紀元前2000年〜1800年代

前1998年
エジプト第11王朝を統治していたスアンクカラー・メンチュヘテプ3世(スアンクタウィエフ王)が死去。
前1997年
エジプト第11王朝において、ネブタウィラー・メンチュヘテプ4世(ネブタウィ王)が統治。
王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官アメンエムハトが宰相となる。
イシン第1王朝のイシュビ・エッラ王が死去。 シュ・イリシュが王を継承する。
前1991年
エジプト第11王朝でクーデターが発生し、統治していたネブタウィラー・メンチュヘテプ4世(ネブタウィ王)が死去。 これをもってエジプト第11王朝が終わる。
第11王朝の宰相アメンエムハトが即位し、エレファンティネを首都として新王朝を起こす。『ネフェルティの予言』と呼ばれる文書によればアメンエムハト1世は上エジプト第1県の出身であったとされる。 エレファンティネを首都とするこの州の厳密な境界ははっきりしないが、南はヌビアであるためアメンエムハト1世にヌビア人の血が入っているという説も存在する。果てしない混乱の続いた第1中間期の終焉は人々の間に「救世主」によって救われたのだという観念を生み出した。 こうした風潮を利用した第12王朝の王達は、先行した第11王朝の統一事業を無視し、文学作品を通じて統一者、救済者であるのはアメンエムハト1世であると言う政治宣伝を繰り広げた。
セヘテプイブラー・アメンエムハト1世の統治により、エジプト第12王朝始まる。
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『ネフェルティの予言』
ネフェルティの予言』は理想化された過去の時代である古王国時代の第4王朝を舞台にして神官ネフェルティがスネフェル王に予言を聞かせるという形式の文書である。 この文書によればネフェルティはスネフェル王の求めに応じて、全土が混乱と掠奪に晒されることや下エジプト(ナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入のあることを語った。 そしてその混乱状態を救済する者として、南方からアメニ(アメンエムハト1世の通称)が現れ、彼が国土を統一するであろうと予言したとする。 この作品はアメンエムハト1世の在位中か死亡直後に作成されたと考えられている。
エジプトの混乱について述べる部分は『イプエルの訓戒』など他の文学作品の描写と符合し、明らかに第1中間期の社会を描いたものである。 そして混乱を収める者としてアメンエムハト1世が登場するとし、しかもそれを数百年以上前に予言されていたこととすることで信頼性を得ようと試みている。
※ ※ ※
正統性を確保するため、また戦略的な理由から、首都をテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)から古王国時代の首都メンフィスのそばに建設したイチ・タウィへと移した。 「二つの土地の征服者」と言う意味の名を持つこの新首都は、正確な位置が未だ不明なままである。 そして近郊のエル・リシュトにピラミッド複合体の建設を行い、旧秩序の復活者としての立場を明確なものとしていった。 更にアメンエムハト1世は第11王朝時代に任命されていた州侯を罷免し、王室に敵対的であるとして排除された有力者の地位を復活させた。 これはアメンエムハト1世の即位が第11王朝の政策に不満を持つ有力者の支持を背景としたものであったためである。 しかし、家臣が強大な権力を持つことは王権の側からは好ましいことであるはずも無く、第12王朝の歴代王は長期的には州侯などの権力を削いでいく方針を持って統治に当たった。
前1976年
都市ラルサの君主エミスムが死去したため、サミウムが君主を継承する。
イシン第1王朝のシュ・イリシュ王が死去。 イディン・ダガンが王を継承する。
