紀元前1600年〜1400年代

前1600年頃
中国/黄河流域に殷王朝の成立。
マヤ/ツォルキンがマヤ(マイア)の民の中で、「すでに邪悪を知り尽くしている民」をメキシコ周辺地域に連れてくる。 この文明は、後のオルメカ文明に継承される。
古エラム時代から、中エラム時代に継承される。 紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立から紀元前1100年頃の、イシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代である。 なお古エラム時代のとの境目には諸説ある。 古エラム時代末期の衰退期から再びエラムが列強として登場する時代であり、バビロニア文化の影響を強くうけた時代である。
カッシート朝(バビロン第3王朝)を滅ぼしたが、しかし、最後はネブカドネザル1世の侵攻で大打撃を被り、再び衰退した。
前???年
レビと妻ミルカとの間に、ゲシュルン、ケハテ(コハト)、メラリが生まれる。
前1595年
ヤコブ90歳の時、妻ラケルとの間に息子ヨセフが生まれる。ヨセフは後にイスラエル人を大飢饉から救う事となる。 ヤコブはヨセフが年寄り子であるため、誰よりも彼を愛し、きらびやかな服をヨセフに送ったりした。 そのため10人の異母兄たちはヨセフを憎むようになった。 ある日ヨセフは「束」の夢を見た。
「ヨセフとその兄弟たちが畑で束を束ねていた。すると突然、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟たちの束はヨセフの束に向かってお辞儀をした。} (これはヨセフが後に宰相となって、兄弟たちが皆ヨセフにひざまずくことになるということを預言している。)
ある日ヨセフは「太陽と月と十一の星」の夢を見た。
「ヨセフと太陽と月と十一の星があった。すると、太陽と月と十一の星がヨセフに向かってひれ伏した。」 (太陽というのは父、月というのは母、十一の星というのは兄弟たちのこと。束の夢と同じでヨセフの後のことを預言している。)
それを兄弟たちに語ったので、兄弟たちのねたみを買い、兄たちはヨセフを殺そうとした。しかしルベンはヨセフを助け出すため、せめて穴に投げ込むよう説得した。 ヨセフは穴に落とされ、やがて彼らによってミデヤン人の隊商に売られてしまう。 その直後、兄弟たちは、ヨセフの服に羊の血を付け、父ヤコブにヨセフは獣に襲われて死んだと偽った。 ヒッタイト王ムルシリ1世によるバビロニア攻略 現在のトルコにあったヒッタイト帝国により古バビロニア帝国は滅ばされる。
前???年
レビ族ゲシュルンと妻の間にアサフが生まれる。
前???年
レビ族ケハテ(コハト)と妻の間にアムラムが生まれる。
前???年
レビ族ケハテ(コハト)と妻の間にイズハルが生まれる。
前???年
隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト第15王朝の王宮の侍従長ポティファルの下僕となる。
前1575年
シラの息子エベルが464歳において死去。
第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、セナクトエンラー・タア1世が死去。 後のエジプト第17王朝となる。
前1574年
第13王朝を継承するエジプトの民の小国において、セケンエンラー・タア2世が統治。 後のエジプト第17王朝となる。 セケンエンラーが治世初期の頃、『アポフィスとセケンエンラーの争い』が起こる。 第15王朝のアポフィス(アペピ)王が、セケンエンラー・タア2世に使者を送り、テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すようにという要求を出してきた。 およそ単なる言いがかりとしか考えられないこの要求に対し、セケンエンラー王は親しく使者を迎え入れ、二心無きことを誓った。 しかし、何らかのカタチでセケンエンラー王は、アポフィス王と対立する事いなる。 これが『アポフィスとセケンエンラーの争い』として記録されている。 セケンエンラー王が、この期において新王朝として第17王朝を起こす。 セケンエンラー王と息子カーメス王、イアフメス王の親子の代にわたり、第15王朝と第17王朝が対立した。
