカナンの地に入ることの困難を強調する。 そのため、民は動揺し、モーセに向かって不平を言うが、ヨシュアとカレブだけは不平を言わなかった。 このため、ヨシュアとカレブだけは約束の地に入ることをゆるされるが、他の成人たちには許されなかった。
前1212年
エジプト第19王朝を統治していた、ウセルマアトラー・セテプエンラー・ラメセス2世が死去。90歳
バエンラー・メリネチェル・メルエンプタハが継承して、エジプト第19王朝を統治。
当時すでに60歳。
前???年
モーセが120歳の時、後継者としてヨシュアをたてて、その後に亡くなる。
前???年
ヨシュアは指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコ(死海の北西部にある歴史的に最古の街)を攻める。 エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊した。 ヨシュアはエリコの人民を全て虐殺する。
前???年
ヨシュアが民を率いて、カナン(パレスチナ)各地侵略を開始。
前1208年
エジプト王メルエンプタハがペルイレルの戦いでリビア人と「海の民」連合軍に勝利。この戦いを記念した「メルエンプタハ戦勝碑」の記録は「海の民」のについての最古の記録。「海の民」としてアカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5部族の名が挙げられている。「メルエンプタハ戦勝碑」の碑文には、現存最古の「イスラエル」に言及した一節が見られる。 アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺される。建設途上の新都カール・トゥクルティ・ニヌルタは放棄され、アッシリアは停滞期に入る。
前1207年
10月30日、カナンで金環食が発生。
2017年10月末にケンブリッジ大学の教授ら(コリン・ハンフリーズ教授と共著者グレーム・ワディントン氏)が ヨシュア記における天文学的出来事の観点から、カナンでのヨシュアの戦いについて発表 カナンとされる地域で日食もしくは金環食が観測されたのは紀元前1500〜1000年間でも唯一この時のみ。
ヨシュア記第10章での「アモリ人の五人の王」とヨシュアの戦いは、この時に行われたものと思われる。
アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺される。建設途上の新都カール・トゥクルティ・ニヌルタは放棄され、アッシリアは停滞期に入る。
前???年
ヨシュアが抵抗運動を粉砕して全カナン(パレスチナ)を制圧。 その後、カナン(パレスチナ)をレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配した。
前???年
テーバイ戦争が起きる(伝承に基づくエラトステネス説による)。このテーバイとアルゴスの戦いが『テーバイ攻めの七将』・『エピゴノイ』のもととなった。伝承ではアルゴス王ディオメドスらエピゴノイはテーバイ戦争に勝利した後にトロイア戦争に参加している。
前1202年
エジプト第19王朝を統治していた、バエンラー・メリネチェル・メルエンプタハが死去。 メンミラー・セテプエンラー・アメンメセスが継承して、エジプト第19王朝を統治。

前???年
殷の23代王武丁の時代(武丁中興)。殷墟で発掘された武丁の后妃婦好の墓は唯一盗掘を免れた墓で大量の副葬品が発見された。同じく発掘された武丁の后妃戊の墓からは殷代最大の青銅器「后母戊大方鼎(北京中国国家博物館蔵)」が出土。