前1975年頃
ペレグ30歳の時、息子リウが生まれる。
前1971年
アメンエムハト1世が息子のセンウセルト1世に「共同王」という位を与え、王位継承を確かな物にしようとした。これは後に大きな効果を発揮した。アメンエムハト1世が国内基盤の整備に力を注ぐ一方で、センウセルト1世は対外遠征を取り仕切り、シナイ半島やリビア人への遠征を行った。
前1962年
エジプト第12王朝を統治していたアメンエムハト1世が衛兵により、暗殺される。
『シヌヘの物語』によれば、共同王センウセルト1世はリビア人に対する遠征に勝利して帰還する途上であったが、父王暗殺の報を受けると軍隊を残し、少数の従者と共に急ぎ首都に帰還した。 そして恐らくアメンエムハト1世暗殺によって王位を得ようとした別の王子を殺害し、混乱を素早く収集して王位を保持することに成功した。 共同王を置いたことが王位簒奪の防止に有効であることが実例を持って証明された。 センウセルト1世が作成した『アメンエムハト1世の教訓』によれば、アメンエムハト1世は夕方に一時間余りの休養をとって寝台に横になっていた所、衛兵によって襲われた。彼は激しく抵抗したものの武器が無く、遂に殺害された。
共同王であったケペルカラー・センウセルト1世が統治。センウセルト1世は父王の政策を受け継いで国内の基盤整備に尽力した。 南方のヌビアへの遠征が行われて重要な金鉱が確保され、騒乱に対応するために少なくても13の要塞を南部に建設した。 彼は各地で熱心に建築事業を行い、現在でもエジプトの全域からセンウセルト1世にまつわる遺跡が残されている。 中でも治世第30年に建設されたオベリスクは立った状態のまま現存するものとしては最古のものである。
前1955年頃
リウ30歳の時、息子ナホルが生まれる。
イシン第1王朝のイディン・ダガン王が死去。 イシュメ・ダガンが王を継承する。 イシュメ・ダガンの治世には経済改革が行われたらしい事が後世の文学作品より知られている。 その中でも彼の治世にニップル市に対して免税特権が与えられたことが強調されているが、これ自体は経済政策というよりは、宗教的中心地であったニップル市の有力者の歓心を買う事で離反を阻止しようとしたものであるとされる。 この他、徳政令の発布や娘をウルの女性祭司に任命するなどの処置を行って国内の安定に努めた。 彼の治世以降たびたび発布される徳政令は、経済面において何らかの社会不安が醸成されていたことを示すともいわれる。 こうした政策は息子のリピト・イシュタルに受け継がれることになる。
前1950年
ニップールで銅の秤によるシュメール・キュビトの制定。51.72 cm。
前1944年
イシン第1王朝が拡大を続ける一方で、ラルサ市でアムル人ザバイアが支配権を握る。
前1941年
都市ラルサの君主サミウムが死去したため、ザバイアが君主を継承する。 ザバイアが新王朝を樹立する。これをラルサ王朝とよぶ。 ザバイアはラルサ王朝で初めての王であるが、様々な資料から確認してみたところ、実は4代目である事が判明。
前1934年
イシン第1王朝のイシュメ・ダガン王が死去。
リピト・イシュタルが王を継承する。
彼は父王が行っていた社会改革を継続するとともに、領内の安定のためにイシン市を初めニップルやウルで減税処置や徳政令を発布して社会の安定を図った。 リピト・イシュタル法典と呼ばれる法律文書を残した。
また、父王に倣って娘をウルの女性祭司に任じた。
リピト・イシュタルのこれらの行動は明らかにウル第3王朝の王達を意識したものであるが、それとは裏腹に彼は対外的な困難に直面した。 領内の反乱に加え、アムル人諸部族の圧力が強まっており、更に決定的なことにラルサがグングヌム王の下で急激に勢力を拡大していた。
前1932年
アモリ人が、ウルを征服する。
ラルサ王朝のザバイア王が死去したため、グングヌムが君主を継承する。