前1573年
エジプトの民の小国を統治していた、セケンエンラー・タア2世が死去。
エジプトの第17王朝において、セケンエンラーの息子ウアジケペルラー・カーメスが統治。
前???年
レビ族ケハテ(コハト)と妻の間にヘブロンが生まれる。
前???年
レビ族ケハテ(コハト)と妻の間にウジエルが生まれる。
前???年
ヤコブが兄エサウとの和解を志し出発する。
会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で天使と格闘したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。 これが後のイスラエルの国名の由来となった。(ヤコブがイスラエルの祖と言われる由来ともなる。)
前1570年
エジプトの第17王朝を統治していた、ウアジケペルラー・カーメスが死去。 エジプトの第17王朝において、カーメス王の弟ネブペフティラー・イアフメス1世が統治。
ヒクソスを倒し、新たにエジプト新王朝を起こす。
前???年
ヤコブと妻レアとの間に娘ディナが生まれる。
前???年
ポティファルの下僕となったヨセフが、成功を収め、ついにはその家の全財産を管理するまでとなる。 ところが、ポティファルの妻の性的誘惑を拒んで、その妻にかえってぬれぎぬを着せられて監獄に入れられてしまう。 監獄に入れられたヨセフが、監獄長に気に入られ、その監獄の管理人となった。
前???年
ヤコブ、エサウと和解。
前???年
ヤコブはパダン・アラムからの帰途の途上で、シェケムの前で宿営をした、ハモルの息子たちから土地を買って、祭壇を築き、エル・エロヘ・イスラエルと名付けた。 ユダヤ人の伝承によるとその時にヤコブが井戸を掘り、それが、「ヤコブの泉」と呼ばれていると言われる。
前???年
ヤコブ一家がシェケムの町で宿営していた時に、ヤコブとレアの娘ディナが、地元の娘たちのところに遊びに行く。 この時、ハモルの息子シケムがディナを見初め、ディナはシケムに強姦される。 シケムはその責任をとるべく、ハモルにディナとの結婚の意志を伝える。 ハモルもまた、シケムを咎める事ができず、ヤコブのところに縁談にいく。 ハモルとシケムがヤコブのところに来た時、ヤコブはこの問題を息子たちに任せた。ヤコブの息子たちはディナを汚された事に怒り、ハモルとシケムを騙す事にした。 縁談に来たハモルたちに、ヤコブの息子たちはこう答えた。 「自分たちは創造者ヤハウェの民のあかしとして、割礼を受けている。ヤハウェの民でなく割礼を受けてもいない人々に嫁にやることはできないから、シケムの町の男すべてが割礼を受けヤハウェの民となるなら、わたしたちは結婚を承諾してあなたがたと一つの民になろう。」 ハモルとシケムはこの条件を受け入れ、シェケムの町の「町の門(議会)」で町の民と議会を執り行った。のすべての男性がこの条件を受け入れ、割礼を受けた。 割礼を受けた男性たちが、割礼の傷に苦しんでいるところを見計らって、シメオンとレビがシェケムの町の男性をすべて惨殺する。 シェケムの町の女性と子どもたちは、ヤコブ一行に無理やり加わる事となった。 シェケムで発生した一連の惨殺事件は、周囲の町に知れ渡る事となり、 ヤコブは息子たちの罪と周囲の町から受ける報復の可能性におおいに苦しんだ。 神はヤコブに対して「ベテルに移り、そこに住みなさい」と解決策を授けた。 ヤコブは、一行に加わっているすべての親族・民・奴隷に対して、現在身につけている異国の神々の信仰を捨て、身を清め、衣服を着替えなさい。」と指示し、ベテルの地に向かった。 その道中、周囲の町からの報復をもっとも懸念していたが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。
前???年
ヤコブがベテルに到着する。礼拝のための祭壇を造った時、ヤコブは神の言葉を聞いた。 神の言葉によってヤコブは、イスラエルと名乗る事となった。 エフラタ(現ベツレヘム)へ向かう。
前???年
ヤコブ一行がエフラタへ向かう途中、ラケルは産気づき男子を産むが、難産で命を落とした。 その子をラケルはベン・オニ(私の苦しみの子)と名づけたが、ヤコブはベニヤミンと呼んだ。 ラケルはエフラタに向かう道の傍らに葬られた。
前???年
ルベンが、ヤコブの妻ビルハと姦通した。これにより、ルベンは長子の権利を剥奪された。
前1566年
ヤコブが父イサクと再会。 程なくして、アブラムの息子イサクがヘブロンにて180歳において死去。 イサクは、両親アブラムが眠る墓地に葬られる。 イサクの埋葬には、エサウとヤコブがともにあたった。
前1564〜1565年
ヤコブが帰省の後、ヘブロンの地は増えすぎたヤコブの一行において 「彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたから」 という事で、エサウが大多数の一族郎党をひきつれて、死海南東のエドムに移住する事にした。 これらの民が、後にエドム人となる。
前???年
ヨセフが管理する監獄に、ファラオに罪を犯した献酌官長と調理官長が拘留された。 ある時、二人は同じ夜にそれぞれ夢を見た。 献酌官長が「ぶどうの木」の夢を見た。
「献酌官長の前に一本のぶどうの木があり、その木には三本のつるがあった。  
そのつるが芽を出すと、すぐに花が咲き、ぶどうの実がなった。  
献酌官長がそのぶどうを摘み、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオに渡した。」 (三本のつるというのは三日のこと。三日後、ファラオは献酌官長を元の地位に戻し、以前のようにファラオに杯を渡すことを許されるということを預言している。)
調理官長が「三つの枝網のかご」の夢を見た。
「調理官長の頭の上に枝網のかごが三つあった。  
すると、鳥がやってきて、一番上のかごの中に入ってあるファラオのための食事を食べてしまった。」
(三つのかごというのは三日のこと。三日後、ファラオは調理官長を木につるして殺し、鳥が死体に群がるということを預言している。)
ヨセフはその二人の夢をそれぞれ解き明かしたところ、その解き明かしのとおりになった。
前1565年
ヨセフの夢見の能力が後にファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになった。 ファラオが「七頭の雌牛」の夢を見た。
「ファラオがナイル川の岸に立っていると、ナイル川から、肉づきがよくて、つやのある雌牛が七頭上がってきて、葦の中で草を食べていた。  
すると、そのあとに弱々しく、やせ細って、非常に醜い雌牛が七頭上がってきて、最初に上がった、肥えた雌牛七頭を食べてしまった。  
しかも、醜い牛は肥えた牛を食べたにもかかわらず、何も変わっていなかった。」  
(七頭というのは七年、肥えた雌牛というのは豊作、醜い雌牛というのは飢饉のこと。ファラオがこの夢を見てすぐに、七年間の大豊作が訪れ、その後七年間の大飢饉が起こるということを預言している。)
ファラオが「七つの穂」の夢を見た。
「一本の茎にとても豊かに実っている穂が七つあった。  
すると、東風に焼け、しなびた穂が七つ出てきて、豊かな穂をのみこんでしまった。」
(七つというのは七年、豊かな穂というのは豊作、しなびた穂というのは飢饉のこと。七頭の雌牛の夢と同じで七年間の大豊作と大飢饉を預言している。)
その彼の解き明かしがファラオに認められて出世。 古代エジプト新王国において、ヤコブの息子ヨセフがエジプト宰相になる。 ヨセフは、ファラオから「ツァフェナト・パネア」という名と、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられた。 宰相の地位に就いたヨセフは7年の豊作が続いた時、七年間の大飢饉に備えるために食料を保存するなど、国政に腕を揮った。 この2年後に、大飢饉が訪れる。
前1560年頃
イェリコの街はヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。
前???年
ヨセフとアセナトの間にエフライムとマナセの2男が生まれる。
※ ※ ※
エフライムは、ヨセフとアセナトの間に生まれた第1子であり、イスラエルの十二支族/エフライム族の祖とされる。
※ ※ ※