前1929年
ケペルカラー・センウセルト1世が、息子アメンエムハト2世を共同王に任命。
前???年
ラルサ王朝グングヌムと、イシン王朝リピト・イシュタルが、南部メソポタミアの覇権を巡って激しく争った。 特にその初期の戦いで焦点となったのはウル市の争奪戦である。
ウルは旧ウル第3王朝の都であり、「ウル第3王朝の後継者」という立場を取る両王朝にとっては大義名分を支える政治的意味合いが強かった上に、ペルシア湾を通じた交易の拠点でもあり、戦乱で損傷していたとはいえその支配権は重大問題であった。
前1926年
エジプト第12王朝を統治していたケペルカラー・センウセルト1世が死去。 この時、とくに大きな混乱は無かった。
共同王であったネブカウラー・アメンエムハト2世が統治。 これよりセンウセルト2世の代まで、安定した平和が継続する。
活発な建築活動が継続して行われており、また食糧生産の増加を目指して農地開発が行われた。
前1925年
ラルサ王朝グングヌムと、イシン王朝リピト・イシュタルによる、ウルの争奪戦において、イシン王朝は最終的にラルサ王朝によるウル占領を阻止することはできなかった。 ウル市失陥はイシン第1王朝の覇権維持にとって致命傷とも言える出来事であり、その後のイシン没落に繋がることとなった。 そしてウル市失陥はリピト・イシュタル自身の権威にとっても致命傷であった。
前1924年
ウル市がラルサ王朝に、完全に占領された。
リピト・イシュタルは、ウル・ニヌルタによって王位は奪われ、死去した。
ウル・ニヌルタがイシン第1王朝の王となる。
前1920年
中国の黄河で大洪水が発生。2016年8月5日調べでは、現在の黄河よりも38メートルも高い水位であった事が判明。以後の夏王朝と中国文明の誕生につながる。 この事から、この大洪水は地球史上でノアの洪水よりも規模の高い最大規模の大洪水であった事が推測される。
前1916年頃
ナホル29歳の時、息子テラが生まれる。
前1913年
エジプトとヌビアの戦争が起こる。( - 1903年)
前1905年
ラルサ王朝のグングヌム王が死去したため、アビ・サレが王を継承する。
前1900年頃
アカイア人、ギリシアに侵攻。
最後のシュメール人王朝の没落。
紀元前1900年頃にはセム人系のアムル人が巨大都市バビロンを都として古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を始めた。
イェリコに再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。
前1897年
ネブカウラー・アメンエムハト2世が、息子センウセルト2世を共同王に任命。
前1896年
イシン第1王朝のウル・ニヌルタ王が死去。
ブル・シンが王を継承する。
前1895年
エジプト第12王朝を統治していたネブカウラー・アメンエムハト2世が死去。 共同王であったカーケペルラー・センウセルト2世が統治。
大規模な干拓工事がファイユーム(Faiyum)で着工された。 ファイユームは当時ナイル川の水が流れ込んで作った湿地帯が広がり、農耕の困難な土地であったが、大規模な堤防を築くことでナイル川からの水の流入を防ぐことが試された。
前1894年
ラルサ王朝のアビ・サレ王が死去したため、スム・エルが王を継承する。
メソポタミア中部の都市バビロンで、アムル人の王スムアブムが独立勢力を築くことに成功する。
この時期のバビロンは地方の一都市に過ぎなかったが、スムアブムとその後継者たちは城壁の建造をはじめ各種の建築事業を通じて、この都市を首都にふさわしく造り変えていった。 彼は城壁の建造を初め連年の神殿や運河などの建築事業を通じてバビロンの拡充を図るとともに、周辺で同じように成立した小規模なアムル系独立国家との戦いに勝利を重ね王朝の基盤を作っていった。
前1891年
イシン第1王朝のブル・シン王が死去。