マナセは、ヨセフとアセナトの間に生まれた第2子であり、イスラエルの十二支族/マナセ族の祖とされる。
前1556年
予言に示された7年間の大飢饉が訪れる。 この大飢饉はエジプトだけでなく、父ヤコブや兄弟たちのいるカナンの地にも及んだ。 10人の異母兄弟たちは末の弟でヨセフとは同母弟となるベニヤミンをカナンに残し、エジプトに穀物を買いに行く。 10人の異母兄弟たちは、宰相ツァフェナト・パネア(ヨセフ)に出会うが、彼らはヨセフであることには気付かなかった。 ヨセフは兄弟たちのことが分かっていた。 そこで、ヨセフは兄弟たちを間者と決めつけ、末の弟ベニヤミンを連れてくるように要求、彼らの誠意を試そうとした。 兄弟たちはシメオンを人質としてエジプトに残し、穀物を持って帰ったが、エジプトで起きたことを父ヤコブに話すと、ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことに強く反対する。 しかし、穀物が尽きてしまったため、仕方なくヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを決心、兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトに戻った。 ヨセフはベニヤミンを見ると感激し、兄弟たちにご馳走をした。 その後、兄弟たちがカナンの地に帰る前にヨセフはベニヤミンの持つ穀物の袋に、自らの使う銀の杯を入れた。 そして兄弟たちが出発してすぐに、ヨセフは彼らを追い、彼らが銀の杯を奪ったと指摘、兄弟たちは自信を持って盗んでいないと主張するが、調べるとベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった。 罰としてヨセフはベニヤミンを自分の奴隷とすると言ったが、兄弟たちは自らが奴隷になってでも、ベニヤミンを帰らせるよう頼んだ。 ヨセフはその誠意にとても感激し、自らのことを明かした。 兄弟たちは驚くも、その後ヨセフと抱き合い、和解を果たした。 また、兄弟たちはそのことを父ヤコブにも告げた。 ヤコブは最初は信じなかったものの、最終的にはヨセフに会って、劇的な再会を果たした。 ヨセフは父と兄弟たちをゴジェンに移住させた。 ヤコブ一族がエジプトのゴジェンに移住する。
前1555年
エジプト第15王朝が、新王朝によって滅亡する。
イアフメス1世の統治していた新王朝は、そのままエジプト第18王朝となる。
前1551年
エジプト第18王朝において、アメンヘテプ1世が共同王となる。
前1550年頃
南北のエジプト王朝にも属さない、エジプト/アビドス王朝のセネブカイ王が戦死する。
(アビドス遺跡の発掘により発見される)
トリノ王名表には、セネブカイ王の名前が記されている。
前???年頃
ワシュカンニ(ワスガンニ、正確な場所は不明:メソポタミア北部のハブル川上流域が有力)を首都とするミタンニ王国が周辺のフルリ人たちを統一。 東隣のアッシリアをも支配下に置いて、以後メソポタミア北部(シリアを含む)を支配した。 さらにウガリットなど地中海沿岸諸都市も支配下においた。 以降、ミタンニ王国は、エジプト王朝やバビロニアと300年にもおよぶ対立を繰り返す事になる。
前1546年
エジプト第18王朝を統治していた、ネブペフティラー・イアフメス1世が死去。
共同王であったジェセルカラー・アメンヘテプ1世が王位を継承し、エジプト第18王朝を統治。
紀元前1540年頃
上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまる。
前1539年
イサクの息子ヤコブが147歳において死去。
前???年
レビと後妻との間に、ヨケベドが生まれる。
前1524年
エジプト第18王朝において、トトメス1世が共同王となる。 ほどなくして、エジプト第18王朝を統治していた、ジェセルカラー・アメンヘテプ1世が死去。 共同王であったアアケペルカラー・トトメス1世が王位を継承し、エジプト第18王朝を統治。 第18王朝の王家はアメン神官団と密接なかかわりを持った。 エジプトの国家神であるアメン・ラーは対外遠征の勝利をもたらす神として崇められ、遠征のたびにアメン信仰の中枢カルナック神殿には膨大な戦利品が寄進された。 とりもなおさずこれはアメン神官団の経済力拡張に結びついていった。 歴代の王はアメン大司祭の強力な補佐を受けていた。
※ ※ ※
この当時崇拝された、テーベの太陽神アメン・ラーは、太陽と鳥の姿をした神として描かれている。 しかし、後のアメンヘテプ4世の治世において行われたアマルナ改革により、太陽のままの姿の太陽神アテンへと移行していく。 アメン・ラーは、ソロモン王の時代においては、炎と神殺しの堕天使アモン(梟姿の堕天使)として認識されるようになる。
前???年
ヤコブの息子レビが、137歳にて死去。
前???年 エジプト第18王朝とミタンニ王国が対立する。 結果として、エジプト第18王朝がミタンニ王国を、シリア・パレスチナから排除する。
前1518年
エジプト第18王朝を統治していた、アアケペルカラー・トトメス1世が死去。 共同王であったアアケペルエンラー・トトメス2世が王位を継承し、エジプト第18王朝を統治。 トトメス2世は病弱であったうえ、彼の母ムトネフェルトは側室であり血統的正統性は磐石とは言い難かった。 このためトトメス1世と正妃イアフメスの間に生まれた子供の中で唯一生きていたハトシェプストを正妃として迎え、王位継承の正統性を強化しようと努めた。 トトメス2世は病弱とは言え有能な指導者であり、ヌビアでの反乱鎮圧などでは大きな成果を挙げていたが、宮廷内の問題、特に王位継承に関するそれは彼の思うようには運ばなかった。 トトメス2世は側室イシスとの間にもうけていた王子トトメス3世に王位を継がせたいと考え、トトメス3世を後継者に指名した。
前???年
エジプト第18王朝、ヌビアで発生した反乱を鎮圧する。
前1504年
エジプト第18王朝がヌビアと地中海沿岸を征服。完全に征服に至ったのは1429年。 エジプト第18王朝を統治していた、アアケペルエンラー・トトメス2世が死去。 メンケペルラー・トトメス3世が王位を継承し、エジプト第18王朝を統治。 この時、トトメス3世はまだ幼かったため、摂政は王妃ハトシェプストがおこなう事となった。
前1500年頃
北極星が、こぐま座β星/恒星コーラブ(北の星という意味)に入っていく。周(現在の中国)では北極五星のひとつ「帝」と定められ、この星が天帝(太一もしくは太乙、太極)とよばれるようになった。(日本での「太一」は、天帝ではなく「太陽=天照大神」を示しているので同じではない。解釈に注意。)こぐま座β星がもっとも北極星として成り立つのは紀元前1100年頃であり、紀元前500年頃に位置からはずれ、次の北極星に移行する。
ヨーロッパは新青銅器時代を迎える。
ペルシア系アーリア人がイラン高原から、インド北部のパンジャブ地方へ進入。 神話期が正しければ、アーリア人は先住民(ドラヴィダ民族)を、吸収したか、ア=スラ(この時は異端民族を意味している?)として、東もしくは南へ追いやったと考えられる。
この当時の民間信仰の中では、ヴィシュヌ神はまだ登場しておらず、アディティ(アーディティア神群)とダイティヤ(ヴァス神群)という位置づけでヴェーダに歌われている。 後、アーリア民族はデーヴァ(デヴァ?)神群とされ、他の敵対する民族はアスラ(悪魔)とした。が、ゾロアスター教以下、東南アジアではデーヴァこそ「悪魔」としている信仰がある(※ディーボ(悪魔)という言葉もここから発生した?)。
現在のヒンドゥー教では、ドラヴィダの主神であった神々(ムルガン等。ルドラ、マルト、シヴァ神等も含まれると思われる)が、吸収されている可能性もあるが、これは現地の神々を傘下に入れてしまう事での思想拡大を狙ったものである、という説もある。
それとは別にもうひとつの可能性として、天使と悪魔(デーヴァ)という西洋の概念そのものを含めてアーリア民族とした場合、これをまとめてデーヴァ神群とした説が出てくる。この場合、同じ先住民族であるにも関わらず、当時、アーリア民族に与した民族はデーヴァ神群として、そして敵対したものがア=スラ神群として判別され、思想だけがデーヴァとア=スラに定着したという展開説も考えられる。これならば、姿形の思想が同じであるにも関わらず、敵味方に分かれてしまい、後々に独自の発展を遂げたヒンドゥー教の可能性も伺える。 エーゲ海のサントリニ島で火山爆発。 エジプトで世界最古(と言われている)の数学書と医学全書が著される。 アナトリア半島のヒッタイト人が人工鉄(鉄の精錬法)を発明