リピト・エンリルが王を継承する。
前1886年
イシン第1王朝のリピト・エンリル王が死去。 イルラ・イミッティが王を継承する。
彼の時代、長年に渡って敵対を続けていたラルサ王朝との間でニップル市の最終的な帰属を決める戦いがあり、イルラ・イミッティはそれに敗れてニップル市をラルサに占領された。この結果イシン第1王朝はイシン市の近辺に影響力を及ぼすに過ぎない小国となり、以後重要な役割を果たす事は無くなった。 イルラ・イミッティは記録に残る最古の身代わり王の儀式に登場する人物として知られている(詳細は身代わり王の項目を参照。)。 占いによって凶兆が訪れることを知ったイルラ・イミッティは、エンリル・バニと言う男を身代わり王とし、自分は平民の姿をして凶兆を逃れようとした。 しかし、イルラ・イミッティは身代わり王に王位を任せている間に熱いスープにむせて死んでしまった。 その結果、エンリル・バニが正式な王となったという。これは多分に伝説的な話であり、史実であるかどうか定かではない。
前1882年
古バビロニア王国(バビロン第1王朝)がカザル市を破壊。
前1881年
バビロン第1王朝において、スムアブム王が死去。
彼が征服した都市の幾つかが離反。
前1880年
バビロン第1王朝において、スムラエルが王位を継承する。
前1878年
エジプト第12王朝を統治していたカーケペルラー・センウセルト2世が死去。
エジプト第12王朝をカーカウラー・センウセルト3世が統治。
ファイユーム干拓工事が完成し、ファイユームはエジプト有数の穀倉地帯となった。
この時代は、各地の州侯達の力が再び王権を凌駕しかねないほどに強くなっていたが、彼はこれに対抗するために全国土を北、南、最南の三つに分割し、おのおのに高官会議を設置して州侯を統制するという制度を築いて内政の安定を実現した。 彼の治世の間に各地の州侯が建設する墓などは目立って縮小、減少しており、弱体化は明らかである。更に特定の役人に権力が集中するのを防ぐために、一つの事項を決定する際に必ず複数部門が関与する方式を取った。 そして南方のヌビアに対する支配を更に広げるべく数次にわたるヌビア遠征が行われた。 これらの遠征は成功のうちに終わり、センウセルト3世は自らの勝利を碑文で高らかに謳い上げている。
イシン第1王朝のイルラ・イミッティ王が死去。 エンリル・バニが王を継承する。
前1870年頃
ウル第3王朝の弱体化につれて、エシュヌンナやイシン、ラルサといった諸国が次々とウル第3王朝から独立していった。 ウルクは当初イシン第1王朝の支配下にあったが、イシンがラルサとの戦いによって弱体化していく。
シン・カシドもまた、新王朝への独立をはかる。
前1865年
ラルサ王朝のスム・エル王が死去したため、ヌル・アダドが王を継承する。
前1860年頃
イシンがラルサとの戦いによって弱体化する中、イシン王朝より独立し、アムル人によってウルク第6王朝が建国。 しかしウルクは弱小であり、当時重要な国として現れることはない。独立後事実上ラルサの属国として存続した。
シン・カシドが、イシンから完全に独立。ウルク第6王朝を樹立する。 この王朝は当時のメソポタミアの大半の王朝と同じくアムル人によって建設された。 しかしウルクは弱小であり、当時重要な国として現れることはない。
独立後事実上ラルサの属国として存続した。
前1854年
イシン第1王朝のエンリル・バニ王が死去。
ザンビヤが王を継承する。
前1851年
イシン第1王朝のザンビヤ王が死去。
イテル・ピシャが王を継承する。
前1850年頃
ウルク第6王朝においてシン・エリバムが王として即位。
アナトリア、ヒッタイト帝国が起こる。
前1849年
ラルサ王朝のヌル・アダド王が死去したため、シン・イディナムが王を継承する。
前1847年
イシン第1王朝のイテル・ピシャ王が死去。
ウル・ドゥクガが王を継承する。
前1846年頃