前1498年
エジプト第18王朝において、摂政をおこなっていたマートカラー・ハトシェプスト女王が共同王となる。 トトメス3世の存在は無視され、事実上ハトシェプストが全ての権力を握った。 この時、背後にはアメン神官団の協力な補佐があった。 ここにエジプト史上初めて実質的な最高権力を女性が握ることになる。 ハトシェプスト時代は目立った対外遠征が行われておらず、大きな反乱もなく長い平和が続いた。 この平和の中でエジプトの国力は拡大を続けており、数世紀ぶりにプント国(現在のソマリア地方)などアフリカ方面へ大規模な交易隊が派遣された。 これをはじめとして貿易活動は極めて活発化し、数々の建築や芸術も花開いた。 特にハトシェプストが自らのために作らせた巨大な墓、いわゆるハトシェプスト女王葬祭殿は古代エジプト建築の偉大な成果の1つ。 ハトシェプストがその力を大いに発揮していた時代、共同王であったトトメス3世がどのように生活していたのかほとんど記録に残されていない。
前???年頃
トトメス1世によってシリア・パレスチナから排除されたミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主とした対エジプト同盟を結成させてエジプトの影響力をそぎ落としにかかる。 やがてカデシュ王らにパレスチナの要衝メギドを占領され、シリア北部におけるエジプトの宗主権は失われてしまう。
前???年頃
ヨセフの息子マナセがアラム人女性と結婚し、マキルが生まれた。 ヨセフは孫マキルを見る事ができた。
前1485年頃
ヤコブの息子ヨセフが110歳にて死去。 ヨセフの遺体はエジプトから運び出されてシェケムに葬られた。 この頃より寿命が100歳前後になる?
前1483年
共同王として実権を握っていたマートカラー・ハトシェプスト女王が病死。 メンケペルラー・トトメス3世が全権を継承して、エジプト第18王朝を統治。 トトメス3世はハトシェプスト女王の記録を抹殺することに全力を挙げた。 この時、背後にアメン神官団の協力な補佐があった。 ハトシェプストが建てた多くの記念建造物からその名が削り取られ、ハトシェプストの彫像や彼女の側近の墓はその多くが破壊された。 以後、王名表などの歴史記録にはハトシェプストは正式の王としては記載されなくなる。 この行動については諸説あるが、大きく以下の二つに分かれる。 ・トトメス3世はハトシェプストを簒奪者と見なしており、その恨みからくるもの。 ・ハトシェプストは「トトメス3世が成人するまでの繋ぎ」を自覚しており、確執は存在しなかった。 しかしながら『女のファラオが存在した前例』を残す訳にもいかず、やむなく存在を抹消した。
前1482年
エジプト第18王朝(トトメス3世)が、シリア北部におけるエジプトの宗主権奪還のために、アジア遠征を開始。 メギドの戦いがおこる。 トトメス3世は、進発から10日でガザに到達して町を占領した。 これに対し反エジプト勢力はエジプトからメギドに向かう道を封鎖してエジプト軍を待ち構えたが、トトメス3世はカルメル山の峠道を強行突破して敵軍の虚を着き圧勝した。 反エジプト諸国の軍はメギド市に撤退して篭城したが、これも7ヶ月間の包囲戦の末陥落させた。 トトメス3世は降伏したシリア地方の諸国に対して忠誠を誓わせたが、更にシリアに対する支配を強めるために諸王に対して王子を人質としてエジプトに送ることを定めた。 シリアをいくつかの管区に分けて監督官を置いた。 この戦いの後にも、エジプト第18王朝とシリアの対立は続く。
前???年
レビ族アムラムと妻ヨケベドの間にアロンが生まれる。
前???年
レビ族アムラムと妻ヨケベドの間に娘ミリアムが生まれる。
前???年
カデシュ王をはじめとしてシリア地方の諸国はしばしばエジプトに敵対的な態度を示した。 トトメス3世は以後、夏が訪れるたびにアジア遠征を繰り返し、その回数は治世の終わりまでの間に17回に達した。 一方で、エジプト王朝内においては、エジプトの国力伸張による王側の意識変化や、アメン神官団の勢力があまりに拡大を続けたために、王とアメン神官団の間にはやがて緊張関係が生じるようになった。
前1453年
エジプト第18王朝において、父トトメス3世と共に遠征をおこなっていたアメンヘテプ2世が共同王となる。
前1450年
エジプトにとってシリア地方支配における最大の問題は、同じくシリアへの勢力拡張を狙うミタンニ王国であった。 支配を磐石のものとするためにはミタンニそのものを撃退する必要があった。 これを企図して行われたのがトトメス3世の第8回のアジア遠征で、トトメス3世が行ったアジア遠征の中で最大の規模を持つものである。 エジプト、ミタンニ両国の軍はハラブ(アレッポ)付近で遭遇、戦闘が行われた。 トトメス3世はこれに勝利し、敗走するミタンニ軍を追ってユーフラテス川に到達、更に川を超えて前進し、シリアからミタンニ軍を放逐した。 トトメス3世は勝利を収め、かつてトトメス1世が行ったようにユーフラテス川沿いに境界石を建設すると、帰途に象狩りをするなどの余裕を見せて凱旋した。 この勝利はシリアにおけるエジプトの権利を国際的に承認させる事に繋がった。 ミタンニ以外の当時のオリエント世界の大国、即ちヒッタイトとバビロニア(カッシート朝)がシリアにおけるエジプトの地位を承認する使者を立てた。 なおシリアではカデシュを中心に反エジプトの動きがあったが、やがて完全に鎮圧された。 17回のアジア遠征によってシリア支配を確立したトトメス3世は南方に軍を転じ、ナイル川第4瀑布のナバタ地方までを征服、エジプトは史上空前の勢力を確立するに至った。 ヌビアは第二瀑布を境に下ヌビア(ワワト)と上ヌビア(クシュ)に分割され、それぞれに副総督が置かれてヌビア総督(南の異国の王子)を補佐する体制が築かれた。 以降ヌビアからは毎年300kgに達する金が貢納されたという。
前1450年
エジプト第18王朝を統治していた、メンケペルラー・トトメス3世が老衰にて死去。 アアケペルウラー・アメンヘテプ2世が全権を継承して、エジプト第18王朝を統治。 トトメス3世が征服したシリア諸国では、ただちに反乱の火の手があがった。 しかし、アメンヘテプ2世がすみやかにこの反乱を鎮圧した。 ヌビア地方でも同様にして現地人を威圧すると、以後は比較的平和な時代を継続した。 この時、アメンヘテプ2世は、王とアメン神官団の関係を微妙に変化させていた。
前1450年頃
ギリシャのミケーネ文明が興り、ギリシアを征服、アナトリアまで進出。
クレタ文明滅亡。
ヒッタイト新王国が興る。
前1443年
アメンヘテプ2世がアジア遠征をおこなう。
アメンヘテプ2世は、この遠征について記した石碑をアメン大神殿(カルナック神殿)に収めた。
前1441年
アメンヘテプ2世がアジア遠征をおこなう。 アメンヘテプ2世は、この遠征について記した石碑をアメン大神殿(カルナック神殿)だけでなく、メンフィスのプタハ大神殿にも納めた。 これは同一の石碑を両方に奉納することで神格のバランスを取ろうとしたものと考えられる。 それだけにとどまらず、彼はヘリオポリスのアトゥム神やラー・ホルアクティ神に対しても同様の配慮を見せた。 こうして、アメンヘテプ2世は、アメン神官団との間に一定の距離を取ろうとした。
前???年
アメンヘテプ2世の第2皇子トトメス4世が、夢の中でホル・エム・アケト(ホルス神)から「砂に埋もれたスフィンクスを掘り出せば王位を獲得できる」というお告げを受ける。
前1419年
エジプト第18王朝を統治していた、アアケペルウラー・アメンヘテプ2世が死去。 アメンヘテプ2世の陵墓は後に王家の谷と呼ばれる土地に築かれ、後代には王たちのミイラを墓荒らしから守るために安置する場所として使われた。 第2皇子であるメンケペルウラー・トトメス4世が継承して、エジプト第18王朝を統治。 アメン神官団の影響力の排除を試み、アメン大神官が就任する慣例であった要職に腹心を任じるなどの施策を行う。
前???年
エジプト第18王朝/神官のイウヤと女性神官チュウヤとの間にアイが生まれる。 イウヤとチュウヤは、ミタンニ王国の平民出身であるため、エジプト人ではない。
前???年
エジプト第18王朝/神官のイウヤと女性神官チュウヤとの間にティイが生まれる。