テラ70歳の時、息子アブラム(アブラハム)が生まれる。 また、ナホル(II世)、ハランが生まれる。
文明が発祥したメソポタミア地方カルデアのウルにおいて裕福な遊牧民の家に生まれる。
ヘブライ教/旧約聖書においては、これ以降レアまでの時代を族長時代と定義している。
前1845年
バビロン第1王朝において、スムラエル王が死去。
前1844年
バビロン第1王朝において、サビウムが王位を継承する。
前1843年
イシン第1王朝のウル・ドゥクガ王が死去。
シン・マギルが王を継承する。
前1842年
カーカウラー・センウセルト3世が、息子アメンエムハト3世を共同王に任命。
ラルサ王朝のシン・イディナム王が死去したため、シン・エリバムが王を継承する。
前1841年
エジプト第12王朝を統治していたカーカウラー・センウセルト3世が死去。
共同王であったニマートラー・アメンエムハト3世が、エジプト第12王朝を統治。
前1840年
ウルク第6王朝においてシン・ガミルが王として即位。
ラルサ王朝のシン・エリバム王が死去したため、シン・イキシャムが王を継承する。
前1836年頃
テラと後妻との間に、サラが生まれる。後にアブラムと結婚する。
前1835年
ウルク第6王朝においてアナムが王として即位。
ラルサ王朝のシン・イキシャム王が死去したため、ツィリ・アダドが王を継承する。
エラム地方の王の一人であった古代メソポタミアのアムル人の族長クドゥル・マブクが、ラルサ王朝を強襲し、シツィリ・アダド王を追放する。 クドゥル・マブクは自らを王と名乗らず、息子ワラド・シンを、ラルサ王朝の王として即位させる。
また、クドゥル・マブクはこの時より、「アムルの父」、「エムトゥバルの父」と称しはじめる。 彼はニップル市などに圧力をかけて、ワラド・シンが正当なラルサ王であることを認めさせ、南部メソポタミアの実質的な支配者となっていった。
前1834年
クドゥル・マブクの息子ワラド・シンが、ラルサ王朝の王となる。
前1831年
バビロン第1王朝において、サビウム王が死去。
前1830年
バビロン第1王朝において、アピル・シンが王位を継承する。
ウルク第6王朝においてイルダネネが王として即位。
前1829年
エジプトとヌビアの戦争が起こる。( - 1818年)
前???年
ハランとその妻の間に、ロト、ミルカ、イスカが生まれる。
前1822年
ラルサ王朝のワラド・シン王が死去したため、その弟リム・シン1世が王を継承する。
この時は、クドゥル・マブクが実質的な支配者として君臨した。
前1820年
イシン第1王朝のシン・マギル王が死去。
ダミク・イリシュが王を継承する。
ウルク第6王朝においてリム・アヌムが王として即位。
前1815年
ラルサ王朝の王リム・シン1世の父クドゥル・マブクが死去。
これにより、リム・シン1世の実質的な治世が行われる。
前1813年
アモリ人、北メソポタミアを征服。
バビロン第1王朝において、アピル・シン王が死去。
シャムシ・アダド1世が、アッシリア王エリシュム2世を倒し、アッシリアの新王となる。
前1812年
バビロン第1王朝において、シン・バリムトが王位を継承する。
前1810年
ウルク第6王朝においてナビ・イリシュが王として即位。
前1808年
バビロン第1王朝が勢力を拡大する。 ウルク王ナビ・イリシュはバビロン王シン・ムバリトと同盟を結ぶ。
前???年
テラは、その息子アブラムと、孫でアブラムの甥に当たるロト、アブラムの異母妹に当たるサライ(のちのサラ)と共にカナンの地(ヨルダン川西岸。現在のパレスティナ)に移り住むことを目指し、ウルから出発した。
前1806年
伝統的記年法による夏王朝の終焉。
前1802年
バビロン・ウルク連合軍が、ラルサ王朝と衝突。リム・シン1世が連合軍を打ち破り、ウルク王朝を占領する。
ウルク王朝が、ラルサ王朝リム・シン1世によって滅ぼされ、傘下に吸収される。